共同通信ニュース用語解説 「ヤルタ協定」の解説
ヤルタ協定
第2次大戦後の世界の大枠を定めた協定。1945年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ3首脳がクリミア半島ヤルタに集まり、それぞれの勢力圏を取り決めた。(1)米英仏ソ中の5大国が国際平和と安全を取り仕切る国連の創設(2)米英仏ソによるドイツ分割占領(3)南樺太や千島列島の対ソ返還・引き渡しと対日参戦-などに合意した。
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第2次大戦後の世界の大枠を定めた協定。1945年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ3首脳がクリミア半島ヤルタに集まり、それぞれの勢力圏を取り決めた。(1)米英仏ソ中の5大国が国際平和と安全を取り仕切る国連の創設(2)米英仏ソによるドイツ分割占領(3)南樺太や千島列島の対ソ返還・引き渡しと対日参戦-などに合意した。
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…ただ,大統領固有の権限に基づく場合にどの事項が行政協定になじむのか,その区別が明確でない。1945年のヤルタ協定は,ローズベルト大統領が行政協定の形式で締結したものであったが,権限乱用との批判をあびた。日米行政協定は,アメリカ軍の配備を規律する条件を定め,52年,日米安全保障条約と同時に発効した。…
…このソ連国民の闘いこそ,ナチス・ドイツを打ち破った最も重要な力であった。ドイツに対する勝利ののち,アメリカの求めで,ソ連はヤルタ協定(ヤルタ会談)に基づいて,ヨーロッパから軍を東へ送り,8月8日日本に宣戦布告し,満州(中国東北)の関東軍を攻撃した。これによって日本をポツダム宣言受諾に追い込んだのである。…
…まず43年1月25日のカサブランカでの会談では,ローズベルト・アメリカ大統領とチャーチル・イギリス首相が日独伊3国に無条件降伏を要求すると言明し,同年10月19~30日モスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,日独伊など〈敵国〉の占領統治は直接その国を軍事占領した連合国が排他的な実権を握って実施することが決定され,席上,スターリン・ソ連首相は,ドイツ降伏後に対日参戦を行うと初めて述べた。次いで同年11月27日のカイロ宣言(〈カイロ会談〉の項を参照)では,満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏などが定められ,45年2月11日のヤルタ協定(〈ヤルタ会談〉の項を参照)では,南樺太のソ連への返還と千島列島のソ連への引渡しを条件とするソ連対日参戦が決定され,さらに7月26日のポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を2本の柱とする対日処理方針を受諾し,即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。…
…アメリカ大統領F.ローズベルト,ソ連首相スターリン,イギリス首相チャーチルほか,3国の外相および軍首脳が参加した。連合国の協調が最高点に達したのはこのときだといわれ,戦後国際秩序の形成にとって重要な意味をもったさまざまな取決めが行われた(ヤルタ協定)。 まず戦後世界機構に関しては,大国の拒否権,国際連合設立会議(サンフランシスコ会議)を4月25日から開催すること,その招請国の範囲,などで3国の一致がえられた。…
※「ヤルタ協定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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