ユーゴスラビア(読み)ゆーごすらびあ(英語表記)Yugoslavia

翻訳|Yugoslavia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユーゴスラビア」の意味・わかりやすい解説

ユーゴスラビア
ゆーごすらびあ
Yugoslavia

ヨーロッパ南東部に位置していた社会主義国。国土の大半はバルカン半島の北西部を占め、西側はアドリア海に、北はハンガリー、北西はオーストリア、西はイタリア、東はルーマニアおよびブルガリア、南はギリシアおよびアルバニアにそれぞれ国境を接していた。正称ユーゴスラビア社会主義連邦共和国Socijalistika Federativna Republika Jugoslavija。面積25万5804平方キロメートル、1991年当時の人口2348万8883。首都はベオグラード。多民族国家で、マケドニア(現、北マケドニア共和国)、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナモンテネグロ、セルビア(ボイボディナ、コソボの2自治州が含まれる)の6共和国で構成される連邦制をとっていたが、1991~1992年前者4共和国が独立宣言をして、事実上分裂、解体した。

 国名は「南スラブ人の国」の意味で、この国名の使用は、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として発足(1918)した新生国家が1929年ユーゴスラビア王国と改称したときに始まる。1945年ユーゴスラビア連邦人民共和国となり、正式名称は1963年以来のもの。この国に住む主要な民族はセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人で、それぞれ同名の共和国を構成していたが、イスラム教徒を意味する「ムスリム」とよばれる民族も多く、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の主要民族となっている。また、アルバニア人も多く、彼らのほとんどはコソボ自治州に住む。さらに、混血などにより、ユーゴスラビア人と名のる人々も相当数に及んでいた。これらのほかに、周辺諸国の多くの民族が国内に住んでおり、各共和国も単一民族からなるわけではなく、いずれも複数の民族で構成されていた。このように多くの民族が住むのは、後述の「歴史」で触れられているとおり、東西文明の接点として古くからさまざまな民族が去来したためであり、文化的にもギリシア、ローマ、イリリア、ビザンティン、ベネチア、トルコなどの影響が残っている。このような多様さが、この国の大きな特色であった。

 国旗は青・白・赤の三色旗で、フランスと帝政ロシアの旗から影響を受けたものであり、1918年の王国成立以来、国旗に採択された。これに赤い星を加えた旗をパルチザンが用い、連邦人民共和国成立翌年の1946年に国旗に制定された。国歌は、トマセク作詩、バラノビッチ作曲『スラブの民、聞け』Hej, Sloveni!で1945年の制定。

[漆原和子]

自然

地形・地質

東部はドナウ川が貫流し、これにティサ川とサバ川が合流し、流域は広大な平原をなしているが、国土の約70%は標高200メートル以上の高地である。地質構造上、次の3地域に区分される。

(1)ロドピ楯状地(たてじょうち) セルビアと北マケドニア共和国を占める。地塊山地と構造盆地で、古期の花崗(かこう)岩、結晶質岩石からなる。

(2)ハンガリー大平原 第三紀と第四紀の厚い堆積(たいせき)物からなり、ドナウ川流域の低地の所々に古期岩石が露出する。

(3)褶曲(しゅうきょく)山地 中生代ないし第三紀の堆積物からなり、第三紀の初めから末期まで褶曲活動が盛んであった。北辺のアルプス地帯、アドリア海岸に沿ったディナル・アルプス、北マケドニア共和国のピンドス・シャール山脈、セルビアのバルカン山脈がこれに相当する。第四紀の氷期には、海抜高度の高いスロベニアのアルプス、北アルバニア・アルプスやピンドス・シャール山脈には山岳氷河がかかり、いまもカール(圏谷(けんこく))、モレーン(氷堆石)や氷河湖などの氷河地形を残す。一方、内陸の平原にはレス(黄土)が堆積した。最終氷期の海岸線は、ダルマチアのザダル沖を最奥とする位置まで後退していたが、現在の海岸線は完新世(沖積世)に形成された沈水海岸である。

 スロベニアの西半部からアドリア海沿岸に至る地域には中生代の石灰岩が広く分布し、その面積は国土の3分の1に達していた。イタリアとの国境に近いクラス(カルスト)地方で典型的な石灰岩の溶食地形がみられることから、この地形を地方名にちなんでカルストとよんだ。ダルマチア地方には広く裸出カルストが分布し、わずかに貧弱な植生と粘土含量の高い赤色の土壌テラロッサがみられるにすぎない。内陸のカルスト地域には、溶食によって生じたポリエ(盆地状の平野)や石灰岩洞窟(どうくつ)が多く分布する。ポストイナの鍾乳洞(しょうにゅうどう)はヨーロッパ一の規模を誇り、プリトビツェ国立公園は石灰華が大小多数の滝と湖をつくり、美しい景観を呈している。

[漆原和子]

気候

アドリア海岸は地中海性気候で、冬は温暖多雨、夏は高温で乾燥する。スプリトの平均気温は1月7.6℃、7月25.3℃、年降水量861.1ミリメートルである。内陸部に向かうにしたがって年降水量は増し、東部山麓(さんろく)や平原部は大陸性気候の特色が強い。山岳部は気温も低く、降雪があり、年降水量は2000ミリメートルを超える地域もある。冬季にディナル・アルプスからアドリア海に向かって乾燥した寒風ボラが吹く。峠の風下側は強風域となり、交通障害をおこすこともしばしばである。

[漆原和子]

生物相

アドリア海の沿岸部と島嶼(とうしょ)部は、常緑広葉樹(地中海性植物区系に特有の硬葉樹)と落葉広葉樹がみられ、標高500メートルまでの台地は植生破壊が著しい。その原因は、ヤギやヒツジの放牧、燃料採取のための植物伐採や冬の寒風ボラが植生の回復を妨げているためであるといわれる。内陸部は、大部分がヨーロッパ・シベリア・北アメリカ植物区系に属し、落葉樹林からなる。高山地域はオウシュウマツがみられるが、高山性植物はきわめて狭い範囲に分布する。ハンガリー大平原の動物は中部ヨーロッパ系で、若干東部ヨーロッパ系が混じる。山岳地域はアカシカ、ノロ、ヨーロッパオオカミなどの中部ヨーロッパ系と、高山系のアナウサギ、ライチョウが生息する。カルスト地域の石灰岩洞窟では目のない白色のプロテウス(ホライモリ)が生息する。アドリア海岸では地中海系、亜熱帯系の動物が目だち、南部にはジャッカルが生息する。

[漆原和子]

地誌

地誌区分は、連邦を構成する六つの共和国に分けるのが一般的である。以下、6共和国を北から順に解説する。

 スロベニアは西部・中部ヨーロッパとバルカン半島の接点に位置し、この国の先進的地域で経済水準が高かった。工業が国民所得の3分の2を占め、製鉄、電気器具、製薬、金属などの工業が発達し、天然資源は石炭、水銀、石油、天然ガスを産する。森林面積が広く、林業も盛んであったが、山がちなため農業生産は低く、北部でホップを産する以外は振るわない。アルプス地方におけるウシの垂直的移牧に特色があり、良質のバター、チーズを産した。

 クロアチアは北東部から西部のアドリア海に面するダルマチア地方までの広い地域を占める先進的な地域であり、人口および工業生産は平地である北部に集中していた。共和国首都ザグレブを中心に、電気器具、工作機械、化学の諸工業が発達、アドリア海岸のリエカ、スプリトには造船業も立地していた。資源には恵まれないが、イストラ(イストリア)半島ではボーキサイトを産し、北部で石油採掘が行われていた。アドリア海岸では地中海性気候に適したブドウ、オリーブ、イチジク、ラベンダーの栽培が行われ、ワイン、オリーブ油は輸出もされていた。漁業ではイワシ、サバ、イカ、マグロがとれ、畜産ではヒツジの放牧が行われていた。アドリア海岸での観光業も重要であった。

 セルビアは、6共和国中面積が最大で、連邦の中核をなし、経済的には、スロベニアおよびクロアチアの先進地域と、南部の後進地域の中間的位置にあった。ベオグラードを中心に工作機械、自動車、電気器具の工業が盛んであった。北部のハンガリー平原は穀倉地帯で、小麦、トウモロコシ、テンサイ、ヒマワリを産していた。資源は南部で恵まれ、アンチモン、銅、亜鉛、金、銀を産し、コソボ自治州にはヨーロッパ一の規模を誇るトレプチャの亜鉛鉱山があった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、平地が北部に偏るため、人口も北部に集中していた。大部分が山地で、森林面積は全ユーゴスラビアの森林面積の35%を占めていたので、ブナ、カシ、マツを産し、林産加工業が盛んであった。また鉄鉱石の埋蔵量は全国の85%に達し、褐炭、ボーキサイト、マンガン、亜鉛も産出した。

 北マケドニア共和国とモンテネグロは山国である。北マケドニア共和国はとくに工業化が立ち後れていた。資源には鉄鉱石、亜鉛、クロムがある。農産物にはブドウ、トマト、パプリカ、良質のタバコがあり、ヒツジの放牧も行われ、農産物の加工業が工業生産額の3分の1を占めていた。モンテネグロでは第二次世界大戦後、工業化が進められ、ボーキサイト資源に基づきチトーグラードにはアルミニウム精錬のコンビナートが建設された。森林面積が広く、林業も盛んであった。農業では牧羊のほか、果樹栽培も行われていた。

[漆原和子]

歴史

多民族国家ユーゴスラビアの歴史は複雑である。ユーゴスラビアを形成していた地域は、古来、東西文明の接点に位置しているため、諸民族の往来が激しく諸強国の支配下に置かれることが多かった。

[柴 宜弘]

中世の南スラブ諸国家

7世紀前半、南スラブ人はバルカン半島に定住した。ユーゴスラビアのなかでも北西部に位置するスロベニアやクロアチアは、フランク王国の影響下でローマ・カトリックを受け入れた。10世紀前半から12世紀にかけ、南スラブ人初の王冠を頂くクロアチア王国が形成された。しかしその後、ハンガリーの支配下に置かれた。一方、南東部のセルビア人は概してビザンティン帝国の影響下にあり、宗教的には東方正教会を受け入れた。1168年ネマニッチ朝が創設され、以後200年にわたり存続する。1389年のコソボの戦いでセルビアが敗北して以来、オスマン・トルコのバルカン進出が決定的となった。1459年にはセルビアが完全にオスマン帝国領となり、セルビアの後を継いでこの地方に勢力を拡大していたボスニアも、15世紀後半にはオスマン帝国に屈した。15世紀末、山岳地のモンテネグロもオスマン帝国領となり、以後約400年に及ぶオスマン帝国支配が続く。

[柴 宜弘]

オスマン帝国とハプスブルク帝国の支配

15~16世紀にかけ、南スラブ人の諸地方はオスマン帝国とオーストリアのハプスブルク帝国の領土に組み込まれた。1683年、オーストリアと、衰退過程を強めていたオスマン帝国との間に、ヨーロッパ各地を巻き込む全面戦争が始められた。この戦争でオスマン帝国は敗北し、1699年のカルロウィッツ条約によって、ハプスブルク帝国が大幅にバルカンへ進出し、中欧の大国としての足場を築いた。この結果、オスマン帝国とオーストリア両国の辺境地方に居住する南スラブ人の帰属が大きく変化した。また、オーストリアは、南スラブ人が多く居住するオスマン帝国との国境を、「軍政国境地帯」として特別に統治した。18世紀に入り、両国は三度戦争を繰り返し、オスマン帝国領はさらに縮小した。ベオグラードがオスマン帝国の辺境となり、さまざまな軍事的影響を受けた。これは、セルビア人の民族運動を進めるうえで重要な意味をもつことになる。こうしたなかで、アドリア海沿岸のラグーザ(ドゥブロブニク)共和国だけは、19世紀初めまで独立を保持した。

[柴 宜弘]

ナショナリズムの時代

1804年、セルビアはバルカン半島で初めてオスマン帝国に対する蜂起(ほうき)を企てた。それが可能だったのは、辺境に位置するセルビアがハプスブルク帝国内のセルビア人から、経済的、文化的な働きかけを受けていたことに加え、ハプスブルク帝国から軍事的な影響をも受けていたからである。カラジョルジェに率いられた第一次セルビア蜂起は失敗に終わったが、ついで1815年ミロシュ・オブレノビチを指導者とする第二次蜂起は成功し、1830年にセルビアは完全な自治を有する公国となった。ロシア・トルコ戦争後の1878年、ベルリン条約によりセルビアはモンテネグロとともに独立国として承認され、近代的な民族国家として歩み始める。一方、ハプスブルク帝国内の南スラブ人も、19世紀に入り民族的自覚を強めた。1809~1813年にかけ、ナポレオンがスロベニアやクロアチア地方を「イリリア諸州」として統治したことは、その一つの契機であった。この時期の経験が1830~1840年代にかけて、ガイを指導者とするイリリア運動という南スラブ人の統一運動を生み出した。1848~1849年の革命期において、クロアチアではイェラチチJosip Jelačić(1801―1859)を指導者とする民族運動が高揚したが、この運動にみられた反ハンガリー感情は、ハプスブルク帝国に利用されてしまった。これ以後19世紀後半期のクロアチアの政治的潮流は、親ハンガリー派、セルビアをも含めたユーゴスラビア統一主義、およびクロアチアの独立を唱える汎(はん)クロアチア主義の三つに大別できる。これに対し、経済的に恵まれていたスロベニアでは、反ハプスブルク運動が高まりをみせず、オーストリア・ハンガリー二重王国をオーストリア・ハンガリー・南スラブ三重王国に再編成しようとの動きがみられたにすぎない。

[柴 宜弘]

第一次世界大戦と統一国家の形成

1908年にオーストリア・ハンガリーが、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことにより、バルカンの危機は高まった。とくに、当地の領有をもくろんでいたセルビアのオーストリア感情は極度に悪化した。1912~1913年の第一次・第二次バルカン戦争でセルビアは勝利を収め、いまや南スラブ人統一の旗手となった。こうした状況のもとで、1914年6月、ハプスブルク軍の演習を観閲するためサライエボにやってきたオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻は、「青年ボスニア」に属する一青年プリンツィプGavrilo Princip(1894―1918)により射殺された。このサライエボ事件を契機として、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。大戦の勃発とともに、南スラブ人の統一運動は具体性を帯びた政治運動となる。しかし、統一運動指導者の見解は二つに分裂していた。セルビア王国首相パシチは、セルビア人の居住する全域を統一し海への出口を確保すること、すなわち「大セルビア」の実現を目的としていた。これに対し、オーストリア・ハンガリー領内から亡命したクロアチアの知識人を中心として、ユーゴスラビア委員会が創設された。彼らはハプスブルク帝国の解体と南スラブすべての統一を掲げ、イギリス、フランス、ロシアの協商国側に働きかけた。この両者は1917年7月に参集し、セルビア王朝のもとに、将来、立憲君主国を建国する旨の「コルフ宣言」を出した。この宣言は統一国家形成の布石にはなったが、大きな動きがみられるのは1918年夏、すなわちハプスブルク帝国の崩壊が明白になってからである。ダルマチアをイタリア領としたロンドン秘密条約(1915)の存在とパシチの巧妙な外交手腕により、同年12月1日、統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年ユーゴスラビア王国と改称)の成立が宣言された。しかし統一国家はセルビア中心の集権国家であったため、連邦主義・分権化を唱えるクロアチアの強い反対がみられた。セルビアの集権主義とクロアチアの分権主義は、戦間期のユーゴスラビア史を貫く特徴となった。1934年10月には、国王アレクサンダルがマルセイユで分離主義者によって暗殺された。この「クロアチア問題」は、1939年のスポラズーム(協定)でいちおうの決着がつく。すなわち、クロアチア、スラボニア、ダルマチア、ボスニアの一部を含むクロアチア自治州の創設がそれである。

[柴 宜弘]

第二次世界大戦以後

第二次世界大戦の勃発に際し、ユーゴスラビア政府は中立の立場をとったが、近隣諸国の状況から、1941年3月ついに三国同盟に加入した。これが国内に伝えられると、シモビチ将軍らを中心とする親西欧派のクーデターが発生し、成功した。しかしドイツを中心とする枢軸軍の攻撃にあい、ユーゴスラビアは簡単に降伏し、国王や政府の要人は国外へ亡命した。この結果、ユーゴスラビアは枢軸国の手で分割された。こうしたなかで、チトーを指導者とする共産党を中心とした抵抗運動が始まった。この抵抗運動は民族解放の性格を有すると同時に、社会変革をも目ざす革命運動でもあった。この運動は、政治・民族・宗教的信条とは無関係に、枢軸軍と戦うか否かという二者択一を住民に突きつけ、勢力を結集した。一方、ミハイロビチを指導者とし、チェトニクとよばれるもう一つの抵抗組織があった。この組織はセルビア民族主義者の集団であったことに加え、待機主義をとったため、下部組織から枢軸軍との協力関係を強めていき、結局、枢軸軍と行動をともにすることになった。チトーらのパルチザン部隊は、苦しい戦闘を独力で切り抜け、1943年11月、人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第2回大会を開いた。ここで、チトーを議長とする臨時政府が成立し、亡命政府にとってかわった。1945年3月、チトーを首班とし、亡命政府の代表3人を含むユーゴスラビア民主主義連邦臨時政府が形成され、国際的承認を得た。同年11月、憲法制定議会の選挙が施行され、人民戦線が圧倒的な支持を獲得した。ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言され、国王ペータル2世Petar Ⅱ Karadjordjević(在位1934~1945)のすべての権限は剥奪(はくだつ)された。1948年にコミンフォルムから追放されるまで、ユーゴスラビアはソ連型の社会主義建設に専念した。追放後、社会主義理論を根底から検討し直すなかで労働者自主管理型の分権的な社会主義が生み出され、外交政策の基本である非同盟主義とともに、「独自の社会主義」の二本柱となっている。1960年代後半になると、対外的な緊張関係が緩む一方、自由化政策が推進されると、各地で民族主義の動きが表面化した。とくに、クロアチア人、アルバニア人、ムスリム(イスラム教徒)の行動が顕著であった。チトー大統領は微妙な民族、共和国間のバランスをとり、政治、経済、社会すべての局面に自主管理社会主義を徹底させる体制を築くことで事態の収拾を図ろうとした。自主管理社会主義の集大成といえる1974年の新憲法により、6共和国と2自治州が「経済主権」をもつ、きわめて緩い連邦制が発足した。

[柴 宜弘]

解体への歩み

1970年代末から1980年代は、チトー、共産主義者同盟、連邦人民軍を絆(きずな)とする「74年憲法体制」が崩壊していく過程であった。経済危機が進行し、1980年には終身大統領のチトーが死去した。先進共和国のスロベニアやクロアチアと、連邦の強化を目ざすセルビアとの対立が鮮明になる。統合の太い絆(きずな)であった共産主義者同盟にも、共和国、民族間対立が持ち込まれ、ついに1990年1月には分裂してしまった。1990年の1年間を通じて、各共和国ごとに自由選挙が実施され、それぞれ民族主義的色彩の強い政府が形成された。1991年6月には、スロベニアとクロアチアの両共和国が独立を宣言するに至り、ユーゴスラビアは実質的に解体した。これを契機として、クロアチアでは独立に反対する約60万のセルビア人とクロアチア共和国軍との内戦が展開された。国連の仲介により停戦が成立、1992年春から国連保護軍が派遣された。クロアチア内戦の過程で、マケドニア(現、北マケドニア共和国)とボスニア・ヘルツェゴビナも独立の方向を明確にした。1992年3月、ボスニアで独立に反対するセルビア人勢力とムスリム・クロアチア人勢力との内戦が生じた。同年4月、ユーゴスラビアに残されたセルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を創設した。この結果、旧ユーゴスラビアは5か国に分解した。2003年、新ユーゴを構成する2国は、より緩やかな連合国家「セルビア・モンテネグロ」となり、国家としての「ユーゴスラビア」の名称は消滅した。その後2006年6月には、モンテネグロが独立し独立国家モンテネグロ共和国となった。また、モンテネグロの独立を受け、セルビアは、セルビア・モンテネグロの承継国として独立国家セルビア共和国となり、セルビア・モンテネグロという連合国家は消滅。こうして、かつて旧ユーゴスラビアの構成共和国であったスロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロは、それぞれ独立国家となった。

[柴 宜弘]

政治

1991年まで存続したいわゆる旧ユーゴスラビアは「社会主義実験の国」といわれたように、次々と新しい制度をつくった。だが複雑なこの国の政治をひと口に表現すれば、外に非同盟、内に自主管理ということになるだろう。1974年には実に四度目の憲法が制定された。解放戦争から戦後の国づくりでかつての大統領チトーの果たした役割は、最大限に評価されるべきであろう。それだけにチトー(1980年5月死去)後の混乱は内外から憂慮されていた。そのため集団指導体制を導入し、自主管理という考え方を工場だけでなく、社会生活のすみずみにまで浸透させることを目ざした連合労働法を1976年に制定した。

 この新憲法と連合労働法によって形成された「74年憲法体制」は、徹底した権力の分散化であった。2自治州は共和国なみに格上げされ、すべてが各自の憲法と裁判権や警察権をもち、さらには経済主権をも付与されたのである。もはや連邦ではなく、実質的には国家連合となったといえよう。1968年のコソボ暴動、1971年クロアチア民族の自治要求運動で高まった、いわゆる「クロアチアの春」とよばれた危機は、これで克服されはしなかった。新体制によって各共和国のエゴイズムが容易に民族主義の覚醒(かくせい)、強化へ転化したからである。党、連邦軍と並んでユーゴ統合の絆(きずな)であったチトーが1980年に亡くなると、こうした傾向はさらに進んだ。その結果、国内の統一市場はなくなり、ハイパー・インフレーション(超インフレ)に象徴される経済危機がいっそう深刻化した。1988年には憲法を修正して、ふたたび連邦に権限を集中させようとしたが、これを大セルビア主義の復活と恐れたスロベニアやクロアチアの反発を招いた。国家存続の形態をめぐり、連邦か国家連合か、各共和国および自治州の大統領が1991年、五度にわたって会議(ユーゴ・サミット)を行ったが失敗に終わった。同年6月、スロベニアとクロアチアの共和国議会は独立宣言を採択し、ユーゴ解体がにわかに現実味をおびてくるのである。

[田中一生]

議会制度

市にあたるコミューンの議会と共和国・自治州の議会では三院制、最高の決定機関である連邦議会は二院制であった。

 コミューンの三院とは、連合労働会議、地域共同体会議、社会政治会議の三者をさす。連合労働会議のメンバーは、のちに経済の項で詳しく述べる連合労働基礎組織の労働者がこれを選ぶ。地域共同体会議のメンバーは、定住する地域の住民がこれを選ぶ。社会政治会議のメンバーには、共産主義者同盟、勤労人民社会主義同盟、労働組合などのいわゆる社会政治組織のメンバーが選ばれる。選出方法には独特の代表制度を採用している。すなわち、前述の3グループはまず代表団を選び、代表団のなかからコミューン議会へ代表を送るというものである。この方法は共和国・自治州議会、連邦議会にも適用される。代表団と代表の比率はほぼ10対1である。代表団は選出母体の意を体して基本方針を決め、代表はこの基本方針に沿って議会活動を行う。代表団に選ばれても職場を離れることはない。任期はいずれも4年で、同一の代表団に3選されることはできない。また同一人物が、連合労働基礎組織と地域共同体の代表団に同時に選出されることも許されない。

 共和国・自治州議会の三院とは、連合労働会議、コミューン会議、社会・政治会議からなるが、このうちコミューン会議のメンバーだけは、コミューン議会の三院から選ばれる。他の二院のメンバーは、それぞれコミューン議会の同名の会議メンバーがこれを選ぶ。

 連邦議会は、連邦会議と共和国・自治州会議からなる。前者は、6共和国から各30名、2自治州から各20名の計220名で構成される。勤労人民社会主義同盟が各層から選んで作成した候補者リストに基づいて、コミューン議会が秘密投票で選挙するのである。後者は、6共和国から各12名、2自治州から各8名の計88名で構成されるが、このメンバーは、共和国や自治州議会が三院合同の秘密投票によって互選する。両院の権限は憲法などで規定されている。原則は、社会計画や経済問題は共和国・自治州会議で、その他の重要な内外政策は連邦会議で決定されるということであるが、問題の性質によっては両院の合同会議も開かれる。合同会議はまた共和国・自治州議会、あるいはコミューンの議会でも開かれる。

 連邦幹部会は、終身大統領だったチトー亡きあとに備えて考案された集団指導制で、集団大統領と俗称された。1974年に発足し、1980年までチトーが議長職を務めたが、死後、大統領職はなくなり、6共和国と2自治州から1名ずつと共産主義者同盟議長を加えた9人からなる連邦幹部会の議長(元首)がこれにとってかわったが、1988年の憲法修正で同盟議長が外され8名となった。ただし任期1年の輪番制、幹部会員の任期は5年、再選も可能。連邦執行会議は連邦議会の執行機関であり、政府にあたる。議長(首相)、副議長(副首相)、各種の連邦大臣や連邦委員などで構成された。議長は、連邦幹部会と共産主義者同盟が推薦し、連邦議会がこれを選ぶ。任期は4年。

[田中一生]

政党

共産主義者同盟が唯一の政党であったが、1990年1月に分裂した。同年、各共和国で戦後初の自由選挙が行われ、セルビア(セルビア社会党と改称)とモンテネグロを除く他地域では、共産主義者同盟が敗北した。すなわちクロアチアはクロアチア民主同盟、スロベニアはスロベニア野党連合、ボスニア・ヘルツェゴビナは民主行動党(ムスリム)、マケドニアはマケドニア民族統一民主党が第一党となった。いずれも民族主義の強い政党であり、それはセルビアやモンテネグロの第一党にもいえることである。しかし社会主義ユーゴを長年にわたり指導した共産主義者同盟を改めて紹介すると、これは戦前から存在した共産党が1952年に改称したもので、1937年以来、書記長はチトーが務めた。チトー後は集団指導制がとられ、メンバーは各共和国から3名、各自治州から2名、軍代表1名の計23名からなる。中央委員会の執行機関であるこの幹部会の議長も1年任期の輪番制で、その間は連邦幹部会のメンバーでもあった。ただし軍代表はこれに就任できない。機関紙は週刊の『コムニスト』。勤労人民社会主義同盟は共産主義者同盟の大衆政治組織で、かつての人民戦線が1953年に改称したもの。連邦機関紙は日刊の『ボルバ』(闘争)である。

[田中一生]

司法制度

ユーゴスラビアの裁判制度には通常裁判所、自主管理裁判所、軍事法廷がある。通常裁判所は、コミューン、地方(高等)、共和国・州、連邦の4段階からなり、普通の事件は二審制をとる。自主管理裁判所は連合労働裁判所、調停裁判所などの裁判を含む。直接労働者からの提訴を扱い、職場を離れない素人(しろうと)裁判官と職業裁判官がこれにあたる。弁護士が約5000人、通常裁判所の裁判官は5400人を数えた。なおユーゴスラビアでは早くから憲法裁判所があり、文字どおり憲法の番人を務めた。

[田中一生]

国防

陸・空・海の3軍からなり、このユーゴスラビア人民軍の最高司令官は、連邦幹部会議長が兼任。徴兵制で、男子は15か月の兵役が義務づけられるが、1人で家族を扶養している者は12か月のみ。高等教育を受ける青年は入学前に12か月、修学後に残り3か月を勤めればよい。1968年のチェコ事件を契機に制定された1969年の国防法によって、全人民防衛という体制が敷かれ、侵略者に対する降伏は国家に対する反逆であると規定された。こうして、連邦軍のほかに各共和国・自治州の民族軍が誕生した形になり、武器が一般に行き渡ったため、1991年以降の内戦はいっそう凄惨(せいさん)な光景となった。

[田中一生]

外交

1948年のコミンフォルム追放以来、東西ブロックの対立が国際緊張の原因だとして、積極的中立と非同盟主義を唱えてきた。国際連合を舞台に活躍するだけでなく、発展途上国と語らって1961年、ベオグラードで第1回の非同盟諸国首脳会議を開いたのである。このときは25か国であったが、チトーが最後に出席した1977年の第6回ハバナ会議には、実に95か国が参加した。だがチトー後、国内の情勢が悪化したこと、キューバなど親ソ派が台頭したこと、あるいは冷戦が終結へ向かうにつれて、ユーゴスラビアの非同盟離れは進んだ。それでも1989年、第9回非同盟諸国首脳会議をふたたびベオグラードで開催して、旧ユーゴの掉尾(ちょうび)を飾ったかっこうとなった。

[田中一生]

経済・産業

労働者自主管理

ユーゴスラビアの社会主義社会にもっとも特徴的な自主管理という考え方は、まず経済の分野で現れた。1948年にコミンフォルムを追放されると、それまでのソ連型社会主義を根本から改めることで、彼らは国難を脱出しようとした。翌1949年の後半あたりから、生産の現場で労働者のイニシアティブ(主導権)がしだいに生かされるようになり、1950年の自主管理法によって企業が労働者の手で管理されるようになった。つまり、企業は社会有である(国有ではない)が、その管理と剰余労働(利潤)の分配を労働者に任せたのである。これを労働者自主管理という。30人未満の企業では全員が、30人以上ならその代表機関である労働者評議会が企業を運営する。労働者評議会は、執行機関である経営委員会を選出する。企業長は公募する、というのがその骨子であった。

 だが、その後さまざまな不備が指摘され、1965年の新経済政策あるいは企業の巨大化に伴い十分に機能しないことがわかり、労働者自主管理の抜本的な改革を迫られた。1976年の連合労働法によってこうした問題を解決しようとした。すなわち従来の企業(労働組織 RO)をいくつかの作業単位(連合労働基礎組織 OOUR)に分かち、一種の事業部制を導入して労働者にやる気を起こさせようとした。また地域の教育、医療、保健、文化、保養、福祉、スポーツなどの諸施設と連合労働基礎組織などが共同で利益共同体(SIZ)をつくることで、地域社会との結び付きが緊密となった。この場合、OOUR相互の間には自主管理協約が、OOURとSIZの間には社会協定を通じて協力作業が行われる。これをユーゴでは協議経済と名づけ、計画経済や市場経済と対比させた。

 だが1970年代の二度のオイル・ショック、チトー後の1980年代に迎えた重大な経済危機によって、協議経済は失敗したのである。

 経済危機とは貿易収支の大幅な赤字、対外債務の累積、恒常的なインフレなどをさす。たとえばインフレは1989年末で年間2500%まで急騰した。外国出稼ぎがむずかしくなって失業問題が深刻化し、それにからんで民族問題が危険な様相を呈していた。最大の原因は先述したようにユーゴの統一市場が消失し、各共和国が無謀な設備投資をし、そのために西側諸国から多大な融資を受けていた、ということがあげられる。こうした無計画、行き過ぎを是正すべく旧ユーゴ最後のマルコビッチAnte Marković(1924―2011)内閣は、金融引締め、1万分の1のデノミネーション、ディナール通貨とドイツ・マルクの連動などといったドラスティックなショック療法を行ったが、時宜を逸していたため、さしたる効果はあがらなかった。

 結局、旧ユーゴの崩壊は、こうした独得な自主管理の失敗ともみられ、以後は多くの面で急速な自由化、私有化が進んだ。

[田中一生]

農林漁業

第二次世界大戦前のユーゴスラビアはヨーロッパの後進国であった。それが戦後は中進国に仲間入りできるまでになった。前項にみてきた労働者自主管理が一定の成果をあげたからであろう。ただしこの仕組みは農業に適用しにくいところに問題がある。戦後、農業人口は激減したものの(戦前は全人口の4分の3)、農業は依然ユーゴスラビアの重要な産業部門だった。ただし、1984年には農業人口はついに総人口の2割をきり、国内総生産に占める農業の比重も1988年には13.7%にすぎなかった。数度の農地改革により、国土の40%を占める農業適地の5分の4が個人有、残りが社会有の土地となった。個人有は10ヘクタールと制限されていた(1988年に30ヘクタールまで引き上げられた)が実際は3ヘクタール平均で、機械化がしにくく生産性も低い。さらには青年層の農業離れもあった。その結果、ユーゴはわずかながら農作物の輸入国に転じてしまった。おもな作物は小麦、ライムギ、トウモロコシ、テンサイ、ヒマワリ、タバコ、ジャガイモ、ブドウなど。畜産業も盛んで、ウシ、ブタ、ヒツジ、家禽(かきん)の食肉が輸出されていた。漁業は、アドリア海の東半分で貝類、エビ、カニ、イワシなどが水揚げされ、湖や川ではコイ、マス、ナマズがとれる。林業は、森林が国土の3分の1を占め、これはヨーロッパ第3位に数えられた。木材や家具を輸出したほか、国内のパルプ工場に原料を供給していた。

[田中一生]

資源・エネルギー・観光産業

ユーゴスラビアは地下資源に恵まれていた。鉄、アルミニウム、銅、鉛、錫(すず)、ニッケルなど、第二次世界大戦前は原料のまま輸出していたものを、戦後は半製品か製品にして外貨を稼いだ。おもな製鉄所はゼニッツァ、スメデレボ、シサク、スコピエに、銅鉱山はボール、マイダンペック、クラトボにある。ボーキサイトは西部に偏在しているが、アルミナ工場やアルミニウム加工企業は各共和国にある。エネルギーはおもにドナウ川、ドリナ川、ネレトバ川などを利用した水力発電所のほか、火力発電所、原子力発電所から得る。石炭や石油も産出するが国内需要を満たせず、原油を大量に輸入していた。観光も重要な産業で、アドリア海に散らばる1000余の島とダルマチア海岸の漁村はドル箱とうたわれた。なかでも中世のおもかげをいまに残す城砦(じょうさい)都市ドゥブロブニク、ローマ時代の円形競技場のあるプーラ、ディオクレティアヌス帝の宮殿跡がそのまま市街となったスプリトなどが広く知られている。なおプーラ、スプリト、リエカには造船所もある。

[田中一生]

貿易・銀行

ユーゴスラビアはOECD(経済協力開発機構)やCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)のメンバーではないが、これらと密接な関係を保ち、1970年代に入ってから発展途上国とも活発に貿易していた。食品、ぶどう酒、たばこ、工業製品を輸出し、原油、機械、圧延鋼材、化学品などを輸入した。貿易収支は恒常的な赤字であり、これを貿易外収支(観光、運賃、外国出稼ぎ労働者の送金)で埋めてきたが、累積債務が(1989年末で179億ドル。なおこのときの外貨準備高は6億ドル)激減する見込みはなかった。銀行制度は何度も改革されてきた。そして1977年には、銀行は連合労働組織に奉仕する金融機関と位置づけられた。

 その結果、低い金利で融資するばかりか、貸しつけた元金の回収を強く求めない。損失の計上を避けるため、多額の債務を負う連合労働へ短期融資をして利子を支払わせるといった悪循環が、しばしば生じた。融資が失敗しても各共和国の中央銀行、ひいては連邦中央銀行がその尻ぬぐいをした。

 先述したマルコビッチは、長年の財政赤字を解消すべく通貨政策を連邦中央銀行に一元化し、垂れ流し状態だった通貨発行を極度に抑えて金融引締めを断行したが、時すでに遅かったのである。

[田中一生]

社会

いわゆる自主管理の原則は、教育、文化、科学、保健、社会福祉など非経済の分野でも生かされた。こうした諸施設と連合労働基礎組織(OOUR)などが共同で利益共同体(SIZ)をつくり、サービスの質や量、それに見合う資金額などを話し合う。そこで結ばれた社会協定に基づいて健全な社会生活が営まれるはずであった。だが双方の利害が一致するのは容易でなく、しばしば所期の目的を達成することはできなかった。

[田中一生]

民族問題

宗教はスロベニア、クロアチアではほとんどカトリック信者、ボスニア・ヘルツェゴビナ(40%以上)やコソボ(80%以上)では多数のイスラム教徒がおり、セルビアとモンテネグロ、マケドニアでは圧倒的に正教の信者が多い。いずれも歴史的、文化的に独自の精神風土を形成してきたため、社会主義社会になっても競争や反発は解消せず、しばしば民族問題という形で爆発した。とくにセルビア人とクロアチア人の対立は、第二次世界大戦前の国家を分裂させたほど根深いものがあった。また後進地域に住むムスリム(イスラム教徒)には、民族問題のうえに経済的な不満も強まっていた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムは、従来はセルビア人かクロアチア人、あるいはユーゴスラビア人と自己の帰属性を自己申告するか、無申告とする者が多かった。しかし歴史的な特殊性を考慮して1961年、「エスニック(民族的)な帰属としてのムスリム」、1967年には正式に民族として承認された。コソボのムスリムはアルバニア人としての強力な民族意識をもち、1968年、自治州を共和国へ格上げするよう求めて暴動を起した。1981年にも大規模な暴動を起した。1974年憲法によって共和国並みの自治は得ていたが、経済的不満が爆発したのである。コソボ問題に危機感を抱いたセルビアは、1989年3月に共和国憲法を修正し、以前と同様、自治州に対し警察権や裁判権を行使できるようにした。これに大セルビア主義の脅威を感じたスロベニアとクロアチアが猛烈に反発し、南北はいっそう離反していった。

[田中一生]

教育・言語

このような多民族国家の不協和音は、教育の力で解決するほかない。非織字率が高いのも問題であった。教育制度は1974~1975年に三度目の改革がなされた。7歳で就学し、8年間の初等教育が義務づけられているのは従来と変わりないが、中等教育が大幅に改組された。それまであったギムナジウム、技術学校、教員養成学校などをなくし、一律に4年制の中等専門教育を施すことにした。最高学府の大学は、1世紀以上の歴史をもつザグレブ、ベオグラード、リュブリャナをはじめ、各共和国や自治州にある。公用語はスロベニア語、セルビア・クロアチア語、マケドニア語であるが、ハンガリー人、アルバニア人、イタリア人、トルコ人などの少数民族も、それぞれの言語で学校教育を受け、ジャーナリズム活動を行う権利を保障されていた。たとえば北マケドニア共和国では、テレビのニュースがマケドニア語、トルコ語、アルバニア語で放映されている。スロベニア語はラテン文字を用いる。セルビア・クロアチア語は文法的に共通の言語である。しかし、セルビアではキリル文字(ロシア文字)、クロアチアではラテン文字を用いる。その呼称については1850年、多くの方言が使用されているセルビアとクロアチアで、南方のイエ・グループのシュト方言を共通の文語として確立しようと8人の文化人と言語学者が「ウィーン文語協定」に合意したのだが、反対が多くて結局は失敗に終わり、この名残(なごり)として、後にセルビア・クロアチア語とよばれるようになった。ただしこの呼称は多分に政治的ニュアンスを帯びたものとして(セルビア覇権主義)、クロアチア人は好まなかった。クロアチア・セルビア語、クロアチア語ないしセルビア語という言い方をし、1967年にはクロアチア語の独立を宣言する動きもあった。マケドニア語はキリル文字を用いる。ボスニア・ヘルツェゴビナでは両文字が使われ、『オスロボジェーニェ』(解放)紙などは、両文字を奇数と偶数ページに使い分けて用いていた。モンテネグロ人はセルビア語なのでキリル文字を使っている。

[田中一生]

生活

スポーツはたいへん盛んであった。もっとも人気の高いのはサッカーだが、バスケットボール、水球、ハンドボール、ボクシングなどもオリンピックや世界選手権でしばしば金メダルに輝いた。1984年の冬季オリンピックは、社会主義国として初めてボスニア・ヘルツェゴビナのサライエボで開かれた。後にアメリカ国籍を取得したテニスのモニカ・セレシュMonica Seles(1973― )は、ハンガリー系のユーゴ人である。チェス人口は非常に多く、グランドマスターの数はソ連に次いで世界第2位であった。人々は夏休みを1か月余りとり、海岸や湖畔の休息の家でバカンスを楽しみ、外国旅行へ出かける人もいる。車に食料品を積み、別荘で週末を過ごす人もいる。テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機、ステレオなどの耐久消費財は、たいていの家庭にみられ、乗用車ですら100人に7台強と普及していた。そのほとんどは国産車。またオリエント急行はこの国を縦断していたことで有名だが、国内の交通網としては、時間の不正確な鉄道よりバスのほうが便利だとしてよく利用されていた。

[田中一生]

文化

ユーゴスラビアは古来さまざまな民族が混住し、それぞれが互いに影響しあうモザイク文化の土地柄であった。また険しい地形は、地方の土俗文化を今日まで生き延びさせてきた。

[田中一生]

音楽・映画

国民の楽天的な性質と相まって、民謡や民族舞踊の宝庫といわれ、とくにコロとよばれる円舞が知られている。ザグレブやベオグラードのコロ舞踊団は海外公演でも人気を博しており、来日したこともある。近代音楽も盛んで、イタリア人だがユーゴスラビアに住んだチェロ奏者で指揮者でもあったヤニグロ、声楽家ではバスのチャンガロビチやソプラノのクンツ・ミラノフZinka Kunc‐Milanov(1906―1989)が世界的に有名で、若手としてはピアニストのイボ・ポゴレリチ、サズ(トルコ、中央アジア、東欧に特有の撥(はつ)弦リュート)奏者でシンガー・ソングライターのヤドランカ・ストヤコビッチJadranka Stojaković(1950―2016)が日本でも人気が高かった。主要な都市にはオペラ劇場があり、シーズンともなればオペラ、バレエが連夜演じられた。フバル島にバルカン最古の劇場があることからもわかるように、演劇活動も活発である。しかし一般大衆は圧倒的に映画館へ足を運ぶ。サライエボ出身の映画監督エミール・クストリッツァは『パパは、出張中!』で世界的に注目され、『ジプシーのとき』では1989年にカンヌ映画祭で最優秀監督賞に輝いた。新ユーゴスラビアになってからも『アンダーグラウンド』で1995年にカンヌ映画祭の大賞をふたたび受賞している。

[田中一生]

美術

中世セルビア王国時代に数多く建立された修道院や教会堂内部の壁面を飾るビザンティン絵画が注目される。セルビアのミレシェボ、ソポチャニ修道院に残る13世紀のフレスコ画は、同時代のビザンティン美術の傑作として、またのちに花咲くルネサンス絵画との関連からもきわめて重要なものである。ドゥブロブニクにはルネサンス、バロック時代に独自の流派が生まれたが、全体的には現代まで西ヨーロッパの亜流に甘んじてきた。例外は彫刻家のメシュトロビッチIvan Meštrović(1883―1962)で、ロダンに私淑しながら民衆のエネルギーを凝集させた力量あふれる作風は、バルカンのミケランジェロとまでたたえられた。

[田中一生]

文学

マケドニア語の聖者伝、セルビアの口承文芸から始まった。とりわけグスレとよばれる一絃(いちげん)琴にあわせて誦(しょう)された中世の英雄譚(たん)は、4世紀以上もトルコの支配下で呻吟(しんぎん)していたセルビア人に、絶大な愛国心を育て続けたのである。だが彼らは近代までほとんど字が読めなかった。一方、16世紀ドゥブロブニクで活躍したドゥルジッチMarin Držić(1508ころ―1567)の喜劇『マロエ叔父さん』は、今日でも上演されている。この自由都市はまた17世紀に叙事詩人グンドゥリッチを生んだ。

 19世紀もなかばのロマンチシズム時代になると、スロベニア人プレシェルンFrance Prešeren(1800―1849)、モンテネグロ人の主教ニェゴシュ、クロアチア人マジュラニッチ、口承文芸を集大成したり国語を改革したセルビア人カラジッチなどが輩出した。20世紀に入ると社会主義的な作品でスロベニア人を啓蒙(けいもう)したツァンカル、エロティシズムを強調したジュパンチッチ、クロアチアの歴史を描いたシェノアAugust Šenoa(1838―1881)とナゾール、ヘルツェゴビナの叙情詩人シャンティッチAleksa Šantić(1868―1924)とドゥチッチJovan Dučić(1871―1943)、セルビア南部の風俗を描いたスタンコビッチBora Stanković(1876―1927)、ユーモア作家ヌシッチ、子供たちからいまでも「ズマイ(竜)小父(おじ)さん」と慕われるヨバノビッチJovan Jovanović Zmaj(1833―1904)、デサンカ・マクシモビッチDesanka Maksimović(1898―1993)などがあげられる。戦後の文学を代表するのは、多産なクロアチアの革命的作家ミロスラブ・クルレジャと、ボスニアの歴史に人間の運命を考察したイボ・アンドリッチで、後者は1961年ノーベル文学賞を受賞している。代表作は『ドリナの橋』。マケドニア語は戦後に文語を確立した若い言語であるが、すでにコネスキーBlaže Koneski(1921―1990)、ヤネフスキーSlavko Janevski(1920―2000)など純度の高い詩人、作家が現れた。ユーゴの文学は、解放戦争に材を求めたパルチザン小説が依然多くみられるものの、海外でも知られるミオドラグ・ブラトビッチ、ブラニミル・シュチェパノビッチBranimir Šćepanović(1937― )、ダニロ・キシュDanilo Kiš(1935―1989)などが新しい題材と手法に挑戦して注目され、とくに『ハザール事典』で内外から絶賛されたミロラド・パビッチMilorad Pavić(1929―2009)は、実験的な作風で大いに期待された。

[田中一生]

日本との関係

両国の正式な外交関係は第一次世界大戦後の1923年に始まった。第二次世界大戦を経たのちの1952年(昭和27)に国交が再開されると、公使館、ついで大使館(1958)が両首都に設置される。1968年にチトー大統領の訪日、1976年には皇太子(現、上皇)夫妻のユーゴスラビア訪問がなされた。両国間には1959年に通商航海条約が締結され、互いに特恵関税を供与していたが、両国間の貿易総額はあまり多くなく、また毎年日本はユーゴスラビアへ10倍から20倍の輸出超過を記録した。

 文化交流の面では、第二次世界大戦前は重訳ながら『万葉集』と『古今集』の一部が、戦後も『斜陽』『こゝろ』『河童(かっぱ)』などが訳出された。その後、『雪国』『宴(うたげ)のあと』『黒い雨』などが直接訳されている。大都市ではときおり華道の講習会があり、ほかに茶の湯、能、浮世絵などに対する関心も高い。黒澤明(あきら)や溝口健二の映画は、名画座などで繰り返し上映され、柔道、空手、囲碁クラブもある。俳句への関心も強い。近年は日本経済の奇跡を紹介する概説書や専門書も出版されていた。1976年ベオグラード大学に日本語コースが設けられた。1985年、これが専門科目も備えて4年間の正式な専攻課程に昇格している。ほかにリュブリャナのスロベニア東洋学会が催す公開講座、ザグレブのスーバク・センターの日本語コースなどで学ぶ青年男女が増えた。日本では、ユニークなユーゴスラビアの社会・政治制度を研究する者が多いが、交換留学生として原地語を習得する者も増え、文学作品も大概は直接訳されるようになった。

 旧ユーゴスラビアの解体後、日本は、1992年クロアチアおよびスロベニアと、1994年マケドニア(現、北マケドニア共和国)と、1996年ボスニア・ヘルツェゴビナと、1997年新ユーゴスラビア(セルビア、モンテネグロ)と、それぞれ外交関係を結び、交流を続けている。

[田中一生]

『アンドリッチ著、松谷健二訳『ドリナの橋』(1966・恒文社)』『ブラトービッチ著、大久保和郎訳『ろばに乗った英雄』(1966・恒文社)』『ウラジーミル・デディエ著、高橋正雄訳『チトーは語る』(1970・新時代社)』『シュチェパノビッチ著、田中一生訳『土に還る』(1979・恒文社)』『M・ドルーロヴィチ著、高屋定国・山崎洋訳『試練に立つ自主管理――ユーゴスラヴィアの経験』(1980・岩波現代選書)』『トヨタ財団助成研究報告書『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(1982・東欧史研究会・日本東欧関係研究会)』『ライコ・ボボド編著、山崎洋訳『ユーゴスラビア―社会と文化』(1983・恒文社)』『岩田昌征著『凡人たちの社会主義―ユーゴスラヴィア・ポーランド・自主管理』(1985・筑摩書房)』『アダミック著、田原正三訳『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』(1990・PCM出版)』『柴宜弘編『もっと知りたいユーゴスラヴィア』(1991・弘文堂)』『パビッチ著、工藤幸雄訳『ハザール事典』(1993・東京創元社)』『伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾監修『東欧を知る事典』(1993・平凡社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィアで何が起きているか』(1993・岩波ブックレット)』『スティーブン・クリソルド著、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社)』『ドラクリッチ著、三谷恵子訳『バルカン・エクスプレス』(1995・三省堂)』『キシュ著、山崎佳代子訳『若き日の哀しみ』(1995・東京創元社)』『ドーニャ、ファイン著、佐原徹哉訳『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(1995・恒文社)』『柴宜弘著『バルカンの民族主義』(1996・山川出版社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(1996・岩波新書)』『アンドリッチ著、田中一生訳『サラエボの鐘』(1997・恒文社)』『中島由美著『バルカンをフィールドワークする』(1997・大修館)』『ウグレシィチ著、岩崎稔訳『バルカン・ブルース』(1997・未来社)』『『現代思想臨時増刊・ユーゴスラヴィア解体』(1997・青土社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ユーゴスラビア」の意味・わかりやすい解説

ユーゴスラビア

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