ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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1830年7月、フランスにおいてブルボン復古王政が倒された革命をいう。
[服部春彦]
1825年ごろからシャルル10世の露骨な反動政策に対して国民各層の不満が深まり、27、28年の経済不況がそれをいっそう激化させた。27年の下院選挙では反政府派が過半数を制したが、29年8月過激王党のポリニャックが内閣を組織すると、ブルジョア自由主義者と学生、小市民ら共和派の反抗が急速に強まった。30年3月の国王の議会開会演説は、公安維持のために非常大権の行使をほのめかす威嚇的なもので、下院は「221名の奉答文」によって内閣に対する不信と協力拒否を表明した。国王は5月16日議会を解散したが、選挙の結果は反政府派の圧勝となったため、7月25日勅令を発して定期刊行物の自由の停止、未招集議会の解散、選挙法改正、9月選挙を命じた。この七月勅令は、言論統制の強化によって反政府派の政治活動の手段を奪うとともに、選挙法を大土地所有者に有利に改めることによって政府派が多数を占める議会を創出しようとするものであった。
[服部春彦]
この勅令に対してパリのジャーナリストは、7月26日チエールを中心に共同抗議文を起草、翌27日自由主義的新聞に対する警察の弾圧を口火に、労働者、小市民、学生らパリ民衆の武装蜂起(ほうき)が起こった。28日には民衆と国王軍との間に終日市街戦が展開されたが、民衆はしだいに軍隊を圧倒し、29日にはついにルーブル宮に侵入、正午過ぎにはパリは完全に革命側の手に帰した。蜂起の勝利とともに大銀行家ラフィットを中心とする自由主義政治家たちは、市委員会を組織して事態の主導権を握り、30日ブルボン家の支配の終焉(しゅうえん)を宣言、進歩的王族として知られていたオルレアン公ルイ・フィリップを国王代理官の地位につけ、蜂起指導者が目ざしていた共和国の樹立を阻止することに成功した。七月革命は、ブルボン派の旧貴族=大土地所有者の政治支配を決定的に打ち破ったが、しかし27~29日の「光栄の三日間」の民衆革命の成果は、大ブルジョアの手に摘み取られたのである。シャルル10世は、王位を孫ボルドー公(後のシャンボール伯)に継がせようとしたが、オルレアン公はこれを認めず、王はイギリスへの亡命の途についた。8月3日、オルレアン公は議会を招集して1814年憲章の改正を告げ、ラフィット、チエールらにより起草された修正憲章が7日両院で可決された。これはブルボン王権の正統性を説く旧憲章の前文と国王の緊急勅令発布権の規定を削除し、かつ、従来国王が独占していた法律発議権を上下両院にも認めるものであった。8月9日、オルレアン公は議会から「フランス人の王」の称号を受け、自ら修正憲章に宣誓して王位につき、正式に七月王政が発足した。
七月革命の成功は、ウィーン体制下のヨーロッパ諸国に大きな影響を与え、各地で自由主義、民族主義の運動が起こったが、ベルギーがオランダから独立をかちとったほかは、反動勢力によって鎮圧された。
[服部春彦]
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…7月にシャルル10世が勅令を発布すると,《ナシヨナル》の編集室には43人のジャーナリストらが集まるが,ティエールはその中心になって,この七月勅令に対する共同抗議文を起草した。これは七月革命の発生を促す契機となり,蜂起した民衆は共和政の実現を期待した。しかし彼はラフィットやカジミール・ペリエらとともにルイ・フィリップを擁立し,七月王政を樹立させた。…
※「七月革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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