日本大百科全書(ニッポニカ) 「トゥパク・アマル」の意味・わかりやすい解説
トゥパク・アマル(2世)
とぅぱくあまる
Túpac Amaru Ⅱ
(1738―1781)
1780年に起きた南アメリカにおける先住民反乱の指導者。本名ホセ・ガブリエル・コンドルカンキJosé Gabriel Condorcanqui。インカ最後の皇帝フェリペ・トゥパク・アマル(?―1572)の後裔(こうえい)として、ペルー南部クスコ市の南のスリマナ村に生まれる。当時はスペインによる植民地支配の末期にあたり、鉱山、農園での強制労働(ミタ制)や、地方行政官による物品の強制販売(レパルト制。事実上の徴税)など先住民の負担は過重であった。この状況に対し、スリマナほか3か村の首長であったトゥパク・アマルは、1780年11月4日、地方の最高行政官アリアガを襲い反乱の火ぶたを切った。有能な副官である妻ミカエラ・バスティダスMicaela Bastidas(1744/1745―1781)に助けられ、植民地支配の変革を掲げ、1万人近い反乱軍を指揮したが、翌年妻子郎党とともに処刑された。しかし反乱は、ペルーはもとよりボリビア、アルゼンチン、コロンビア、ベネズエラまで波及し、スペイン植民地体制を震撼(しんかん)させた。南アメリカ独立にとっての「米州解放の先駆者」という評価を得ている。
[辻 豊治 2022年8月18日]
『寺田和夫著『インカの反乱――血ぬられたインディオの記録』(1964・筑摩書房)』