パリ伯(読み)パリはく(その他表記)Comtes de Paris

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ伯」の意味・わかりやすい解説

パリ伯
パリはく
Comtes de Paris

中世フランスで国王に任命されたパリ地区の支配者。カロリング朝初期の王が任命したが,当時の王に実権はなく,ロアール北部地域はロベール (866没) の支配下にあった。ロベールの息子のユードが 880年パリ伯に任命され,ノルマン侵入を防ぎ功績をあげた。彼は 888年みずから王となったのでパリ伯の地位を弟に譲った。次いで弟も王となり (ロベール1世) ,パリ伯はその子のユーグに譲られた。ユーグの息子のユーグ・カペーがパリ伯の地位をバンドーム=コルベール伯老ブシャールに譲り,彼の引退をもってパリ伯の名は消えた (1005頃) 。七月革命後のオルレアン朝のときパリ伯の名が復活したが,1886年6月の「旧王族追放令」のため外国に居住を余儀なくされ,のち名目的なものになった。

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世界大百科事典(旧版)内のパリ伯の言及

【オルレアン王党派】より

…第二帝政下においては,オルレアン王党派は分裂し,帝政に荷担する者もいたが,指導層はナポレオン3世に対する協力を拒否した。70年9月第二帝政が崩壊した時点では,オルレアン王党派はルイ・フィリップの孫のパリ伯Louis‐Philippe Albert d’Orléans,comte de Paris(1838‐94)を王位につけようとしたが,オルレアン王党派の中の中央左派はティエールに従って共和政を支持し,他方,中央右派も73年に正統王朝のシャンボール伯Henri V de Bourbon,comte de Chambord(1820‐83)が国旗として正統王朝の白旗を主張したため両王党派の合体による王政復古の企図を放棄した。これ以後オルレアン王党派は議会においても勢力を失い,独立した政治党派としては衰退した。…

※「パリ伯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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