1830年7月,ナポレオン没落後のフランスの正統ブルボン王朝の復古王政を崩壊させ,七月王政の成立をまねいた市民革命。復古王政の国家基本法〈憲章La Charte〉(1814年6月発布)はルイ18世による欽定憲法であるが,これは王権の神聖不可侵性・世襲制を定める一方,法の前の平等,所有権の不可侵等を承認するもので,相対立する二つの原理,絶対主義と近代市民社会とにもとづき,立憲王政を行うものであった。また,厳しい制限選挙制により,下院の選挙権は30歳以上,直接税300フラン以上の納税者,被選挙権は40歳以上,1000フラン以上の納税者(両方で約9万人)に限定され,政治は大土地所有者(土地貴族)と一部上層ブルジョアに独占された。1816年以降,立憲王党派(近代地主と大ブルジョアジー中心,ドクトリネールを含む)が支配したが,土地貴族の優位を拡大した新選挙法により20年,超王党派(〈ユルトラUltra〉。亡命貴族,カトリック聖職者中心)が勝利した。さらに24年,ルイ18世の病没の後を継いだユルトラの首領で王弟のアルトア伯が即位(シャルル10世)すると,アンシャン・レジームへの復帰を望むユルトラ派は,言論弾圧,教権拡大,〈亡命貴族の10億フラン法〉の制定など,激しい反動政策を推し進めた。これに対し,自由主義ブルジョアを中心とする反ユルトラ派は,全国で反政府キャンペーン,選挙法改正運動を展開し,27年の選挙ではユルトラ派を敗北に追い込んだが,シャルル10世は29年,反動貴族ポリニャックJules-Auguste-Armand-Marie de Polignac(1780-1847)を首相に任命し,両派の対立は頂点に達した。この間,1825年のイギリス経済危機がフランスにも波及し,これに農業危機が加わり,労働者の賃金の低下,失業の増大,穀物価格の急騰により各地で食糧暴動,労働争議が頻発していた。
30年1月,パリではオルレアン派のティエールらが《ル・ナシヨナル》紙を創刊し,自由主義者と共和派の結集をめざし,学生は組織化された。3月,内閣の不信任を決議した議会は解散させられたが,選挙で再び反政府派が勝利すると,国王は7月26日,4ヵ条の緊急勅令〈七月勅令〉を発布し,(1)出版の自由の停止,(2)未召集の議会の解散,(3)新選挙法の制定,(4)9月選挙を命じた。これに対し《ル・ナシヨナル》紙を中心に新聞編集者43名は共同抗議文を発し,公然と国民の抵抗を呼びかけた。27日,印刷所に警察が動員されたが,その夜から,共和主義者,学生結社による蜂起の準備が進められ,労働者がこれに加わり,バリケードが築き始められた。28日,市街戦が始まったが,政府軍2連隊の革命側への寝返りもあり,パリは29日正午までには,蜂起した民衆の手に落ちた。この間,パリ市民は大銀行家ラ・ファイエットを中心に,市庁舎にパリ市委員会を結成したが,無組織で彼らの手により共和政を樹立していくほど強大でなくラ・ファイエットの指導によっていた。30日,策動したオルレアン派はラ・ファイエットとの妥協に成功し,ブルボン支配の終焉を宣言し,パリ市民が希望していた共和政への動きを封じ込め,オルレアン公ルイ・フィリップの即位を実現させた。民衆による〈栄光の三日間〉は,新たな王政(七月王政)の出現で終わったが,このパリの革命は,フランスを神聖同盟より離脱させ,ヨーロッパ各地の自由主義運動の台頭を促し,小国の独立運動を引きおこし正統復古主義に基づくウィーン体制の弱体化の契機ともなり,対外的にも重要な意味があった。
執筆者:赤司 道和
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1830年7月、フランスにおいてブルボン復古王政が倒された革命をいう。
[服部春彦]
1825年ごろからシャルル10世の露骨な反動政策に対して国民各層の不満が深まり、27、28年の経済不況がそれをいっそう激化させた。27年の下院選挙では反政府派が過半数を制したが、29年8月過激王党のポリニャックが内閣を組織すると、ブルジョア自由主義者と学生、小市民ら共和派の反抗が急速に強まった。30年3月の国王の議会開会演説は、公安維持のために非常大権の行使をほのめかす威嚇的なもので、下院は「221名の奉答文」によって内閣に対する不信と協力拒否を表明した。国王は5月16日議会を解散したが、選挙の結果は反政府派の圧勝となったため、7月25日勅令を発して定期刊行物の自由の停止、未招集議会の解散、選挙法改正、9月選挙を命じた。この七月勅令は、言論統制の強化によって反政府派の政治活動の手段を奪うとともに、選挙法を大土地所有者に有利に改めることによって政府派が多数を占める議会を創出しようとするものであった。
[服部春彦]
この勅令に対してパリのジャーナリストは、7月26日チエールを中心に共同抗議文を起草、翌27日自由主義的新聞に対する警察の弾圧を口火に、労働者、小市民、学生らパリ民衆の武装蜂起(ほうき)が起こった。28日には民衆と国王軍との間に終日市街戦が展開されたが、民衆はしだいに軍隊を圧倒し、29日にはついにルーブル宮に侵入、正午過ぎにはパリは完全に革命側の手に帰した。蜂起の勝利とともに大銀行家ラフィットを中心とする自由主義政治家たちは、市委員会を組織して事態の主導権を握り、30日ブルボン家の支配の終焉(しゅうえん)を宣言、進歩的王族として知られていたオルレアン公ルイ・フィリップを国王代理官の地位につけ、蜂起指導者が目ざしていた共和国の樹立を阻止することに成功した。七月革命は、ブルボン派の旧貴族=大土地所有者の政治支配を決定的に打ち破ったが、しかし27~29日の「光栄の三日間」の民衆革命の成果は、大ブルジョアの手に摘み取られたのである。シャルル10世は、王位を孫ボルドー公(後のシャンボール伯)に継がせようとしたが、オルレアン公はこれを認めず、王はイギリスへの亡命の途についた。8月3日、オルレアン公は議会を招集して1814年憲章の改正を告げ、ラフィット、チエールらにより起草された修正憲章が7日両院で可決された。これはブルボン王権の正統性を説く旧憲章の前文と国王の緊急勅令発布権の規定を削除し、かつ、従来国王が独占していた法律発議権を上下両院にも認めるものであった。8月9日、オルレアン公は議会から「フランス人の王」の称号を受け、自ら修正憲章に宣誓して王位につき、正式に七月王政が発足した。
七月革命の成功は、ウィーン体制下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与え、各地で自由主義、民族主義の運動が起こったが、ベルギーがオランダから独立をかちとったほかは、反動勢力によって鎮圧された。
[服部春彦]
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フランスで,1830年7月に,復古王政以来の正統ブルボン王朝が倒された革命。復古王政期には,亡命先から帰国した旧貴族をはじめとする反動が強く,上層ブルジョワジーを基盤とする自由主義者がこれに対立していたが,シャルル10世の治下にこの対立が激化し,1830年春には議会が王および反動的内閣と衝突した。このときシャルル10世が,出版の自由の制限や選挙法の改悪を強行したため,同年7月にパリで蜂起した民衆と政府軍との間に市街戦が生じ,シャルル10世は亡命し,金融業者などの支持のもとにオルレアン家のルイ・フィリップが即位し,七月王政が始まった。
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…7月にシャルル10世が勅令を発布すると,《ナシヨナル》の編集室には43人のジャーナリストらが集まるが,ティエールはその中心になって,この七月勅令に対する共同抗議文を起草した。これは七月革命の発生を促す契機となり,蜂起した民衆は共和政の実現を期待した。しかし彼はラフィットやカジミール・ペリエらとともにルイ・フィリップを擁立し,七月王政を樹立させた。…
※「七月革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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