1879年(78年説も)ジョージア(グルジア)の靴職人の子として生まれる。神学校在学中にソ連共産党の前身組織に入り地下活動。1917年のロシア革命後、指導者レーニンの下で要職を歴任し、22年に党書記長。24年のレーニン死後、党内権力を固め、30年代後半には反対派らを大粛清。40年代にはドイツ系や朝鮮系などの住民を強制移住させた。対日参戦を含む第2次大戦と戦後復興を指導し、53年病死。56年、第1書記フルシチョフに個人崇拝などを批判された。(共同)
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本名ジュガシビリДжугашвили/Dzhugashvili。ソ連の政治家。12月21日ジョージア(グルジア)のゴリという町の靴屋の子に生まれる。チフリス(現、ジョージア・トビリシ市)の神学校在学中にマルクス主義の洗礼を受け、職業革命家の道に入った。ロシア社会民主党のボリシェビキ派に属し、逮捕と流刑、脱走を繰り返しながら、チフリス、バクーなどで地下活動に従事した。1912年のプラハ協議会でレーニンの指導下にボリシェビキ党が結成されると、その中央委員になり、機関紙『プラウダ』の刊行に参加した。翌1913年レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を著した。そのころからスターリン(鋼鉄の人)の変名を用いるようになったが、まもなく逮捕されてシベリアに流刑。1917年の二月革命で解放され、ペトログラード(のちのレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルグ)に帰って『プラウダ』編集部に復帰した。初めカーメネフとともに臨時政府に妥協的な方針で党を指導したが、同年4月のレーニン帰国後はレーニンに従った。十月革命に際してはレーニンの即時蜂起(ほうき)論を支持して活動した。ただし8月の党大会で入党したばかりのトロツキーに比べて目だつ存在ではなかったが、レーニンを首班とするソビエト政権に民族人民委員のポストを得た。革命に続く内戦期には、ツァリーツィン(のちのスターリングラード、現在のボルゴグラード)防衛戦、ペトログラード防衛戦、デニキン軍攻略戦などで政治的組織者として活動した。内戦が終結した1921年3月の第10回党大会の段階で、レーニン、カーメネフ、ジノビエフ、トロツキーとともに5人の政治局員の一人。しかし翌1922年に党の書記長を兼ねることにより、要員の配置を通じて党内の絶大な実権を手中にしうる地位についた。そのような権力の集中は病床のレーニンの深く憂慮するところとなった。ジョージアの民族問題の処理にみせたスターリンの粗暴さを重視したレーニンは、その後継指導者としての資質に懸念を抱き、遺言となった「大会への手紙」のなかで書記長の更迭の必要性を述べた。
しかしレーニンの病状悪化によってスターリンの政治生命は救われ、レーニンが1924年1月に死去すると、その葬儀において自分こそがもっとも忠実な弟子たることを党の内外に印象づけた。遺書に述べられた勧告は非公表とされた。同年5月の第13回党大会で書記長に留任。党内にカーメネフ、ジノビエフとともにいわゆる三頭連盟体制をつくってトロツキーの権威失墜を図り、1925年に彼を軍事人民委員のポストから解任した。理論的にはレーニン死後の一連の著作のなかで一国社会主義不可能論から可能論に転換し、トロツキーの永続革命論に論難を加えた。やがて三頭連盟体制に分裂が生じると、ブハーリンと組んで合同反対派と対抗した。1927年にはトロツキー、ジノビエフらを党から除名した。その後はモロトフらとともにブハーリン、ルイコフらの右翼反対派と抗争。こうしてスターリンは反対派党幹部を次々に失脚させ、1930年代に入ると、党と政府を一身に掌握する独裁的政治体制を築いた。1920年代末から始まった急速な工業化と農業の全面集団化はこの強権のもとで強行された。さらに1934年のキーロフ暗殺事件を契機に「大粛清」を開始。その対象は旧反対派幹部だけでなく、古参ボリシェビキ、軍首脳部から一般党員、一般市民にまで向けられた。この間、1936年にいわゆる「スターリン憲法」が制定された。
対外面では西欧民主主義諸国との協調による安全保障の道も追求されたが、これが失敗に終わると1939年にナチス・ドイツとの間に不可侵条約を結んだ。1941~1945年の独ソ戦では緒戦で大敗北を喫した。これはドイツの対ソ攻撃の見通しについてのスターリンの楽観的予測に起因するところが大きい。しかし国民の愛国心に訴えて反撃に成功。1922年以後の書記長、開戦の直前に就任した人民委員会議議長に加え、国防委員会議長、ソ連軍最高総司令官を兼務し、1943年には元帥、1945年には大元帥となり、戦争を通じて名実ともに権力を一身に集中し、その権威のもとに国民を結集して戦勝に導く一方、連合国首脳とともに戦後処理外交を推進、戦後世界秩序の枠組みをつくった。戦後その権威により引締め政策を国民に強いたが、1953年3月5日脳出血で死去した。
[原 暉之]
『スターリン全集刊行会訳『スターリン全集』全13巻(1952・大月書店)』▽『ドイッチャー著、上原和男訳『スターリン』全2巻(1963・みすず書房)』▽『トロツキー著、武藤一羊・佐野健治訳『スターリン』全3巻(1967・合同出版)』▽『アゴスティ著、坂井信義訳『評伝スターリン』(1985・大月書店)』
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ソ連邦共産党の指導者・政治家。本名ジュガシビリDzhugashvili。ソビエト社会主義体制の基礎を創出し,またスターリン主義を文字どおり体現した人物として,その評価は現代社会主義の最大の問題の一つとなっている。グルジアの靴屋の子として生まれ,ティフリス(現,トビリシ)の神学校に入った。在学中マルクス主義のグループに加わり,1901年に社会民主労働党ティフリス委員会の一員となる。1905年の革命はザカフカスでむかえる。その後も一貫してロシア国内で地下活動を行い,逮捕,流刑,脱走を繰り返し,革命家としての自己形成をはかる。12年に中央委員に任命され,レーニンのすすめで論文《マルクス主義と民族問題》(1913)を書いた。
1917年の二月革命後は一時臨時政府を条件つきで支持したが,その立場を捨て,レーニンの〈四月テーゼ〉を支持し,忠実なレーニンの信奉者となる。十月革命後は民族人民委員となるだけでなく,党・政府・軍隊での組織的任務にあたった。19年党中央委員会政治局員,組織局員に選出された。また同世代で,赤軍の創始者であるトロツキーと軍事面の指導をめぐり対立した。内戦期からネップ初期の党内論争ではレーニンの支持者として,ブハーリン,トロツキー,シリャプニコフA.G.Shlyapnikovら反対派と対立した。しかし,その役割は多く副次的なもので,彼の本領である地味な組織者としての特徴が評価され,22年に書記長に選ばれた。スターリンは書記局にモロトフ,カガノビチらを重用・抜擢(ばつてき)し,人事や配員を通じて急速に権力基盤を強めた。晩年レーニンはグルジア問題でのスターリンの指導に疑問を感じ,彼を書記長から解任することを決意し,トロツキーの支持を得ようとする。しかしスターリンはジノビエフ,カーメネフらと組んで,逆にトロツキーとその支持者を〈新航路論争〉で失脚させた。
レーニンの死後,スターリンはレーニン崇拝を促進し,その思想を〈レーニン主義〉として教義化する。24年以後は一国社会主義論を唱え,さらに25年末にはかつてトロツキー追放で一致したジノビエフらを指導部から追放し,工業化よりも農民との和解を重視したネップをブハーリンらとともに推進する。26-27年にはトロツキー,ジノビエフらが結成した〈合同反対派〉を党から追放し,多くの指導者を除名した。28年初めの穀物調達危機にさいし,スターリンはシベリア旅行後非常措置を強化し,これは,29年末にはクラーク絶滅政策と全面的集団化へと発展することとなる。1928年10月から開始された第1次五ヵ年計画では,重工業に重点をおき,それまでのネップの枠組みからの離脱をはかった。
29年にはトロツキーを国外追放にすると同時にブハーリン,ルイコフ,トムスキーM.P.Tomskiiらを党内右派として指導部から追放した。反対派追放は29年末のスターリン生誕50周年で頂点に達し,カガノビチ,モロトフらを中心とする党官僚層が政治的比重を高め,党内の自由な雰囲気も消えた。また文化革命の名のもと,スターリンは農学・歴史学の分野にも介入した。しかし農業集団化の極度の難航や強引な穀物調達は党内外に不満を生み,旧反対派だけでなく,忠実なスターリン派の党員や指導者のなかからも書記長の更迭を求める動きが生まれたといわれ,事実34年の第17回党大会ではキーロフと同格の書記の一人に選ばれたにすぎなかった。しかしキーロフが暗殺されて以後,スターリンはただちに内務人民委員のエジョフやベリヤを使嗾(しそう)して党員の粛清を開始した。3次のモスクワ裁判などを通じ,ジノビエフら反対派だけでなく,忠実な党員・軍人・官僚と,多くの無辜(むこ)の民衆を追放,抹殺した(大粛清)。36年には〈スターリン憲法〉を制定する。この憲法はブハーリンやラデックらを加えて起草されたもので,最も民主的な内容をもつといわれたが,適用の面では空文化していることが多かった。
ナチス・ドイツの台頭と国際関係の緊張が高まるにつれ,スターリンは39年8月ドイツとの不可侵条約を結ぶ。41年には人民委員会議長(首相)となるが,ドイツ軍の侵入の可能性を信じず,これが6月22日以降の緒戦での敗北の大きな原因となった。ナチスに対する国民的な抵抗で第2次世界大戦が終結に向かうと,スターリンはヤルタ会談などにおいて,F.D.ローズベルト,チャーチルとならんで戦後の国際秩序の形成に一役を演じた。また戦後の冷戦が激しくなるなかで,ソ連・東ヨーロッパでのスターリン主義的支配を強化する。しかし49年のレニングラード事件,53年の医師陰謀事件などで粛清が再開されたやさきの1953年3月,スターリンは死去し,ソビエト史は〈雪どけ〉とスターリン批判の時代に向かう。
著書も多く,前記のほか《レーニン主義の基礎》(1924),《弁証法的唯物論と史的唯物論》(1938),《マルクス主義と言語学の諸問題》(1950),《ソ連邦における社会主義の経済的諸問題》(1952)が著名である。
→スターリン主義
執筆者:下斗米 伸夫
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1879~1953
ソ連の指導者。グルジア人靴屋の子。神学校在学中に社会民主党に入り,1902年以後流刑,脱出,逮捕,流刑を繰り返しつつ,カフカースで活動。12年ボリシェヴィキ党中央委員になり,党の民族理論家。革命後民族人民委員となり,22年党中央委員会書記長となった。晩年のレーニンと対立するが,その死後は忠実な弟子として24年『レーニン主義の基礎』を著した。同年末,一国社会主義論を提唱,この立場からトロツキー,ジノヴィエフらを退け,20年代末にはブハーリンを退けて,党と政府を完全に握り,急速な工業化と農業集団化を推進した。30年代半ばには日独挟撃の恐怖のなかで大粛清を発動し,個人独裁に進んだ。第二次世界大戦と戦後の復興を指導,ソ連および全世界の共産主義者の畏敬を集めるなかで53年病死した。56年よりフルシチョフの個人崇拝批判が始まった。
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1879.12.9~1953.3.5
ソ連共産党の指導者。グルジア出身。神学校在学中にロシア社会民主労働党に入党,1912年党中央委員,22年共産党と改称した後,初代書記長となる。24年のレーニンの死後,トロツキー,ジノビエフ,ブハーリンなどを追放して最高実力者となり,急速な工業化と集団化を推進。30年代からは大粛清を強行して独裁的地位を築いた。53年の死後,その個人崇拝や理論に対する批判がなされた。
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…旧ソ連邦の最高峰でもあった。旧称スターリン峰Pik Stalina。標高7495m。…
…しかし,第1次世界大戦後のヨーロッパ諸国における革命運動が後退すると,革命ロシアは孤立の中で国内建設を余儀なくされた。このような状況の中で,1924年にスターリンによって唱えられたのが一国社会主義論である。彼はこの理論をレーニンに由来するものとしているが,むしろレーニンが革命時に想定していたのとは異なった新たな状況の産物とみるべきであろう。…
…しかし,グレゴリー・アレクサンドロフと共同で監督した革命10周年記念映画《十月》(1927)は,製作中にトロツキー解任などの政変があって一部修正を強いられ,公開が遅れる。中断していた農業の社会主義化を描く《全線》も完成したものの,スターリンの批判によって公式の農業政策をとり入れたものに改変を命じられ,《古きものと新しきもの》と改題されて29年にようやく公開の運びとなる。その年エイゼンシテインはティッセとアレクサンドロフを伴ってヨーロッパへ出発し,世界映画史に特記されるローザンヌの〈国際アバンギャルド映画会議〉に出席。…
… 共産党の起源をマルクス,エンゲルスが組織した1847年の共産主義者同盟,そして第一インターナショナル(インターナショナル)に求める見方もあるが,より直接的には,第1次大戦の勃発による第二インターナショナルの分裂・崩壊,レーニンらの指導による1917年11月のロシア革命の成功を経て,19年3月に第三インターナショナル(正式には共産主義インターナショナル,略称コミンテルン)という世界単一共産党が創設されたことが,かつて世界に存在した100を超える各国共産党などの政党の真の起源となった。そのことは,コミンテルン支部として組織された各国共産党のイデオロギー,戦略・戦術,行動様式,組織原則などが,その初期においてはコミンテルン創設者レーニンらの,ついでソ連共産党内部でスターリンの覇権が確立されていき,それと並行してコミンテルンのソ連共産党への従属が進行していくにつれて,スターリン主義の,ないしはスターリンが定式化した〈レーニン主義〉の圧倒的に深い影響下にあったことを意味している。とくに後者の影響は,第2次大戦後もかなり長く残ることになった。…
…指導者に対する大衆の盲目的支持がこうじ,あるいはそのような状況を利用して指導者が自己に対する服従を強制する結果,宗教運動に類似した指導者への献身的な崇拝が生じること。一般的に革命を経験した体制において生じやすく,スターリン体制でのソ連や,晩年の毛沢東下での中国のように,共産主義運動が権力を握った後の国家で顕著に現れた。第三世界のカリスマ的指導者や民族主義運動のリーダーにも,英雄崇拝のような形でみられ,擬似革命的な象徴形式を利用するファシズムでも,〈指導者原理〉として知られる指導者崇拝が行われた。…
…1923年1月のルール占領に端を発する危機的状況がドイツ共産党とコミンテルンによって効果的に利用されることなく去り,資本主義の相対的安定期に席をゆずるとともに,コミンテルンのあり方も大きく変貌を遂げていく。24年6月から7月にかけて開かれたコミンテルン第5回大会では,レーニンの姿はすでに見られず,ボリシェビキ党内の指導権争いでいちはやく有利な地位を占めたスターリンによって,〈ボリシェビキ化〉が提唱され,コミンテルンにおける党内民主主義の制限,ソ連の対外政策同調化への圧力が強まった。
[植民地・民族問題]
コミンテルンは,ヨーロッパ中心主義を脱却できなかった第二インターナショナルとは違って,植民地,従属諸国における民族運動のエネルギーを高く評価し,これを先進国における変革に連結する反帝世界革命の構図をえがいていた。…
…独自の社会主義への道は,ソ連社会主義モデルの信奉に引き戻され,それに抵抗したユーゴスラビア共産党は,48年6月破門された。チトーとユーゴスラビア共産党はファシズムの共犯者,アメリカ帝国主義のスパイと非難されながらも,スターリンの要求に屈せず独自の道を歩んだ。ソ連共産党が和解の手を差しのべたのは,スターリンの死後であり,第一書記に就任したフルシチョフは55年5月ベオグラードを訪問,ユーゴスラビア共産党に加えられた数々の侮辱を詫びた。…
…しかし,上に指摘した用語法の不統一が現に見られるゆえんでもあるが,マルクス本人としては上部構造という言葉を必ずしも十全な自覚をもって術語的に用いているわけではない。 なお,スターリンの《マルクス主義と言語学の諸問題》(1950)におけるある立論が機縁になって,言語や科学は上部構造には属さない(もちろん下部構造にも所属しない)という議論が,一時期有力になった経緯もあり,マルクス主義者たちのあいだでも,上部構造という概念は確定的に定義されるには至っていない。史的唯物論【広松 渉】。…
…ソビエト共産党書記長になったスターリンによってもたらされた思想・体制・政策の総称。この呼称はトロツキーと彼の支持者が,レーニン死後のスターリン指導下のソビエト体制を批判的に論ずる時に使用したものであるが,スターリン批判(1956)以降は西側世界でも否定的意味をこめて,より広義に使われるようになった。…
…非政治的なものであれば,さまざまな社会団体が活動を認められた。 レーニンとスターリンは22年のソ連邦の成立をめぐって意見が対立した。スターリンは初め,各共和国を自治共和国としてロシア共和国に吸収する案すなわち〈自治化〉案を推進し,一方,レーニンは,ロシア共和国を含めて,すべての共和国は新しい〈同盟〉の中に同等の権利をもって加入すべきであるとする〈ソ同盟〉案を出した。…
…このうち,とくに政治局は事実上,党・国家の内政・外交にわたる最高決定機構として機能していた。 これに対し書記局は,本来は中央委員会や政治局の補助的機構であったが,22年にスターリンが書記長となると,人事配置,組織指導の権限をたかめた。書記局は中央委員会の各部局の日常的指導や政策決定に重要な役割を果たし,有給の専任職員からなる各級の党機関の統制,人事の指導を行った。…
…1930年代後半のソ連邦においてスターリンが行ったソ連邦共産党幹部や軍人,知識人,大衆に対するテロルを指し,主として〈西側〉の諸国で用いられる呼称。粛清とは元来プロレタリアの前衛党の党員としてふさわしくない人物を党から除名することを意味するもので,テロルとは無関係な概念であった。…
…中華人民共和国の建国早々,毛沢東主席は主席初の外国訪問として,1949年12月21日モスクワで開催予定の,スターリン首相70年誕生祝賀宴に参加のため12月16日訪ソ,その後スターリン首相と中ソ両国の友好団結について,年越しの長期会談に入った。翌50年1月には中国の周恩来首相も会談に加わり,50年2月14日ようやく,毛沢東,スターリン両首脳立会いの下に,期限30ヵ年,全文6ヵ条から成る〈中ソ友好同盟相互援助条約〉の調印がおこなわれた。…
… 両大戦間期には,社会主義革命を指向する運動と民族資本の主導する民族主義との関係をめぐる理論領域が複雑にからみあっていた。第2回コミンテルン大会におけるM.N.ローイ(1887‐1954)とレーニンとの対立,トロツキーとスターリンとの対立がこの問題把握の難しさを示している。レーニン,スターリンは民族資本の運動を支援することによって,社会主義的勢力の成熟を期待した。…
…この革命的マルクス主義の潮流を〈レーニン主義〉の名で呼ぶことは,レーニンの没後に始まった。ブハーリン,ジノビエフらもその定式化を試みたが,スターリンが1924年4月スベルドロフスク大学で行った講演〈レーニン主義の基礎について〉は最も包括的なものであった。スターリンがソ連共産党の唯一の指導者になるにつれて,このスターリンの定式化が唯一の正統的なレーニン理解とされ,全世界に広まった。…
※「スターリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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