ユーゴスラビア(英語表記)Yugoslavija

デジタル大辞泉 「ユーゴスラビア」の意味・読み・例文・類語

ユーゴスラビア(Yugoslavia)

ヨーロッパのバルカン半島北西部を占めた連邦共和国。14世紀からオスマン帝国の支配下にあったが、第一次大戦後の1918年、南スラブ系の多民族最初の統一国家、セルビア‐クロアチア‐スロベニア王国が成立、1929年にユーゴスラビア王国と改称。1945年に連邦人民共和国、1963年に社会主義連邦共和国となり独自の民族主義社会主義政策を推進した。1991年から1992年にかけ、同国の解体・再編に伴いスロベニアクロアチアボスニア‐ヘルツェゴビナ・マケドニア(現北マケドニア)各共和国が分離・独立し、セルビア(ボイボジナ・コソボ2自治州を含む)とモンテネグロの2共和国が新ユーゴスラビアを構成していた。2003年国名をセルビア‐モンテネグロに改称したが2006年に両国が分離して完全に解体された。

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共同通信ニュース用語解説 「ユーゴスラビア」の解説

ユーゴスラビア

東ヨーロッパにあった多民族国家。第2次大戦後にユーゴスラビア連邦人民共和国が成立、旧ソ連と対立して独自の社会主義路線を進め、1963年に社会主義連邦共和国となった。91年のスロベニアとクロアチアの独立宣言を皮切りに、紛争を経て、北マケドニア(旧マケドニア)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、コソボ、セルビアの計7カ国に分裂。セルビアはコソボの独立を認めていない。(ウィーン共同)

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精選版 日本国語大辞典 「ユーゴスラビア」の意味・読み・例文・類語

ユーゴスラビア

  1. ( Yugoslavia )
  2. [ 一 ] バルカン半島北西部、アドリア海に面した社会主義連邦共和国。セルビア・クロアチア・スロベニア・マケドニア・モンテネグロ・ボスニア‐ヘルツェゴビナの六共和国で構成。一九一八年南スラブ諸民族初の統一国家セルビア‐クロアチア‐スロベニア王国が成立し、二九年ユーゴスラビア王国と改称。第二次大戦でドイツ軍に占領されたが、四五年自力で全土を解放してユーゴスラビア連邦人民共和国が成立。四八年民族主義的傾向によりコミンフォルムを除名され、独自の社会主義の道を歩み、六三年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称。九一年以降、スロベニア・クロアチア・マケドニア・ボスニア‐ヘルツェゴビナが連邦から独立して解体した。首都ベオグラード。旧ユーゴ。
  3. [ 二 ] [ 一 ]の構成国であったセルビアとモンテネグロの二共和国による連邦共和国。一九九二年成立。二〇〇三年、セルビア‐モンテネグロとなる。首都ベオグラード。新ユーゴ。

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改訂新版 世界大百科事典 「ユーゴスラビア」の意味・わかりやすい解説

ユーゴスラビア
Yugoslavija

基本情報
正式名称=ユーゴスラビア社会主義連邦共和国Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija 
面積=25万5800km2 
人口(1983)=2280万人 
首都=ベオグラードBeograd(日本との時差=-8時間) 
主要言語=セルビア・クロアティア語,マケドニア語,スロベニア語 
通貨=ディナールDinar

バルカン半島西部に1918年から1990年代初めまで存在した国家。精確には,1918年からの〈セルビア人クロアチア人スロベニア人王国〉,1929年からの〈ユーゴスラビア王国〉,および1945年からの〈ユーゴスラビア連邦人民共和国〉と1963年からの〈ユーゴスラビア社会主義連邦共和国〉に分かれるが,一括して〈ユーゴスラビア〉と称され,日本では〈ユーゴ〉とも略称された。〈ユーゴスラビア〉とは〈南スラブ人の国〉を意味し,その名のとおり南スラブ諸族を主体とした多民族国家だった。ベオグラードを首都とし,1991年当時の人口は約2346万,面積は約25万km2。現在では,スロベニア共和国,クロアティア共和国,ボスニア・ヘルツェゴビナ,マケドニア共和国,およびユーゴスラビア連邦共和国(セルビア,モンテネグロ)の5国に分かれる。一般に,この国家を〈旧ユーゴスラビア〉,1992年に成立したユーゴスラビア連邦共和国を〈新ユーゴスラビア〉ともいう。〈新ユーゴ〉は改編され,2003年2月に新国家連合〈セルビア・モンテネグロ〉となったが,06年6月にモンテネグロの独立によって国家連合は解消した。

 なお,本事典のユーゴスラビア関係項目は,1990年代初めまで存在した旧ユーゴスラビアを本項目で扱い,以後成立した新国家はその歴史とともにそれぞれの項目で扱う。

アドリア海にほぼ平行に長さ900kmにわたって延びるユーゴスラビアの地形は複雑多様であるが,通常大きく三つの部分に分けられる。まず西部アドリア海沿岸地帯は,入り組んだ海岸線と725の島から成り,温暖で(冬季の結氷はまれ)夏乾冬湿の地中海式気候が支配的であり,近年国際的観光地として急速に台頭した。次に中央部から南部にかけ国土の大半を占める山地,丘陵地帯(国土の70.6%が標高200m以上)が広がる。それほど高い山はなく,大部分が森林,耕地など緑に覆われているが,アドリア海岸に沿って険阻な山脈(ディナル・アルプス山脈)が走り,これが温暖な地中海式気候の内陸部への浸透を妨げている。このため寒暑の差が大きく,冬季にはかなりの積雪がある。第3は北部,北東部のドナウ川,サバ川などの流域に広がる平野部である。ハンガリー盆地の一部をなし,寒暑の著しい大陸性気候に支配されるが,地味豊かでユーゴスラビアの穀倉地帯となっている。なお,アドリア海沿岸一帯は世界有数のカルスト地帯として知られ,大規模な鍾乳洞がある。

 次に主要な山脈,川,湖をみていくことにしよう。中央ヨーロッパのアルプス山系がユーゴ北西部に延びる(ジューリ・アルプス),これに接続するディナル・アルプス山脈がアドリア海に沿って南下し,さらにマケドニアのシャルン・ピンド山脈へ続く。この一連の山系が〈ユーゴの屋根〉をなし,ユーゴ有数の高峰もおおむねこの中にある。最高峰は北西端ジューリ・アルプスのトリグラフTriglav山(2864m)である。

 河川では,ハンガリーから入り,ベオグラードを通ってルーマニア,ブルガリアへ去るドナウ川(ユーゴスラビア内の長さ591km)が,スロベニアに発してベオグラードまで940kmを流れるサバ川(国内最長),セルビアを北上するモラバ川,北部国境地帯を西へ向かうドラバ川などを集めて,ユーゴスラビアの河川水量の約7割を黒海へ運ぶ。ヘルツェゴビナのネレトバNeretva川などアドリア海へ流入する水量は約2割である。残り1割は,マケドニアのバルダルVardar川によりエーゲ海へ運ばれる。河川の全長約11万8000km,うち2100kmが通常水位で航行可能である。

 大小合せて約300の湖のうちアルバニアとの国境にあるシュコダル湖(スカダル湖。面積391km2のうちユーゴスラビア領253.1km2)とオフリト湖,それにアルバニア,ギリシアとの国境にあるプレスパPrespa湖(面積274km2のうちユーゴスラビア領176.8km2)がずば抜けて大きい。そのほか何段もの滝を伴うプリトビツェ湖(クロアティア)や名湖といわれるブレッド湖(スロベニア)が名高い。近年ダム建設による人造湖も増えた。

 地形,気候の多様性のゆえに動植物の種類はヨーロッパ諸国の中で最も多い部類に属する。ユーゴスラビアに生息する野生哺乳類約90種のうち一般的なものとしては,ウサギ,キツネ,オオカミ,イノシシ,シカ,アイベックスなどがあり,ボスニアやクロアティアの森には相当数のクマが,またマケドニアの山中には珍しい種類のオオヤマネコがいる。淡水魚はコイ,マス,ナマズ,チョウザメなど多種類がみられる。なかでも形成されたのがヨーロッパ最古といわれるオフリト湖は,氷河期以前の生物の宝庫である。アドリア海ではタイ,イワシ,サバ,ボラなどがとれる。

 国土の34%が森林に覆われ,うち3分の2が落葉樹で,その代表的なものはオーク,ブナ,イチョウ,シラカバなどである。針葉樹ではマツ,モミ,トウヒなどが多い。

国名〈ユーゴスラビア〉は〈南スラブ人の国〉を意味し,その名のとおり南スラブ諸族を主体として成立した国であるが,ほかにも多くの民族を含む。ユーゴ内のおもな南スラブ族としてはセルビア人,クロアティア人,スロベニア人,マケドニア人,モンテネグロ人の5民族のほか,〈ムスリム(イスラム教徒)〉というユーゴスラビア独特の民族がある。これはかつてオスマン帝国に支配されていた間にイスラム化した南スラブ人の子孫を指す。これら諸民族はユーゴスラビア連邦国家のなかでそれぞれの名を冠した共和国を形成している(ただし,ムスリムは同じ地域に住むセルビア人,クロアティア人,とともにボスニア・ヘルツェゴビナ共和国を形成)。このほかの民族では表にみる通りアルバニア人とハンガリー人が多く,それぞれコソボ自治州とボイボディナ自治州で大きな比重を占めている。また最近は,混血やユーゴスラビア人意識の成長により,自分を特定の民族に属さない〈ユーゴスラビア人〉と考える人々も増えている。なお,第2次大戦前はマケドニア人とモンテネグロ人はセルビア人に含まれるとされていたが,戦後,連邦制の発足とともに独自の民族としての地位を与えられた。

 言語の面でも,ほぼ民族の数に見合う多種の言語が存在するが,二大民族の言語であるセルビア語とクロアティア語はよく似ているので一つの言語として扱われ,〈セルビア・クロアティア語(セルボ・クロアティア語)〉または〈クロアティア・セルビア語〉と称される。この言葉はモンテネグロ人,ムスリムの間でも話され,スロベニア語,マケドニア語とともに公用語となっているほか,事実上ユーゴスラビアの共通語としての役割を果たしている。しかしユーゴスラビア多民族国家体制の基本である〈各民族平等〉の原則に基づき,ユーゴスラビア国民はだれでも自民族語で基礎的教育を受け,また公の場では自民族語で話す権利を有する(このため連邦議会や裁判所などでは,民族語間の通訳が行われている)。文字は,スロベニア,クロアティアではラテン文字,セルビア以南では主としてキリル文字が使われている。

 宗教の面では,セルビア人,モンテネグロ人,マケドニア人は正教徒(セルビア教会とマケドニア教会),クロアティア人,スロベニア人はカトリック教徒,ムスリム,アルバニア人はイスラム教徒であり,その他の民族もそれぞれの宗教(主としてキリスト教系の諸宗派)を有する(ただし,現在は自分を無宗教であるという人も少なくない)。宗教はかつてこれら諸民族の民族性の形成・保持,民族意識の発達に大きな役割を果たしたが,戦後は憲法に〈宗教は私事である〉と規定され,政治への介入を禁じられている。

ユーゴスラビアの前身となる南スラブ族を包摂する多民族国家が樹立されたのは,第1次大戦後の1918年12月である。南スラブ諸族は,6世紀末以降,この地域に移住・定住を始め,中世には,それぞれの先住の,あるいは周辺の民族・文化の影響を受けながら言語・宗教などの面で異なった民族・国家形成が進んだ。15世紀以降はオスマン帝国やオーストリア・ハンガリーの支配下に入り,やがてこれらの支配からの解放,南スラブ族の独立・統一を目ざす民族運動が強まり,これが現在のユーゴスラビア国家を形成する基礎となった。ここでは,南スラブ族の統一国家としてのユーゴスラビアの形成とその課題を中心に述べ,統一前のとくに古代・中世の歴史については,〈クロアティア〉〈スロベニア〉〈セルビア〉〈ボスニア・ヘルツェゴビナ〉〈マケドニア〉〈モンテネグロ〉などのユーゴスラビアを形成する諸地域の項目で詳述することとする。

南スラブ諸族を結集した統一国家をつくろうという運動(ユーゴスラビア主義,イリュリア運動)は19世紀以来さまなまな形で存在した。とくに20世紀に入ってからは,すでにオスマン帝国の支配からの独立を達成していたセルビア王国の興隆に刺激されて活気をみせていたが,当時クロアティア人とスロベニア人(およびセルビア人の一部)は依然強大な(と思われていた)オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり,南スラブ統一国家の形成は夢物語にすぎなかった。しかし,第1次大戦が勃発し思いもかけず同帝国が崩壊したことにより,この南スラブ長年の夢が一挙に実現されることとなった。1917年ギリシアのコルフ島でセルビア王国と帝国内の南スラブ人の代表が会し,新国家形成に関する宣言(コルフ宣言)を発表した。そして帝国瓦解直後の18年12月,セルビア,モンテネグロ両王国,旧帝国領内のクロアティア,スロベニア両地方を合わせ,セルビア王家の下に立憲主君制をとる〈セルビア人クロアティア人スロベニア人王国〉の樹立が宣言されて。これがユーゴスラビアの前身である。

 新王国は発足の当初から,中央集権を当然のこととするセルビアと連邦制を主張するクロアティアとの対立に悩まされ,ついにこれを克服することができなかった。21年の憲法制定議会のときからクロアティア系主力議員はしばしば議会に欠席し,それがために王国の政治はますますセルビア主導となり,これがクロアティアの反発をさらに強めるという悪循環が繰り返された。それでもなお,当初の約10年間新王国は西ヨーロッパへの農産物輸出国として台頭しえたため工業化も進み,国内は活気に満ち,前途有望な国にみえた。

 しかし民族対立に起因する政争はさらに深刻化し,28年には議会内で与党の一議員が野党クロアティア農民党の党首などを殺傷するという事件すら起こった。ここにいたって国王アレクサンダル(在位1921-34)は独裁に乗り出し,29年議会を解散,民族的・地方的性格の政党禁止など各民族の独自性を無視する政策を打ち出し,国名も〈ユーゴスラビア王国〉と改称した。他方,30年代に入り大恐慌が波及,とくに農産物国際価格の急落は王国の経済を苦境に追い込んだ。農業機械の普及により生産力を増したアメリカの農産物がヨーロッパに押し寄せ始めていたことも打撃であった。34年アレクサンダルは訪仏中のマルセイユでクロアティア分離主義者の手先により暗殺された。従弟のハブレが摂政となり立憲政治を復活させたが,状況は改善されず,結局クロアティアを自治州にして(1939)宥和を試みたものの,その成否をみる前に第2次大戦に巻き込まれることとなった。

 対外的には,セルビア王国時代から親しかったフランスが国内問題と対独政策に追われてバルカンへの関与を減じ,代わってバルカン進出を策しつつあったナチス・ドイツがユーゴスラビアに接近,41年3月ユーゴスラビアを日独伊三国同盟に引き入れることに成功した。しかしその直後D.シモビッチ空軍司令官を指導者とする反独派がクーデタを決行して親独内閣を倒し,未成年のペータルを国王に擁立して新政府を樹立,国民の歓呼を受けた(3月27日)。10日後の4月6日ヒトラーはベオグラードを爆撃,同時に四方から国境を破って侵入し,ユーゴスラビア軍は10日間で崩壊,国王と政府は国外(最終的にはロンドン)に亡命した。

 ユーゴスラビアは枢軸諸国によって分割占領されたが,クロアティアのみは〈クロアティア独立国〉と称するナチスの傀儡国家となった。これに対し,独ソ開戦後の7月,ユーゴスラビア共産党書記長チトーを指導者とする対独パルチザン戦争が開始された。1921年以来非合法化され地下運動を続けてきた共産党はパルチザン戦争において高度の組織力と行動力を発揮し,2ヵ月間でセルビアとモンテネグロの大半を影響下に置くほどの勢力となった。その後ドイツ軍の反攻と弾圧(クラグイェバツでは学校生徒を含む7000人を虐殺)によりセルビアを追われ,本部をボスニアやヘルツェゴビナの山中に移し苦しい戦いを続けたが,この時期を通じてパルチザン活動は全土に拡大していき,43年11月ボスニアのヤイツェで開催した第2回人民解放反ファッショ会議でチトーは臨時政府の樹立を宣言した。ドイツ軍は7次にわたり大規模なパルチザン本部(とくにチトー自身)の捕捉作戦を行ったが成功しなかった。こうして,パルチザン軍(人民解放軍)は45年5月ほぼ自力で全土を解放した。ソ連からの援軍が到着したのは,1944年10月,すでに戦局の帰趨が明らかとなった最終段階であった。

 パルチザン戦争はユーゴスラビア国民にとって一大叙事詩であり,これを通じて初めて,セルビア人やクロアティア人ではなくユーゴスラビア人としての意識が大量に生まれていった。パルチザンについては多くが語り継がれているが,なかでも自ら退路を断つという大胆な戦術で数千の傷病兵を救出したネレトバ川の戦やチトー自身も負傷した最大の激戦スーチェスカの戦などが有名である。パルチザンのほか旧ユーゴスラビア軍のD.ミハイロビッチ大佐が指揮する抵抗組織〈チェトニク〉も存在したが,セルビア主義に固執して全ユーゴスラビア的展望をもたず,のちには占領軍と組んでパルチザンと戦った。連合国も当初チェトニクを支持したが,のちパルチザン支持に切り換えた。

45年3月チトーは連合国の意向を受け入れていったんは亡命政権との連立内閣を組織したが,11月の総選挙で共産党の率いる人民戦線が大勝,同29日〈ユーゴスラビア連邦人民共和国〉の成立(王制廃止,連邦制の導入)を宣言,翌46年1月憲法を採択し社会主義体制を確立した。当初ユーゴスラビアはソ連型の中央集権体制をとり,ソ連との団結を誇り,西側諸国とはトリエステ問題などもあって激しく対立していた。

 しかし,48年6月スターリンはチトーを〈破門〉して(コミンフォルムのユーゴ追放決議)世界を驚かせた。この決議はユーゴスラビアの政策がまちがっておりかつ反ソ的であると述べていたが,追放の真の理由は,4年にわたるパルチザン戦争を通じて広範な国民の支持を集め,自己の権力基盤に十分の自信をもつチトーが,ソ連に対しても自己の主張を貫こうとし(在ユーゴ・ソ連軍事顧問団削減要求,ユ・ソ合弁企業ににおける対等性要求,スターリンの了承なきバルカン連邦構想の打上げなど),これが社会主義世界の盟主として君臨していたスターリンの逆鱗に触れたという点にあった。ソ連と東欧諸国はユーゴスラビアとの条約・協定を破棄し,経済封鎖を行い,ありとあらゆる中傷,悪罵を浴びせてチトー政権を倒壊させようとした。チトーは国内を引き締め,また西側諸国との関係を改善して(アメリカ・イギリスとの経済協定,アメリカからの借款取得など)圧力に耐えた。

 一方,ソ連圏から追放されたことは,ユーゴスラビアが自らの条件に適した体制・政策を選択する自由を獲得したことをも意味した。50年工場・企業に労働者評議会を導入し,以後独自の社会主義自主管理体制を発展させていった。外交においては東西両ブロックのいずれにも属さない道を探求,61年第1回非同盟首脳会議を主催し,以後一貫して非同盟路線(非同盟)を歩んでいる。

 1953年のスターリン死後,対ソ関係は改善に向かい,55年フルシチョフ第一書記がブルガーニン首相とともにユーゴスラビアを訪問,詫びを入れてチトーと和解した。ソ連側の意図はユーゴスラビアを再びソ連圏に引き戻すことであったが,チトーはこれを拒否し,社会主義国間の関係といえども〈独立,主権,平等,内政不干渉〉の原則に基づくべきことを主張,この原則はその際出された〈ベオグラード宣言〉および翌56年チトー訪ソの際の〈モスクワ宣言〉に明記され,対ソ関係の原点として常に引用されるものとなった。

 63年新憲法を採択して国名を現在のものに改称するとともに,自由な競争社会としての自主管理体制を定式化し,これに基づいて65年貿易業務を含む思いきった経済自由化を断行した。各企業はそこに働く労働者によってほぼ完全に管理運営されることとなり,各自がより大きな利益を求めて競争し,ユーゴスラビア社会は活気に満ち,対外的にも大きく開放された国となった。しかし,このような〈レッセ・フェール〉的自主管理は所得格差の拡大をもたらして社会的不満を醸成し,またユーゴスラビアにとり最も警戒すべき民族的対立感情を再熱させた。71年外貨の分け前をめぐる不満を契機としてクロアティアで民族感情(反中央政府感情)が燃えさかり,チトー自らクロアティア指導部を更迭してようやく事態を収拾した(クロアティア事件)。こうした状況を踏まえ,各共和国・自治州の権限を拡大して地域的・民族的不満を防止する一方,党(共産主義者同盟)の役割を強化して地域的・民族的エゴを抑制し,自主管理の基礎単位である単位企業(協同労働基礎組織)を全ユーゴスラビア社会の中核に据えること(自主管理の徹底化)などを目的として74年新憲法を制定,76年には600余条にわた自主管理のあり方を規定した〈協同労働法〉を採択した。しかし,これら新制度の発足がたまたま石油危機とこれに続く世界経済の混乱,停滞の時期に当たったため,新制度下において経済はインフレ,外貨不足,債務累積を中心として悪化することとなった。

 80年5月,チトー大統領が死去した。以後,連邦への求心力は弱まり,91年6月,クロアティアとスロベニアが独立を宣言,ここに連邦は崩壊した。92年4月,セルビアとモンテネグロが改めてユーゴスラビア連邦を結成した。親ユーゴスラビア連邦の面積は10万2173km2,人口は1063万(1992)。首都はベオグラード。

ユーゴスラビアは〈社会主義自主管理〉と呼ばれる独特の体制を築き上げてきたことで知られる。生産手段は国有ではなく〈社会有〉(社会全体のもの)とされ,したがって国有企業はなく,零細な手工業的なものを除き私有企業もない。経済活動の主力を担うのは,国家にも個人にも管理されない,それぞれ独立の〈社会有企業〉(ユーゴスラビアの用語では〈協同労働組織〉)である。これら企業は,そこに働く労働者自身によって管理・運営される。企業の存立にかかわる最重要事項は全労働者による集会や投票で,その他の重要事項(生産・投資計画,賃金など)は全労働者から選出された〈労働者評議会〉で決定され,労働者評議会が経営の専門家として公募のうえ任命する企業長(社長)がこれら決定の執行に当たる。こうして各企業は自己の判断に基づいて生産し,生産物を他企業と競争しつつ市場で販売し,収益の配分を行う。業績がよければ賃上げも可能となり,その逆ならば賃金カットひいては倒産もあうる。

 ところで,現行自主管理体制の生みの親ともいうべきカルデリEdvard Kardelj(1910-79)によれば,自主管理の大原則は〈労働者は自らが実現した所得(つくりだした富)を自ら支配しなければならない〉という点にある。ここにいう〈実現した所得〉は企業内に残された所得だけではない。国家がその機能を維持するための諸経費(歳入)なども,もとはといえば労働者が実現した所得の一部が税金その他の形で企業外に流出していったものにほかならない。したがって,労働者は企業外の所得についても支配しなければ自主管理を貫徹したことにならない。この見地から,企業(協同労働組織)は経済以外の分野でも重要な役割を与えられ,全ユーゴスラビア社会における核ともいうべき地位を占めている。連邦議会選挙では選挙母体の一つとなり,共和国議会とオープシュティナ(市町村)議会(いずれも三院制)では,企業代表が〈協同労働院〉を構成するなど,企業(労働者)代表は政治において特別の発言権を有する。また,教育費,社会保障費など通常は国家や地方自治体の予算で賄う費用についても,租税→国家・地方自治体→配分という過程を経ずに,企業と地域住民が学校側などと話し合って直接支出するというしくみになっている(教育財政などの自主管理)。

 こうして,1950年工場に労働者評議会を設置するところから始まった自主管理制度は,数次にわたる大規模な制度改革,とくに74年の新憲法,76年の〈協同労働法〉を経て,いまやユーゴスラビアの全体制を律するものとなっている。

ユーゴスラビアは,スロベニア,クロアティア,セルビア,ボスニア・ヘルツェゴビナ,モンテネグロ,マケドニアの6共和国(正式には〈社会主義共和国〉)とセルビア共和国に属するボイボディナ,コソボの2自治州からなる連邦国家である。第2次大戦前は王政下にあって政府や国王が強力な中央集権を目ざしたことがかえって民族間の対立を深刻化したことを教訓として,戦後は社会主義政権の樹立とともに連邦性を確立した。

 これら共和国は1974年の新憲法などによりその権限を拡大し,連邦の権限は相対的に縮小されてきている。また各共和国は連邦組織のなかで規模の大小にかかわりなく同等の権利をもつ。両自治州も,形のうえではセルビア共和国に属するが,実質的には多くの点で共和国に等しい権利をもつようになっている。こうしたことは,次に述べる連邦諸機関の構成や決定方法によく表われている(なお,各共和国・自治州については,それぞれ当該の項目で地理,住民,産業などの特徴が詳述されているので参照されたい)。

 主要国家機関としては次のものがある。(1)連邦幹部会 〈集団大統領〉と俗称されているもので(大統領職は1980年チトー大統領の死をもって廃止された),各共和国・自治州議会で1名ずつ選出された代表計8名(任期5年)に党(共産主義者同盟)議長を加えた9名で構成される。党議長を除く8名が輪番で任期1年の議長(元首格)になる(集団・輪番指導制)。(2)連邦議会 連邦院と共和国自治州院の二院で構成される。各院は選出方法,担当分野,決定方法などを異にする。両院とも任期は4年である。また各院議長のほか,両院を合わせた連邦議会議長が置かれている。連邦院は定員220名(共和国から各30,自治州から各20)で,予算・決算採択のほか,主として政治・軍事問題にかかわる法案を審議し,多数決で決定する。共和国自治州院は定員88名(共和国議会議員のなかから各12,自治州議会議員から各8)で,主として経済問題を扱う。採決に際しては出身共和国・自治州単位で投票し(したがって投票総数は8),かつ全会一致をもってのみ採択する(すなわち各共和国,自治州は拒否権をもつ)。(3)連邦執行会議(内閣) 連邦議会の執行機関であり,議会に責任を負う。連邦執行会議議長(首相)は連邦幹部会の提案に基づき連邦議会で選出される。閣僚(首相を含め29名)の任命に当たっては内閣の民族構成が片寄らぬよう配慮しなければならない。

 政党としては,共産主義同盟が唯一の政党である。1919年社会主義労働党として創立され,20年共産党と改称し,21年非合法化された。37年チトーが書記長となり,第2次大戦中パルチザン戦争の中核としての役割を果たし,45年権力を掌握,社会主義建設を主導している。自主管理制度の導入に伴い,52年の第6回党大会で,党は権力を行使するのではなく,思想的・政治的指導勢力として説得により影響力を有すべきものとされ,名称も,スターリン型の党でないことを示すため表記の通り改めた(ただし本項では〈党〉と略称)。その後レッセ・フェール的自主管理が推進された60年代を通じて影響力を減じたが,70年代に入って再び指導力を回復しつつある。主要な機関としては大会,中央委員会,大会から次の大会までの最高指導機関である中央委員会幹部会(共和国から各3名,自治州から各2名,軍から1名の計23名)がある。幹部会議長(党首)は各共和国・自治州代表が1年ずつ輪番で務める(1980年死去のときまでチトーが党議長であった)。

 以上にみられる通り,国家機関においても党においても共和国,自治州のさまざまな利害が決定に反映されるよう細心の注意が払われている(集団・輪番指導制,役職の平等配分,全会一致方式など)。したがって複数政党制ではないが,一党独裁ともいいがたい。カルデリはこれを複数政党主義ではなく〈複数利益主義〉と名づけた。異なった民族,異なった経済水準,異なった文化的伝統などからくるさまざまな利害関係をつき合わせ,妥協点を見いだし,全会一致で決定に持ち込むことは容易ではなく,事実,経済政策などで後手に回ることも少なくないが,他方,このような行き方により,チトー亡き後も高度の政治的安定を維持しているといいうる。

1948年にソ連圏から離脱してからは東西いずれのブロックにも属さず,61年の非同盟運動発足のとき以来非同盟政策を堅持している。ユーゴスラビアは中立主義といわれることを好まない。なぜなら,ユーゴスラビアとしては非同盟の原則(各国の主権・独立・平等の尊重,内政不干渉,大国やブロックの力の政策への反対)を貫いているのであって,中立や等距離であること自体を目的としているわけではないからである。他方,ヨーロッパの小国として外交上の鋭敏なバランス感覚に富んでいることも事実である。こうして,ユーゴスラビアの外交は,原則の貫徹とバランス感覚という一見相反する要素を組み合わせつつ,世界の孤児といわれた苦難のときを経て,現在は,アメリカ(および西側),ソ連(および東側),中国のいずれとも太いパイプを維持している。とくに以前ユーゴスラビアを激しく攻撃したソ連,次いで中国がいずれも和解を求めてきたことは,すなわちソ連のフルシチョフの来訪(1955),中国の華国鋒の来訪(1978)は,ユーゴスラビア外交の大きな成功であるとされる。100ヵ国以上を擁するにいたった非同盟世界で重きをなし,7ヵ国ある隣接国との関係もおおむね良好である。ブルガリアとはマケドニア問題で,アルバニアとはコソボ問題でときおり論争にいたるが,決定的な関係悪化へ向かう兆候はない。

 なお非同盟運動は,要するに各国が大国に支配されることなく〈自主管理〉することを目的としているといいうるのであり,その意味でユーゴスラビアの外交は内政との一貫性を保持していることを指摘しておきたい。

 軍事面では,パルチザン戦争の経験に基づき,ユーゴスラビア人民軍(正規兵)と地域防衛隊(市民兵)を統合する〈全人民防衛体制〉をとっている。人民軍の兵力は陸海空合わせて現在約24万で,これに加え戦時には200万の動員力を有する地域防衛隊が人民軍と連携して戦い,占領された後も武力抵抗を継続することとなっている。そのため全市民は平時から防衛活動の訓練を受けることが義務づけられている。また人民軍の大規模演習には必ず地域防衛隊との連携作戦が盛り込まれている。小国ユーゴスラビアにとって,このような国防体制こそが最も効果的な抑止力であるとされている。

 日本との外交関係は,1952年に第2次大戦でとぎれていた外交関係を再開し,以来友好関係を維持している。59年通商航海条約,67年査証免除協定,68年文化協定,81年科学技術協力協定を締結した。68年チトー大統領が訪日し,80年5月同大統領の葬儀に大平首相が参列した。

ユーゴスラビア経済は,個々の自主管理企業の自由な経営活動を基礎とする市場経済であり,その市場は対外的に開放されている。また地域格差が大きいが,全体としてみれば発展途上にある経済である。したがって,国内の需給関係,世界経済の動向などの影響を受けやすく,好・不況の波が大きい。反面,自主管理体制は個々の企業に活気を呼び起こし,全体としての経済に弾力性と強靱さをもたらし,これまで多くの困難を乗り切り,長期的にみれば多民族国家としてのユーゴスラビアの政治的安定に資してきたといえよう。

 このようなユーゴスラビア経済の骨格は1960年代の経済改革の時期に形成されたと考えられる。社会主義自主管理の導入は1950年に始まったが,当初労働者は管理の一部を任されたにすぎず,とくに金融部門は依然国家の手に残されていたため,経済の動きは円滑さを欠き,〈計画経済の硬直性と市場経済の無政府性を併せもったような〉と評された。63年の新憲法と65年の経済改革(自由化)はこのような中途半端を一掃することをねらい,企業経営をほぼ全面的に自主管理にゆだねるとともに,貿易業務を一般企業に開放し,金融(資金調達)についても,企業と,このとき国家の手を離れた銀行との直接交渉に任せることとした。のちに〈20世紀後半のレッセ・フェール主義〉と呼ばれることになるこの改革は,数年にして多くのマイナス面を露呈するにいたったが,それでもなおユーゴスラビアの労働者はここで初めて自主管理の何たるかを学んだのであり,企業経営上のまたとない学校となった。ともあれ,これ以後,需要のあるところに生産が赴くという,経済としてはごく自然な形が確立され,消費財特に耐久消費財産業は飛躍的に伸長し,特別の場合を除き行列買いなどの現象はみられなくなった。出入国の大幅自由化により,多数のユーゴスラビア人労働者が西ドイツはじめ西欧諸国に出稼ぎに行き(一時は100万人を超えた),アドリア海岸を中心とする観光地には年々数百万の外国人観光客が訪れ,国外のユーゴスラビア人からの送金と観光収入は重要な外貨獲得源となった。外国企業との合弁事業の道も開かれた。しかし他方,インフレーション,貿易赤字の増大,産業構造の歪み(加工部門の肥大化と原料・インフラストラクチャー部門の立遅れ)などのマイナス面が現れ,とくにレッセ・フェール的風潮が地域的・民族的エゴを刺激し(先のクロアティア事件),または野放しとなった銀行が〈50年前のアメリカの銀行のように〉企業を支配して自主管理を形骸化するなど,ユーゴスラビアの体制の根幹にかかわる問題も生じるにいたった。

 そこで,自主管理形骸化阻止(自主管理の基礎単位たる協同労働基礎組織,単位企業の権限強化,銀行の影響力抑制など),投資の適正化,共和国・自治州の自主性拡大(地域的・民族的不満の防止)などを骨子とする体制の手直しが行われた(1974年の新憲法制定,76年の〈協同労働法〉採択)。

 しかしながら第1次,第2次の石油ショックとこれに伴う世界経済の停滞は,いまだ発展途上にあり国際競争力に乏しいユーゴスラビア経済に甚大な打撃を与え,ユーゴスラビアは輸出停滞,外貨不足,債務累積を中心とする経済困難に直面することになった。政府は一連の引締政策を基軸としてその克服に努めるとともに,このような困難はユーゴスラビアのみならず発展途上国に共通する問題であり,先進国に有利な現行の国際経済体制が存続する限り解消されないとして,非同盟諸国とともにUNCTAD(国連貿易開発会議)などの場で新国際経済秩序の確立を強く主張している。

 ユーゴスラビア経済の概況は次の通りである。GNP630億ドル(1981),1人当たりGNP2790ドル。ただし地域格差が大きく,最も低いコソボ自治州(2008年セルビアからの独立を宣言し,コソボ共和国となる)の1人当りGNPは最も高いスロベニア共和国の1/7であり,格差の縮小は大きな課題である。戦前7割を超えていた農業人口は現在3割弱となっている。うち9割が個人農(10haまで所有可)であり,個人農が全耕地の85%を占める(残り15%は自主管理の農業企業に帰属)。食糧は自給を達成している。工業では,造船,自動車,電機,繊維,家具などが目だっている。粗鋼生産は414万t(1983)。エネルギー部門については,83年の石炭生産は5850万t(ただし褐炭が多い)で,石油は413万tを国内で生産,935万tを輸入に頼った(1981)。輸入石油の半分は中東・北アフリカから,残り半分はソ連からである。83年の輸入総額99億ドル,輸入は122億ドルで,4割が西側諸国,同じく4割が東側(コメコン)諸国,2割が第三世界との貿易である。ECとの通商協定を結んでおり,コメコンの加盟国ではないが,その部門別委員会のいくつかには参加している。

社会保障のおもなものは医療サービスと老齢年金である。そのいずれも〈保険〉であり,労働者は月々掛金を払い込む。掛金の額の決定,資金の管理はそれぞれの〈自主管理利益共同体〉が行う(国家が税金として吸い上げたものを国家予算から支出するというやり方は自主管理の理念にそぐわない)。医療費は通常わずかな自己負担を除き全額給付で,老齢年金は男40年,女35年の労働年数に達すれば,最近10年間の平均月収に相当する額の年金が受けられる。週42時間労働(大多数の企業は週5日制)で,年次休暇は最低18日が憲法によって保証されている。

義務教育は8年で,中等教育(4年)については74年以降新制度が導入された。以前の普通学校,職業学校等の区別をなくし,中等・職業教育課程として一本化し,生徒は選択課目の選び方により将来の進路を決めていく。大学は19校あり,原則として入学試験はないが(最近は実施する学部も増えてきた),卒業するのはむずかしい(1981年度の入学者約41万人,卒業者は5万6000人であった)。教育財政も〈自主管理共同体〉にゆだねられており,国家予算には教育費は含まれていない。

新聞社,放送局も他の企業と同様独立の自主管理企業であり,国営のマスコミ機関はない。日刊紙は27種,総発行部数は約230万に上る。地域によりそれぞれの民族語で出されている。全国紙の《ボルバ》,ベオグラードの《ポリティカ》,ザグレブの《ベスニク》などがよく読まれている。

 テレビ放送は1958年に開始された。受信契約者数は約460万で,都市部ではほぼ各世帯に行きわたっている。チャンネルは二つで,各共和国・自治州に放送局があり,独自の番組を組んでいる。72年カラー放送を開始した。ラジオ局は約200局あり,中・短波およびFM放送を行っている。テレビ・ラジオ局の財源は受信料とコマーシャル収入による。

最も人気があるのはサッカーで,プロのリーグもある。国際的にみて水準が高いのはバスケット・ボールと卓球で,なかでもバスケットのナショナル・チームは国際試合でほとんど常に優勝候補にあげられる。そのほか水球,ハンドボールなど一般に球技が盛んである。柔道,空手のクラブもあり,関心は強い。1万に近いスポーツ・クラブがあり,そこから有望な選手が育ってくることも多いが,国家の手で養成される選手は存在しない。
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ユーゴスラビアの文化は,その主体であるスラブ人の文化を基調としながらも,古代のギリシア・ビザンティン文化,イリュリアやローマ・ラテン文化,トルコ・イスラム文化,オーストリア・ハンガリー文化などから大きな影響を受けている。これらの影響は,たとえばオスマン帝国の支配下に長くあったセルビアやボスニアと,オーストリア・ハンガリーの支配下にあったクロアティアでは大きな違いがみられる反面,近代においては,同じ南スラブ族としての共通性を強調する動きもみられた。ここでは,文学,演劇,音楽,美術などの面にわたり,ユーゴスラビア国家形成の前にたちかえりながら,それぞれの歴史的・文化的特質を概観することにしよう。

6世紀末から7世紀にかけてバルカン半島に定住した頃のスラブ族は,文字をもっていなかった。ビザンティン世界との接触によって文明を知り,皇帝がモラビアへ送った〈スラブ人の使徒〉キュリロスとメトディオス兄弟によって文字を与えられ,9世紀中ごろにはキリスト教を受け入れた。グラゴール文字といわれた最初の文字は,キュリロスの弟子たちが改良してキリル文字となった。10世紀マケドニアのオフリト湖畔で,これを使って宗教書が翻訳されたり聖者伝が書かれたりした。それが南スラブ文学の始まりであろう。この頃は,南スラブ族の間では共通の古代スラブ語が用いられていた。

 しかし,その後の南スラブ族の言語・文学は,地域によって異なった歩みを示す。マケドニア人自身はまもなく独立を失い,20世紀まで文語をもたず,わずかに口承文芸をはぐくむだけであった。スロベニア人も早くから他民族の支配を受け,初期のわずかな碑文を除いて文書類は残っていない。文学の誕生は,はるか後の16世紀である。セルビア人とクロアティア人は中世に国家を形成しただけに,早くから独自の文学を生んだ。12世紀まではおもに教会関係の写本や翻訳書の域を出なかったが,まずセルビアではネマニッチ王朝時代(12~14世紀)と15世紀にかけて,聖人伝に倣った一連の伝記が書かれた。その後はオスマン帝国の支配下にあって,口承文芸に民衆の情念がうたい込まれた。12世紀以来ハンガリー支配下で半独立の状態となったクロアティアでは,ドゥブロブニクのみ独立を保ち,海運と商業で繁栄を謳歌した。15世紀にはペトラルカなどイタリア人作家の影響をうけて,詩歌,戯曲,散文に新しい傾向の作品が生まれた。16世紀に入るとドゥブロブニクを中心にスプリト,サダル,シベニク,フバル島などの海岸都市にルネサンス文学が花開き,マルリッチMarko Marulić(1450-1524),ルツィチHanibal Lucić(1458?-1553),ドルジッチらが輩出した。しかし,ドゥブロブニク文学は17世紀のグンドゥリッチで頂点に達し,その後衰弱した。モンテネグロでは,15世紀末ユーゴスラビア初の書物として宗教書が印刷された。しかしオスマン帝国との戦闘に明け暮れる同国に文学が生まれるのは,19世紀まで待たなければならない。

 スロベニアでは16世紀にプロテスタンティズム運動がさかんとなり,トルバルが文語を確立した。ただ国民文学が成立するのは19世紀で,それまでは劣ったスロベニア語で作品をものすることはできないと考えられた。18世紀に入って,ハプスブルク帝国内のスロベニア人やクロアティア人の間にも啓蒙文学が流行し,それぞれリンハルトAnton Tomaž Linhart(1756-95)とブレゾバチュキTito Brezovački(1757-1805)という代表者に得た。セルビア人ではオブラドビッチが傑出している。

 19世紀のロマン主義がまず各民族の自覚を促すと,いまなお人びとに愛誦される佳作がいくつか生まれた。クロアティア人のガイが主唱するイリュリア運動に参加したマジュラニッチは,トルコ人の非人間性を描いた叙事詩《スマイル・アガ・チェンギッチの死》(1846)を発表し,スロベニアのプーシキンといわれたプレシェレンは愛国的な抒情詩《ソネットの花環》(1843)を,モンテネグロの聖俗両界に君臨したニェゴシュは,オペラ形式の英雄叙事詩《栄光の山並み》(1847)を完成した。当時ウィーンにあってセルビア人の口承文芸を収集・刊行していたカラジッチは,大胆にセルビア語を簡素化した。そして1850年マジュラニッチたちとウィーンで会合すると,セルビア語とクロアティア語は共通の言語であるとする〈文語協定〉を締結し,将来の文学活動に計り知れない刺激を与えた。セルビアのロマン主義を代表したのは詩人ラディチェビッチBranko Radičević(1824-53)とヤクシッチDura Jakšić(1832-78)である。また19世紀中ごろロシアやフランスのリアリズムに影響されながら,クロアティアの過去を散文に再現したシェノア,セルビア随一の児童文学者ズマイ,スロベニアのユルチッチの活躍も注目される。世紀末にセルビアのラザレビッチLaza Lazarević(1851-91),マタブリスレマツ,クロアティアのノバックVjenceslav Novak(1859-1905)らが地方色豊かな日常生活を好んで描いた。

 中世の歴史を通じて,ユーゴスラビアの南スラブ諸族はそれぞれ独自の言語をもつようになり,北からスロベニア語,クロアティア語,セルビア語,マケドニア語が話されるようになったが,19世紀に全体の70%以上を占めるセルビア語とクロアティア語が文語として統一されたことは,政治的にも重大な事件だった。この頃文学活動の中心地は,中都市に成長していたリュブリャナ,ザグレブ,ノビサド,ベオグラードで,これに20世紀に入ってからモスタル,サラエボが加わる。また言語の統一とともに各民族間の文学交流が生まれた。とくに20世紀に入ってから,アンドリッチらが編集した《南方文芸》(1918-19)にツァンカル,クルレジャらも寄稿して,南スラブ諸族の文化的・文学的な協働が始まった。

 20世紀はスロベニアのモダニズム運動で幕があける。社会正義派のツァンカルジュパンチッチの両詩人は,ユーゴスラビア文学がヨーロッパ文学と肩を並べられることを証明した。ボスニア・ヘルツェゴビナからはシャンティチAleksa Santić(1868-1924),ドゥチッチJovan Dučić(1871-1943)に続き,アンドリッチも詩人として出発した。アンドリッチは両大戦間は散文に転じ,戦後発表した《ドリナの橋》などのボスニア三部作によって,1961年ノーベル文学賞を受賞した。20世紀のクロアティア文学は,クルレジャに指導されたといえよう。彼は戦前ツェサレツAugust Cesarec(1893-1941)らと雑誌を通じて革命運動を推進し,あらゆるジャンルで多彩な才能を発揮した。またナゾルとコバチッチIvan Goran Kovačić(1913-43)はパルチザン戦争に身を投じて自己改革を行ったユニークな詩人である。戦前のベオグラードでは,詩人ツルニャンスキダビチョらが表現主義から超現実主義風の作品を発表する一方,ヌシッチは風刺で現実を笑殺した。

 戦後はマケドニア語が詩人コネスキらの努力で文語として確立し,ミラディノフKonstantin Miladinov(1830-62)やラツィンKočo Racin(1908-43)の伝統を継ぎ,ヤネフスキSlavo Janevski(1920-2000),ウロシェビッチVlada Urošević(1934- )らが輩出し,詩壇に新風を吹き込んだ。ユーゴスラビアは1948年にコミンフォルムと衝突したため,他の東欧諸国に先がけて社会主義リアリズムの呪縛から脱することができた。パルチザン戦争を扱った多くの戦記物が文学としても成立しえたのは,そうした背景と,創作の自由を主張したクルレジャらの努力があったからである。《太陽は遠い》(1951)でデビューしたセルビアのヘミングウェー風の短編集《大きな子どもたち》(1962)でデビューしたイサコビッチAntonije Isaković(1923- ),《嘆きの山》(1962)でニェゴシュ賞を受けたモンテネグロのラリッチ,ユーモアで味つけするボスニアのチョピッチBranko Ćopić(1915- )らが例として挙げられる。こうした傾向に反逆して,社会主義国の怒れる若者を描いたモンテネグロのブラトビッチや不条理を追求しつづけるシュチェパノビッチBranimir Šćepanović(1937- ),ユダヤ人の饒舌と古典主義で独特な世界を創ったキシュDanilo Kiš(1935-89)などが現代ユーゴスラビア文学の旗手で,ヨーロッパの諸語に訳され,高く評価されている。

 演劇については,フバル島に残る木造劇場(1612)がバルカン最古のものである。イタリアの影響が強いダルマツィア諸都市では,早くから市民の娯楽として演劇が愛好され,貴族の邸や野外でしばしば演じられた。ドルジッチの《マロエ叔父さん》(1551初演)は吝嗇家の主人と放埒息子,機知に富む家僕と可憐な女中が織りなす風刺喜劇で,よくルネサンス時代のドゥブロブニクを活写し,現在もしばしば上演されている。近代に入ると,リュブリャナの市民はユルチッチの悲劇《トゥゴメル》(1876)や《ベロニカ》(1886)に涙し,ツァンカルの社会劇《ヤコブ・ルーダ》(1900)や《ダタイノバの王》(1902)によって愛国心と正義心を培った。ベオグラードの劇場では,トルコ色豊かなセルビア南部を舞台にジプシーの歌姫が恋のたくらみを繰りひろげるスタンコビッチの《コシュタナ》(1902)が人気を博し,ヌシッチの《怪しい奴》(1888)や《大臣夫人》(1931)も,官僚主義や成上り者を皮肉って人々の溜飲を下げた。サラエボの人びとはコチッチPetar Kočić(1877-1916)の《むじな裁判》(1904)を見ながら,オーストリアの官僚主義を心ゆくまで笑いとばした。クロアティアの演劇界を改革したのは,クルレジャである。ザグレブの貴族一家を材料に,ハプスブルク帝国の辺境にはびこるデカダンスを描いた《グレンバイ家の紳士たち》《苦悶》《レダ》が彼の代表作である。現在はベオグラードの〈アテリェ212〉やリュブリャナの〈オデル58〉などを舞台に,小劇団の前衛演劇も盛んであるが,主流は上記の諸作をはじめ,ギリシア悲劇,シェークスピア,フランスの古典劇,サルトル,イヨネスコなどの翻訳物である。
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複雑な民族構成と,七つの国と国境を接するという地理的位置を反映し,ユーゴスラビアの民族音楽は地域的特色がきわめて明瞭である。全体的には5世紀に及ぶ支配者であったトルコ(オスマン帝国)の音楽の影響が著しい。とくに南部のセルビア,マケドニア,モンテネグロなどの地域は,国境を接するトルコ,ギリシア,ブルガリア,アルバニアなどの諸国とともに,いわゆるバルカン音楽圏に含まれる。一方,オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下に長らくあった北部地域,すなわちスロベニア,クロアティア,ボスニア,ヘルツェゴビナなどの地域は,西欧の音楽の影響が強く,ドイツ風な旋律の民謡も歌われている。民謡は他の東欧諸国と同じように,結婚式とか収穫祭とかの伝統的風習に結びついているものが多い。歌の旋律は,即興詩人の叙唱風な旋律や,イスラムの旋律に由来する,4度を超えない狭い音域の中で音の上下するメリスマの多い旋律が基本になっていて,スラブの民謡に共通する音のぶつかる2声の合唱法,ときには喉をたたいて声を震わせたりもする独特な発声に特徴づけられている。踊りは,バルカン固有の2と3の単位を組み合わせるアクサクaksakと呼ばれる跛行的なリズムをもった速いテンポの踊りの輪舞コロkoloが一般的である。楽器は,吟遊詩人の即興詩の伴奏をする1弦または2弦の弓奏弦楽器グスラ,バッグパイプのカバルkaval,ダブリ・リードの管楽器ズルラzurla,両面太鼓タパンtapanが代表的なものである。

 統一国家成立前,すなわち,20世紀初頭までのユーゴスラビアの芸術音楽の発展は,政治的・文化的背景を異にする多様な民族集団により,異なった展開を示している。アドリア海に面しているダルマツィア地方,オーストリアやハンガリーに接するスロベニア,クロアティア地方の音楽文化は,早くからイタリアのルネサンスおよびバロック音楽やウィーン古典派の影響を受けていた。18世紀の音楽活動の中心地はアドリア海に面した都市ドゥブロブニクで,ソルコチェビッチLuka Sorkočević(1734-89)やバヤモンティJulije Bajamonti(1744-1800)らの作曲家が活躍していたが,19世紀になると活動の中心はクロアティアの首都のザグレブに移り,そこでは,ハプスブルク帝国の支配に抗して民族独立を願うスラブ・ナショナリズムの精神を背景にした国民主義のオペラや愛国主義を鼓舞する合唱曲が,リシンスキVatroslav Lisinski(1819-54),ザイツIvan Zajc(1832-1914),イェンコDavorin Jenko(1835-1914)らの作曲家によって書かれていた。一方,長くトルコの支配下にあったセルビア,マケドニアなどユーゴスラビアの南東地域に西欧音楽が導入されはじめたのは,トルコから独立を獲得した1830年以降で,スタンコビッチKornelije Stanković(1831-65),モクラニャツStevan Mokranjac(1856-1914)らがセルビア正教会の教会音楽の伝統を生かした多くの作品によって,セルビアの近代音楽の確立に貢献した。第2次世界大戦後は社会主義リアリズムの芸術活動の一方で,〈ザグレブ国際現代音楽ビエンナーレ〉でユーゴスラビアは国際的前衛音楽運動の一つの拠点にもなっている。
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ユーゴスラビアの地は,スラブ人の定着以降,西欧とコンスタンティノープルの間にあって,さまざまな民族がそれぞれの展開を示し,相互の影響もあり多様な美術作品を生み出した。それらを整理すれば以下のようになろう。つまり,イストラ半島とアドリア海沿岸ではイタリア美術の,北西部ではドイツ美術の,そして南東部ではビザンティン美術,さらに後にはイスラム美術の影響がそれぞれみられる。そして,状況に従って選び取られ,変化をつけられた地方作とともに,14世紀初めのグラチャニツァGračanicaの教会堂建築のように,それらの共存から,まったく新しい成果も生まれた。

 新石器時代にユーゴスラビアは,ヨーロッパでも先進的な地域であった。現在のベオグラード東方,ドナウ川に沿った,前6千年紀後半のスタルチェボStarčevoや,それに続くビンチャVinčaの初期農耕文化は標準遺跡となっており,またそれらに先行するレペンスキ・ビルLepenski Virからは,人面を描いた石の彫刻を含む祭祀跡が出土し,狩猟採集時代の人々の精神生活がうかがえる例として貴重である。南東部のプリシュティナ近郊のプレディオニツァPredionicaからは,前2千年紀後半の,眼と鼻を強調した小さな塑像が出ており,イリュリア人の時代では,リュブリャナの東のバチェVačeから,打出しで日常生活や動物を描いた前500年前後の青銅の容器が出土している。またオフリト湖北のトレベニシュテTrebeništeや内陸部のノビ・パザールNovi Pazarからは,ギリシアのアルカイク美術の影響を示す金工品などが出土しており,のちにマケドニア王フィリッポス2世によるヘラクレイア・リンケスティス(現,ビトラ)の建設や,トラグリオンTragourion(現,トロギルTrogir)などのアドリア海沿岸のギリシア植民都市の建設に先がけて,ギリシア文化の内陸部への影響を物語っている。紀元前後,最終的にローマに征服され,ダルマティア,ノリクム,パンノニア,モエシア,マケドニアなどの属州としてローマの文化が当地に及ぶ。シンギドゥヌムSingidunum(現,ベオグラード)など,今日の多くの町の基礎が建設された。なかでもシルミウムSirmium(現,スレムスカ・ミトロビツァSremska Mitrovica)は4世紀の四分治制(テトラルキア)時代は首都として栄え,宮殿址などが残っている。イストラ半島のプーラにはアウグストゥス帝時代の円形劇場がある。ディオクレティアヌス帝が故郷のサロナSalona近郊に建てた離宮(295-305)は,のちにスプリトの町に発展するが,よく保存され,1764年に建築家R.アダムが紹介してイギリス新古典主義建築の手本となった。

 初期キリスト教時代,ダルマティアのキリスト教の中心であったサロナや内陸部のガムジグラードGamzigradやツァリチン・グラードCaričin Gradの都市址に,バシリカ式教会堂の基礎が残るが,現存する最も重要な教会堂はポレチのバシリカで,6世紀のモザイクと内壁装飾が同時代のラベンナの作品に近い質を示す。7世紀初めスラブ人の侵入により,サロナなども破壊され伝統がとぎれたが,ビザンティン帝国とローマ教会はすぐさま伝道を始め,スラブ人も徐々にキリスト教化していく。アドリア海沿岸のクロアティア人の間では,ザダルの800年ころの聖ドナト教会は高さ26mのロトンダ形式であるが,多くは小さな集中式プランの教会堂が建てられた。同じ頃のニンNin聖十字架教会やスプリトの11世紀の聖三位一体教会などがその例である。マケドニアでは,9世紀末のオフリダ(オフリト)のクリメントの活躍によりキリスト教化が進められた。オフリトの聖ソフィア大聖堂は,創建は第1次ブルガリア帝国のサムイル帝にさかのぼるが,11世紀前半,回復されたビザンティン帝国領内の大主教座教会として改修され,フレスコで内部が装飾された。この壁画はマケドニア朝ビザンティン絵画の一例で,一部に稚拙さがみられるものの線描が支配的である点で12世紀のコムネノス朝の作品を先取りしている。

 コムネノス朝絵画の代表作に数えられるのが,スコピエ近郊ネレジNereziの聖パンテレイモン教会のフレスコで,ビザンティン宮廷による1164年の寄進になる。ここにみられる線描が担った激しい感情表現は,さらにクルビノボKurbinovoの聖ゲオルギウス教会の1191年のフレスコにおいて増幅され,ほとんどデフォルメの域にあるが,他方,幾何学文様は異常な精緻さをみせる。この頃になると,内陸の山岳地域でセルビア人がネマニッチ朝のもとで国家を形成し(1169),多くの修道院が建てられ,教会堂内部はフレスコで飾られた。これらラシュカRaška地方の教会堂建築は,アドリア海沿岸経由のイタリア・ロマネスク様式を典礼上の要請に合わせて修正したものであり(〈ラシュカ派〉と呼ばれる),西正面の彫刻もイタリアに由来する。他方,内部のフレスコは,ストゥデニツァStudenicaの聖母教会(1196年献堂)のコムネノス朝様式からミレシェバMileševaのなまなましいまでの個性表現を経て,ソポチャニSopoćaniにおける堂々たる人体表現に至るパレオロゴス朝ルネサンスの生成のプロセスを,ラテン帝国下のコンスタンティノープルに代わって示すもので,ビザンティン絵画の基準作品と考えられている。この様式はさらに,1295年ビザンティン帝国の高官の寄進になるオフリトの聖クリメント教会において図式化をみせ,14世紀初頭のミルティンMilutin王が建てた一連の教会堂のフレスコにおいて,洗練さが加えられる。ストゥデニツァの聖ヨアキム・アンナ教会や建築に独自のアイデアを示すグラチャニツァの教会堂がその例であるが,1330年ころのデチャニDečaniの教会堂において,このうえない優美さをみせるとともに,職人仕事に近づいている。14世紀後半,ネマニッチ朝が崩壊してオスマン帝国の支配が及ぶと,モラバ川流域の一連の修道院で最後の中世セルビア文化が守られる(いわゆる〈モラバ派〉)。マナシヤの修道院の教会堂(15世紀初め)は,建築に関しては再びロマネスク様式に帰り,フレスコはビザンティン絵画の最後の輝きをみせる。

 一方,内陸部のクロアティアは11世紀末よりハンガリーの支配下にはいり,スロベニアとともに,ドイツ経由のロマネスクとゴシックの地方作を残すが,アドリア海沿岸ではベネチアをはじめとするイタリアの影響のもとで,ザダルほかに,高い鐘楼をもったロマネスクの大聖堂が建てられた。彫刻では,トロギルの大聖堂にラドバンRadovan(生没年不詳)が1240年に制作した正面部がある。ゴシックのモティーフはダルマティナツJuraj Dalmatinac(?-1473)がベネチアよりシベニクŠibenikの大聖堂にもたらし,フィレンツェ出身のニコラNikola Firentinac(?-1505)はトロギルに純粋のルネサンス様式で礼拝堂を制作した。そして,ザダル近郊生れのラウラーナがウルビノとナポリの宮廷で制作したことや,トロギル生れで,ローマで〈ジョバンニ・ダルマータGiovanni Dalmata〉の名で知られていたドゥクノビッチIvan Duknović(1440ころ-1509以後)が,マーチャーシュ王によってハンガリーに呼ばれたことから,当時のダルマツィアに既に強固な伝統が形成されていたことがわかる。絵画に関しては,彫刻ほどの国際性はもたなかったが,ドゥブロブニクが中心となり,1500年前後クロアティア人の画派が形成された。ボスニアでは,1463年オスマン帝国の支配下にはいる直前に,ルネサンス様式が,おそらくハンガリーよりもたらされていたことが,宮廷のあったボボバツBobovacに残る建築物の断片より推測できそうである。また石棺形の石に狩猟場面や人物像,幾何学文様を浮彫した15~16世紀の貴族の墓が多くラディムリャRadimljaに残り,異端のボゴミル派との関係は明らかではないが,民衆芸術の素朴さを示す。

 バロックは17世紀より,スロベニアを中心にクロアティアやダルマツィアに,ウィーンやグラーツ,そしてベネチアからもたらされた。セルビアでは,オスマン帝国の支配下で,伝統はわずかにフルシュカ・ゴーラFruška Goraの修道院で守られるが,西欧の影響がみられるのは17世紀末になってからで,東方正教会の図像に従いつつもバロックを学び始める。ボジャニBodjaniの修道院にマケドニア出身のジェファロビッチHristifor Žefarović(?-1753)が1737年に描いたフレスコはその最初の成果であるが,その様式は独特であり,ユーゴスラビアの現代美術の特徴の一つであるナイーブ派(素朴派)を思わせる。彼は肖像画も制作したらしいが,セルビアの画家にとって,教会堂の装飾とりわけイコノスタシスを描くことは,20世紀初頭に至るまで主要な仕事であった。18世紀イタリアに学んだと考えられるクラチュンTeodor Kračun(?-1781)はスレムスキ・カルロフツィSremski Karlovciの多くの教会堂のイコノスタシスを制作し,ダニールKonstantin Danil(1798-1873)はとくに肖像画に非凡であった。

 民族意識の高揚とともに,セルビアではクルスティチやヨバノビッチPaja Jovanović(1859-1957)がセルビア人の民俗や歴史を描き,クロアティアではブコバツやメドビッチCelestin Medović(1857-1920)がいる。スロベニアのアジュベAnton Ažbe(1862-1905)はミュンヘンに画塾を開き,世紀末から20世紀にかけてのスラブ人の画家たち(カンディンスキー,ヤウレンスキーら)に影響を与えた。新生国家ユーゴスラビアの各地に記念碑を制作した彫刻家メシュトロビチは,民族主義の主張を直截に表現したことに特徴があるが,現代の芸術家たち,例えばクロアティア出身のナイーブ派の画家ヘゲドゥシッチKrsto Hegedušić(1901-75)やセルビア出身でデッサン力を誇るベリチコビッチVladimir Veličković(1935- )は,作風はまったく異なるが,技法や観念にとらわれない自由さをみせる点で共通している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ユーゴスラビア」の意味・わかりやすい解説

ユーゴスラビア
ゆーごすらびあ
Yugoslavia

ヨーロッパ南東部に位置していた社会主義国。国土の大半はバルカン半島の北西部を占め、西側はアドリア海に、北はハンガリー、北西はオーストリア、西はイタリア、東はルーマニアおよびブルガリア、南はギリシアおよびアルバニアにそれぞれ国境を接していた。正称ユーゴスラビア社会主義連邦共和国Socijalistika Federativna Republika Jugoslavija。面積25万5804平方キロメートル、1991年当時の人口2348万8883。首都はベオグラード。多民族国家で、マケドニア(現、北マケドニア共和国)、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビア(ボイボディナ、コソボの2自治州が含まれる)の6共和国で構成される連邦制をとっていたが、1991~1992年前者4共和国が独立宣言をして、事実上分裂、解体した。

 国名は「南スラブ人の国」の意味で、この国名の使用は、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として発足(1918)した新生国家が1929年ユーゴスラビア王国と改称したときに始まる。1945年ユーゴスラビア連邦人民共和国となり、正式名称は1963年以来のもの。この国に住む主要な民族はセルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人で、それぞれ同名の共和国を構成していたが、イスラム教徒を意味する「ムスリム」とよばれる民族も多く、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の主要民族となっている。また、アルバニア人も多く、彼らのほとんどはコソボ自治州に住む。さらに、混血などにより、ユーゴスラビア人と名のる人々も相当数に及んでいた。これらのほかに、周辺諸国の多くの民族が国内に住んでおり、各共和国も単一民族からなるわけではなく、いずれも複数の民族で構成されていた。このように多くの民族が住むのは、後述の「歴史」で触れられているとおり、東西文明の接点として古くからさまざまな民族が去来したためであり、文化的にもギリシア、ローマ、イリリア、ビザンティン、ベネチア、トルコなどの影響が残っている。このような多様さが、この国の大きな特色であった。

 国旗は青・白・赤の三色旗で、フランスと帝政ロシアの旗から影響を受けたものであり、1918年の王国成立以来、国旗に採択された。これに赤い星を加えた旗をパルチザンが用い、連邦人民共和国成立翌年の1946年に国旗に制定された。国歌は、トマセク作詩、バラノビッチ作曲『スラブの民、聞け』Hej, Sloveni!で1945年の制定。

[漆原和子]

自然

地形・地質

東部はドナウ川が貫流し、これにティサ川とサバ川が合流し、流域は広大な平原をなしているが、国土の約70%は標高200メートル以上の高地である。地質構造上、次の3地域に区分される。

(1)ロドピ楯状地(たてじょうち) セルビアと北マケドニア共和国を占める。地塊山地と構造盆地で、古期の花崗(かこう)岩、結晶質岩石からなる。

(2)ハンガリー大平原 第三紀と第四紀の厚い堆積(たいせき)物からなり、ドナウ川流域の低地の所々に古期岩石が露出する。

(3)褶曲(しゅうきょく)山地 中生代ないし第三紀の堆積物からなり、第三紀の初めから末期まで褶曲活動が盛んであった。北辺のアルプス地帯、アドリア海岸に沿ったディナル・アルプス、北マケドニア共和国のピンドス・シャール山脈、セルビアのバルカン山脈がこれに相当する。第四紀の氷期には、海抜高度の高いスロベニアのアルプス、北アルバニア・アルプスやピンドス・シャール山脈には山岳氷河がかかり、いまもカール(圏谷(けんこく))、モレーン(氷堆石)や氷河湖などの氷河地形を残す。一方、内陸の平原にはレス(黄土)が堆積した。最終氷期の海岸線は、ダルマチアのザダル沖を最奥とする位置まで後退していたが、現在の海岸線は完新世(沖積世)に形成された沈水海岸である。

 スロベニアの西半部からアドリア海沿岸に至る地域には中生代の石灰岩が広く分布し、その面積は国土の3分の1に達していた。イタリアとの国境に近いクラス(カルスト)地方で典型的な石灰岩の溶食地形がみられることから、この地形を地方名にちなんでカルストとよんだ。ダルマチア地方には広く裸出カルストが分布し、わずかに貧弱な植生と粘土含量の高い赤色の土壌テラロッサがみられるにすぎない。内陸のカルスト地域には、溶食によって生じたポリエ(盆地状の平野)や石灰岩洞窟(どうくつ)が多く分布する。ポストイナの鍾乳洞(しょうにゅうどう)はヨーロッパ一の規模を誇り、プリトビツェ国立公園は石灰華が大小多数の滝と湖をつくり、美しい景観を呈している。

[漆原和子]

気候

アドリア海岸は地中海性気候で、冬は温暖多雨、夏は高温で乾燥する。スプリトの平均気温は1月7.6℃、7月25.3℃、年降水量861.1ミリメートルである。内陸部に向かうにしたがって年降水量は増し、東部山麓(さんろく)や平原部は大陸性気候の特色が強い。山岳部は気温も低く、降雪があり、年降水量は2000ミリメートルを超える地域もある。冬季にディナル・アルプスからアドリア海に向かって乾燥した寒風ボラが吹く。峠の風下側は強風域となり、交通障害をおこすこともしばしばである。

[漆原和子]

生物相

アドリア海の沿岸部と島嶼(とうしょ)部は、常緑広葉樹(地中海性植物区系に特有の硬葉樹)と落葉広葉樹がみられ、標高500メートルまでの台地は植生破壊が著しい。その原因は、ヤギやヒツジの放牧、燃料採取のための植物伐採や冬の寒風ボラが植生の回復を妨げているためであるといわれる。内陸部は、大部分がヨーロッパ・シベリア・北アメリカ植物区系に属し、落葉樹林からなる。高山地域はオウシュウマツがみられるが、高山性植物はきわめて狭い範囲に分布する。ハンガリー大平原の動物は中部ヨーロッパ系で、若干東部ヨーロッパ系が混じる。山岳地域はアカシカ、ノロ、ヨーロッパオオカミなどの中部ヨーロッパ系と、高山系のアナウサギ、ライチョウが生息する。カルスト地域の石灰岩洞窟では目のない白色のプロテウス(ホライモリ)が生息する。アドリア海岸では地中海系、亜熱帯系の動物が目だち、南部にはジャッカルが生息する。

[漆原和子]

地誌

地誌区分は、連邦を構成する六つの共和国に分けるのが一般的である。以下、6共和国を北から順に解説する。

 スロベニアは西部・中部ヨーロッパとバルカン半島の接点に位置し、この国の先進的地域で経済水準が高かった。工業が国民所得の3分の2を占め、製鉄、電気器具、製薬、金属などの工業が発達し、天然資源は石炭、水銀、石油、天然ガスを産する。森林面積が広く、林業も盛んであったが、山がちなため農業生産は低く、北部でホップを産する以外は振るわない。アルプス地方におけるウシの垂直的移牧に特色があり、良質のバター、チーズを産した。

 クロアチアは北東部から西部のアドリア海に面するダルマチア地方までの広い地域を占める先進的な地域であり、人口および工業生産は平地である北部に集中していた。共和国首都ザグレブを中心に、電気器具、工作機械、化学の諸工業が発達、アドリア海岸のリエカ、スプリトには造船業も立地していた。資源には恵まれないが、イストラ(イストリア)半島ではボーキサイトを産し、北部で石油採掘が行われていた。アドリア海岸では地中海性気候に適したブドウ、オリーブ、イチジク、ラベンダーの栽培が行われ、ワイン、オリーブ油は輸出もされていた。漁業ではイワシ、サバ、イカ、マグロがとれ、畜産ではヒツジの放牧が行われていた。アドリア海岸での観光業も重要であった。

 セルビアは、6共和国中面積が最大で、連邦の中核をなし、経済的には、スロベニアおよびクロアチアの先進地域と、南部の後進地域の中間的位置にあった。ベオグラードを中心に工作機械、自動車、電気器具の工業が盛んであった。北部のハンガリー平原は穀倉地帯で、小麦、トウモロコシ、テンサイ、ヒマワリを産していた。資源は南部で恵まれ、アンチモン、銅、亜鉛、金、銀を産し、コソボ自治州にはヨーロッパ一の規模を誇るトレプチャの亜鉛鉱山があった。

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、平地が北部に偏るため、人口も北部に集中していた。大部分が山地で、森林面積は全ユーゴスラビアの森林面積の35%を占めていたので、ブナ、カシ、マツを産し、林産加工業が盛んであった。また鉄鉱石の埋蔵量は全国の85%に達し、褐炭、ボーキサイト、マンガン、亜鉛も産出した。

 北マケドニア共和国とモンテネグロは山国である。北マケドニア共和国はとくに工業化が立ち後れていた。資源には鉄鉱石、亜鉛、クロムがある。農産物にはブドウ、トマト、パプリカ、良質のタバコがあり、ヒツジの放牧も行われ、農産物の加工業が工業生産額の3分の1を占めていた。モンテネグロでは第二次世界大戦後、工業化が進められ、ボーキサイト資源に基づきチトーグラードにはアルミニウム精錬のコンビナートが建設された。森林面積が広く、林業も盛んであった。農業では牧羊のほか、果樹栽培も行われていた。

[漆原和子]

歴史

多民族国家ユーゴスラビアの歴史は複雑である。ユーゴスラビアを形成していた地域は、古来、東西文明の接点に位置しているため、諸民族の往来が激しく諸強国の支配下に置かれることが多かった。

[柴 宜弘]

中世の南スラブ諸国家

7世紀前半、南スラブ人はバルカン半島に定住した。ユーゴスラビアのなかでも北西部に位置するスロベニアやクロアチアは、フランク王国の影響下でローマ・カトリックを受け入れた。10世紀前半から12世紀にかけ、南スラブ人初の王冠を頂くクロアチア王国が形成された。しかしその後、ハンガリーの支配下に置かれた。一方、南東部のセルビア人は概してビザンティン帝国の影響下にあり、宗教的には東方正教会を受け入れた。1168年ネマニッチ朝が創設され、以後200年にわたり存続する。1389年のコソボの戦いでセルビアが敗北して以来、オスマン・トルコのバルカン進出が決定的となった。1459年にはセルビアが完全にオスマン帝国領となり、セルビアの後を継いでこの地方に勢力を拡大していたボスニアも、15世紀後半にはオスマン帝国に屈した。15世紀末、山岳地のモンテネグロもオスマン帝国領となり、以後約400年に及ぶオスマン帝国支配が続く。

[柴 宜弘]

オスマン帝国とハプスブルク帝国の支配

15~16世紀にかけ、南スラブ人の諸地方はオスマン帝国とオーストリアのハプスブルク帝国の領土に組み込まれた。1683年、オーストリアと、衰退過程を強めていたオスマン帝国との間に、ヨーロッパ各地を巻き込む全面戦争が始められた。この戦争でオスマン帝国は敗北し、1699年のカルロウィッツ条約によって、ハプスブルク帝国が大幅にバルカンへ進出し、中欧の大国としての足場を築いた。この結果、オスマン帝国とオーストリア両国の辺境地方に居住する南スラブ人の帰属が大きく変化した。また、オーストリアは、南スラブ人が多く居住するオスマン帝国との国境を、「軍政国境地帯」として特別に統治した。18世紀に入り、両国は三度戦争を繰り返し、オスマン帝国領はさらに縮小した。ベオグラードがオスマン帝国の辺境となり、さまざまな軍事的影響を受けた。これは、セルビア人の民族運動を進めるうえで重要な意味をもつことになる。こうしたなかで、アドリア海沿岸のラグーザ(ドゥブロブニク)共和国だけは、19世紀初めまで独立を保持した。

[柴 宜弘]

ナショナリズムの時代

1804年、セルビアはバルカン半島で初めてオスマン帝国に対する蜂起(ほうき)を企てた。それが可能だったのは、辺境に位置するセルビアがハプスブルク帝国内のセルビア人から、経済的、文化的な働きかけを受けていたことに加え、ハプスブルク帝国から軍事的な影響をも受けていたからである。カラジョルジェに率いられた第一次セルビア蜂起は失敗に終わったが、ついで1815年ミロシュ・オブレノビチを指導者とする第二次蜂起は成功し、1830年にセルビアは完全な自治を有する公国となった。ロシア・トルコ戦争後の1878年、ベルリン条約によりセルビアはモンテネグロとともに独立国として承認され、近代的な民族国家として歩み始める。一方、ハプスブルク帝国内の南スラブ人も、19世紀に入り民族的自覚を強めた。1809~1813年にかけ、ナポレオンがスロベニアやクロアチア地方を「イリリア諸州」として統治したことは、その一つの契機であった。この時期の経験が1830~1840年代にかけて、ガイを指導者とするイリリア運動という南スラブ人の統一運動を生み出した。1848~1849年の革命期において、クロアチアではイェラチチJosip Jelačić(1801―1859)を指導者とする民族運動が高揚したが、この運動にみられた反ハンガリー感情は、ハプスブルク帝国に利用されてしまった。これ以後19世紀後半期のクロアチアの政治的潮流は、親ハンガリー派、セルビアをも含めたユーゴスラビア統一主義、およびクロアチアの独立を唱える汎(はん)クロアチア主義の三つに大別できる。これに対し、経済的に恵まれていたスロベニアでは、反ハプスブルク運動が高まりをみせず、オーストリア・ハンガリー二重王国をオーストリア・ハンガリー・南スラブ三重王国に再編成しようとの動きがみられたにすぎない。

[柴 宜弘]

第一次世界大戦と統一国家の形成

1908年にオーストリア・ハンガリーが、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合したことにより、バルカンの危機は高まった。とくに、当地の領有をもくろんでいたセルビアのオーストリア感情は極度に悪化した。1912~1913年の第一次・第二次バルカン戦争でセルビアは勝利を収め、いまや南スラブ人統一の旗手となった。こうした状況のもとで、1914年6月、ハプスブルク軍の演習を観閲するためサライエボにやってきたオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻は、「青年ボスニア」に属する一青年プリンツィプGavrilo Princip(1894―1918)により射殺された。このサライエボ事件を契機として、第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)した。大戦の勃発とともに、南スラブ人の統一運動は具体性を帯びた政治運動となる。しかし、統一運動指導者の見解は二つに分裂していた。セルビア王国首相パシチは、セルビア人の居住する全域を統一し海への出口を確保すること、すなわち「大セルビア」の実現を目的としていた。これに対し、オーストリア・ハンガリー領内から亡命したクロアチアの知識人を中心として、ユーゴスラビア委員会が創設された。彼らはハプスブルク帝国の解体と南スラブすべての統一を掲げ、イギリス、フランス、ロシアの協商国側に働きかけた。この両者は1917年7月に参集し、セルビア王朝のもとに、将来、立憲君主国を建国する旨の「コルフ宣言」を出した。この宣言は統一国家形成の布石にはなったが、大きな動きがみられるのは1918年夏、すなわちハプスブルク帝国の崩壊が明白になってからである。ダルマチアをイタリア領としたロンドン秘密条約(1915)の存在とパシチの巧妙な外交手腕により、同年12月1日、統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年ユーゴスラビア王国と改称)の成立が宣言された。しかし統一国家はセルビア中心の集権国家であったため、連邦主義・分権化を唱えるクロアチアの強い反対がみられた。セルビアの集権主義とクロアチアの分権主義は、戦間期のユーゴスラビア史を貫く特徴となった。1934年10月には、国王アレクサンダルがマルセイユで分離主義者によって暗殺された。この「クロアチア問題」は、1939年のスポラズーム(協定)でいちおうの決着がつく。すなわち、クロアチア、スラボニア、ダルマチア、ボスニアの一部を含むクロアチア自治州の創設がそれである。

[柴 宜弘]

第二次世界大戦以後

第二次世界大戦の勃発に際し、ユーゴスラビア政府は中立の立場をとったが、近隣諸国の状況から、1941年3月ついに三国同盟に加入した。これが国内に伝えられると、シモビチ将軍らを中心とする親西欧派のクーデターが発生し、成功した。しかしドイツを中心とする枢軸軍の攻撃にあい、ユーゴスラビアは簡単に降伏し、国王や政府の要人は国外へ亡命した。この結果、ユーゴスラビアは枢軸国の手で分割された。こうしたなかで、チトーを指導者とする共産党を中心とした抵抗運動が始まった。この抵抗運動は民族解放の性格を有すると同時に、社会変革をも目ざす革命運動でもあった。この運動は、政治・民族・宗教的信条とは無関係に、枢軸軍と戦うか否かという二者択一を住民に突きつけ、勢力を結集した。一方、ミハイロビチを指導者とし、チェトニクとよばれるもう一つの抵抗組織があった。この組織はセルビア民族主義者の集団であったことに加え、待機主義をとったため、下部組織から枢軸軍との協力関係を強めていき、結局、枢軸軍と行動をともにすることになった。チトーらのパルチザン部隊は、苦しい戦闘を独力で切り抜け、1943年11月、人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の第2回大会を開いた。ここで、チトーを議長とする臨時政府が成立し、亡命政府にとってかわった。1945年3月、チトーを首班とし、亡命政府の代表3人を含むユーゴスラビア民主主義連邦臨時政府が形成され、国際的承認を得た。同年11月、憲法制定議会の選挙が施行され、人民戦線が圧倒的な支持を獲得した。ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言され、国王ペータル2世Petar Ⅱ Karadjordjević(在位1934~1945)のすべての権限は剥奪(はくだつ)された。1948年にコミンフォルムから追放されるまで、ユーゴスラビアはソ連型の社会主義建設に専念した。追放後、社会主義理論を根底から検討し直すなかで労働者自主管理型の分権的な社会主義が生み出され、外交政策の基本である非同盟主義とともに、「独自の社会主義」の二本柱となっている。1960年代後半になると、対外的な緊張関係が緩む一方、自由化政策が推進されると、各地で民族主義の動きが表面化した。とくに、クロアチア人、アルバニア人、ムスリム(イスラム教徒)の行動が顕著であった。チトー大統領は微妙な民族、共和国間のバランスをとり、政治、経済、社会すべての局面に自主管理社会主義を徹底させる体制を築くことで事態の収拾を図ろうとした。自主管理社会主義の集大成といえる1974年の新憲法により、6共和国と2自治州が「経済主権」をもつ、きわめて緩い連邦制が発足した。

[柴 宜弘]

解体への歩み

1970年代末から1980年代は、チトー、共産主義者同盟、連邦人民軍を絆(きずな)とする「74年憲法体制」が崩壊していく過程であった。経済危機が進行し、1980年には終身大統領のチトーが死去した。先進共和国のスロベニアやクロアチアと、連邦の強化を目ざすセルビアとの対立が鮮明になる。統合の太い絆(きずな)であった共産主義者同盟にも、共和国、民族間対立が持ち込まれ、ついに1990年1月には分裂してしまった。1990年の1年間を通じて、各共和国ごとに自由選挙が実施され、それぞれ民族主義的色彩の強い政府が形成された。1991年6月には、スロベニアとクロアチアの両共和国が独立を宣言するに至り、ユーゴスラビアは実質的に解体した。これを契機として、クロアチアでは独立に反対する約60万のセルビア人とクロアチア共和国軍との内戦が展開された。国連の仲介により停戦が成立、1992年春から国連保護軍が派遣された。クロアチア内戦の過程で、マケドニア(現、北マケドニア共和国)とボスニア・ヘルツェゴビナも独立の方向を明確にした。1992年3月、ボスニアで独立に反対するセルビア人勢力とムスリム・クロアチア人勢力との内戦が生じた。同年4月、ユーゴスラビアに残されたセルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を創設した。この結果、旧ユーゴスラビアは5か国に分解した。2003年、新ユーゴを構成する2国は、より緩やかな連合国家「セルビア・モンテネグロ」となり、国家としての「ユーゴスラビア」の名称は消滅した。その後2006年6月には、モンテネグロが独立し独立国家モンテネグロ共和国となった。また、モンテネグロの独立を受け、セルビアは、セルビア・モンテネグロの承継国として独立国家セルビア共和国となり、セルビア・モンテネグロという連合国家は消滅。こうして、かつて旧ユーゴスラビアの構成共和国であったスロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロは、それぞれ独立国家となった。

[柴 宜弘]

政治

1991年まで存続したいわゆる旧ユーゴスラビアは「社会主義実験の国」といわれたように、次々と新しい制度をつくった。だが複雑なこの国の政治をひと口に表現すれば、外に非同盟、内に自主管理ということになるだろう。1974年には実に四度目の憲法が制定された。解放戦争から戦後の国づくりでかつての大統領チトーの果たした役割は、最大限に評価されるべきであろう。それだけにチトー(1980年5月死去)後の混乱は内外から憂慮されていた。そのため集団指導体制を導入し、自主管理という考え方を工場だけでなく、社会生活のすみずみにまで浸透させることを目ざした連合労働法を1976年に制定した。

 この新憲法と連合労働法によって形成された「74年憲法体制」は、徹底した権力の分散化であった。2自治州は共和国なみに格上げされ、すべてが各自の憲法と裁判権や警察権をもち、さらには経済主権をも付与されたのである。もはや連邦ではなく、実質的には国家連合となったといえよう。1968年のコソボ暴動、1971年クロアチア民族の自治要求運動で高まった、いわゆる「クロアチアの春」とよばれた危機は、これで克服されはしなかった。新体制によって各共和国のエゴイズムが容易に民族主義の覚醒(かくせい)、強化へ転化したからである。党、連邦軍と並んでユーゴ統合の絆(きずな)であったチトーが1980年に亡くなると、こうした傾向はさらに進んだ。その結果、国内の統一市場はなくなり、ハイパー・インフレーション(超インフレ)に象徴される経済危機がいっそう深刻化した。1988年には憲法を修正して、ふたたび連邦に権限を集中させようとしたが、これを大セルビア主義の復活と恐れたスロベニアやクロアチアの反発を招いた。国家存続の形態をめぐり、連邦か国家連合か、各共和国および自治州の大統領が1991年、五度にわたって会議(ユーゴ・サミット)を行ったが失敗に終わった。同年6月、スロベニアとクロアチアの共和国議会は独立宣言を採択し、ユーゴ解体がにわかに現実味をおびてくるのである。

[田中一生]

議会制度

市にあたるコミューンの議会と共和国・自治州の議会では三院制、最高の決定機関である連邦議会は二院制であった。

 コミューンの三院とは、連合労働会議、地域共同体会議、社会政治会議の三者をさす。連合労働会議のメンバーは、のちに経済の項で詳しく述べる連合労働基礎組織の労働者がこれを選ぶ。地域共同体会議のメンバーは、定住する地域の住民がこれを選ぶ。社会政治会議のメンバーには、共産主義者同盟、勤労人民社会主義同盟、労働組合などのいわゆる社会政治組織のメンバーが選ばれる。選出方法には独特の代表制度を採用している。すなわち、前述の3グループはまず代表団を選び、代表団のなかからコミューン議会へ代表を送るというものである。この方法は共和国・自治州議会、連邦議会にも適用される。代表団と代表の比率はほぼ10対1である。代表団は選出母体の意を体して基本方針を決め、代表はこの基本方針に沿って議会活動を行う。代表団に選ばれても職場を離れることはない。任期はいずれも4年で、同一の代表団に3選されることはできない。また同一人物が、連合労働基礎組織と地域共同体の代表団に同時に選出されることも許されない。

 共和国・自治州議会の三院とは、連合労働会議、コミューン会議、社会・政治会議からなるが、このうちコミューン会議のメンバーだけは、コミューン議会の三院から選ばれる。他の二院のメンバーは、それぞれコミューン議会の同名の会議メンバーがこれを選ぶ。

 連邦議会は、連邦会議と共和国・自治州会議からなる。前者は、6共和国から各30名、2自治州から各20名の計220名で構成される。勤労人民社会主義同盟が各層から選んで作成した候補者リストに基づいて、コミューン議会が秘密投票で選挙するのである。後者は、6共和国から各12名、2自治州から各8名の計88名で構成されるが、このメンバーは、共和国や自治州議会が三院合同の秘密投票によって互選する。両院の権限は憲法などで規定されている。原則は、社会計画や経済問題は共和国・自治州会議で、その他の重要な内外政策は連邦会議で決定されるということであるが、問題の性質によっては両院の合同会議も開かれる。合同会議はまた共和国・自治州議会、あるいはコミューンの議会でも開かれる。

 連邦幹部会は、終身大統領だったチトー亡きあとに備えて考案された集団指導制で、集団大統領と俗称された。1974年に発足し、1980年までチトーが議長職を務めたが、死後、大統領職はなくなり、6共和国と2自治州から1名ずつと共産主義者同盟議長を加えた9人からなる連邦幹部会の議長(元首)がこれにとってかわったが、1988年の憲法修正で同盟議長が外され8名となった。ただし任期1年の輪番制、幹部会員の任期は5年、再選も可能。連邦執行会議は連邦議会の執行機関であり、政府にあたる。議長(首相)、副議長(副首相)、各種の連邦大臣や連邦委員などで構成された。議長は、連邦幹部会と共産主義者同盟が推薦し、連邦議会がこれを選ぶ。任期は4年。

[田中一生]

政党

共産主義者同盟が唯一の政党であったが、1990年1月に分裂した。同年、各共和国で戦後初の自由選挙が行われ、セルビア(セルビア社会党と改称)とモンテネグロを除く他地域では、共産主義者同盟が敗北した。すなわちクロアチアはクロアチア民主同盟、スロベニアはスロベニア野党連合、ボスニア・ヘルツェゴビナは民主行動党(ムスリム)、マケドニアはマケドニア民族統一民主党が第一党となった。いずれも民族主義の強い政党であり、それはセルビアやモンテネグロの第一党にもいえることである。しかし社会主義ユーゴを長年にわたり指導した共産主義者同盟を改めて紹介すると、これは戦前から存在した共産党が1952年に改称したもので、1937年以来、書記長はチトーが務めた。チトー後は集団指導制がとられ、メンバーは各共和国から3名、各自治州から2名、軍代表1名の計23名からなる。中央委員会の執行機関であるこの幹部会の議長も1年任期の輪番制で、その間は連邦幹部会のメンバーでもあった。ただし軍代表はこれに就任できない。機関紙は週刊の『コムニスト』。勤労人民社会主義同盟は共産主義者同盟の大衆政治組織で、かつての人民戦線が1953年に改称したもの。連邦機関紙は日刊の『ボルバ』(闘争)である。

[田中一生]

司法制度

ユーゴスラビアの裁判制度には通常裁判所、自主管理裁判所、軍事法廷がある。通常裁判所は、コミューン、地方(高等)、共和国・州、連邦の4段階からなり、普通の事件は二審制をとる。自主管理裁判所は連合労働裁判所、調停裁判所などの裁判を含む。直接労働者からの提訴を扱い、職場を離れない素人(しろうと)裁判官と職業裁判官がこれにあたる。弁護士が約5000人、通常裁判所の裁判官は5400人を数えた。なおユーゴスラビアでは早くから憲法裁判所があり、文字どおり憲法の番人を務めた。

[田中一生]

国防

陸・空・海の3軍からなり、このユーゴスラビア人民軍の最高司令官は、連邦幹部会議長が兼任。徴兵制で、男子は15か月の兵役が義務づけられるが、1人で家族を扶養している者は12か月のみ。高等教育を受ける青年は入学前に12か月、修学後に残り3か月を勤めればよい。1968年のチェコ事件を契機に制定された1969年の国防法によって、全人民防衛という体制が敷かれ、侵略者に対する降伏は国家に対する反逆であると規定された。こうして、連邦軍のほかに各共和国・自治州の民族軍が誕生した形になり、武器が一般に行き渡ったため、1991年以降の内戦はいっそう凄惨(せいさん)な光景となった。

[田中一生]

外交

1948年のコミンフォルム追放以来、東西ブロックの対立が国際緊張の原因だとして、積極的中立と非同盟主義を唱えてきた。国際連合を舞台に活躍するだけでなく、発展途上国と語らって1961年、ベオグラードで第1回の非同盟諸国首脳会議を開いたのである。このときは25か国であったが、チトーが最後に出席した1977年の第6回ハバナ会議には、実に95か国が参加した。だがチトー後、国内の情勢が悪化したこと、キューバなど親ソ派が台頭したこと、あるいは冷戦が終結へ向かうにつれて、ユーゴスラビアの非同盟離れは進んだ。それでも1989年、第9回非同盟諸国首脳会議をふたたびベオグラードで開催して、旧ユーゴの掉尾(ちょうび)を飾ったかっこうとなった。

[田中一生]

経済・産業

労働者自主管理

ユーゴスラビアの社会主義社会にもっとも特徴的な自主管理という考え方は、まず経済の分野で現れた。1948年にコミンフォルムを追放されると、それまでのソ連型社会主義を根本から改めることで、彼らは国難を脱出しようとした。翌1949年の後半あたりから、生産の現場で労働者のイニシアティブ(主導権)がしだいに生かされるようになり、1950年の自主管理法によって企業が労働者の手で管理されるようになった。つまり、企業は社会有である(国有ではない)が、その管理と剰余労働(利潤)の分配を労働者に任せたのである。これを労働者自主管理という。30人未満の企業では全員が、30人以上ならその代表機関である労働者評議会が企業を運営する。労働者評議会は、執行機関である経営委員会を選出する。企業長は公募する、というのがその骨子であった。

 だが、その後さまざまな不備が指摘され、1965年の新経済政策あるいは企業の巨大化に伴い十分に機能しないことがわかり、労働者自主管理の抜本的な改革を迫られた。1976年の連合労働法によってこうした問題を解決しようとした。すなわち従来の企業(労働組織 RO)をいくつかの作業単位(連合労働基礎組織 OOUR)に分かち、一種の事業部制を導入して労働者にやる気を起こさせようとした。また地域の教育、医療、保健、文化、保養、福祉、スポーツなどの諸施設と連合労働基礎組織などが共同で利益共同体(SIZ)をつくることで、地域社会との結び付きが緊密となった。この場合、OOUR相互の間には自主管理協約が、OOURとSIZの間には社会協定を通じて協力作業が行われる。これをユーゴでは協議経済と名づけ、計画経済や市場経済と対比させた。

 だが1970年代の二度のオイル・ショック、チトー後の1980年代に迎えた重大な経済危機によって、協議経済は失敗したのである。

 経済危機とは貿易収支の大幅な赤字、対外債務の累積、恒常的なインフレなどをさす。たとえばインフレは1989年末で年間2500%まで急騰した。外国出稼ぎがむずかしくなって失業問題が深刻化し、それにからんで民族問題が危険な様相を呈していた。最大の原因は先述したようにユーゴの統一市場が消失し、各共和国が無謀な設備投資をし、そのために西側諸国から多大な融資を受けていた、ということがあげられる。こうした無計画、行き過ぎを是正すべく旧ユーゴ最後のマルコビッチAnte Marković(1924―2011)内閣は、金融引締め、1万分の1のデノミネーション、ディナール通貨とドイツ・マルクの連動などといったドラスティックなショック療法を行ったが、時宜を逸していたため、さしたる効果はあがらなかった。

 結局、旧ユーゴの崩壊は、こうした独得な自主管理の失敗ともみられ、以後は多くの面で急速な自由化、私有化が進んだ。

[田中一生]

農林漁業

第二次世界大戦前のユーゴスラビアはヨーロッパの後進国であった。それが戦後は中進国に仲間入りできるまでになった。前項にみてきた労働者自主管理が一定の成果をあげたからであろう。ただしこの仕組みは農業に適用しにくいところに問題がある。戦後、農業人口は激減したものの(戦前は全人口の4分の3)、農業は依然ユーゴスラビアの重要な産業部門だった。ただし、1984年には農業人口はついに総人口の2割をきり、国内総生産に占める農業の比重も1988年には13.7%にすぎなかった。数度の農地改革により、国土の40%を占める農業適地の5分の4が個人有、残りが社会有の土地となった。個人有は10ヘクタールと制限されていた(1988年に30ヘクタールまで引き上げられた)が実際は3ヘクタール平均で、機械化がしにくく生産性も低い。さらには青年層の農業離れもあった。その結果、ユーゴはわずかながら農作物の輸入国に転じてしまった。おもな作物は小麦、ライムギ、トウモロコシ、テンサイ、ヒマワリ、タバコ、ジャガイモ、ブドウなど。畜産業も盛んで、ウシ、ブタ、ヒツジ、家禽(かきん)の食肉が輸出されていた。漁業は、アドリア海の東半分で貝類、エビ、カニ、イワシなどが水揚げされ、湖や川ではコイ、マス、ナマズがとれる。林業は、森林が国土の3分の1を占め、これはヨーロッパ第3位に数えられた。木材や家具を輸出したほか、国内のパルプ工場に原料を供給していた。

[田中一生]

資源・エネルギー・観光産業

ユーゴスラビアは地下資源に恵まれていた。鉄、アルミニウム、銅、鉛、錫(すず)、ニッケルなど、第二次世界大戦前は原料のまま輸出していたものを、戦後は半製品か製品にして外貨を稼いだ。おもな製鉄所はゼニッツァ、スメデレボ、シサク、スコピエに、銅鉱山はボール、マイダンペック、クラトボにある。ボーキサイトは西部に偏在しているが、アルミナ工場やアルミニウム加工企業は各共和国にある。エネルギーはおもにドナウ川、ドリナ川、ネレトバ川などを利用した水力発電所のほか、火力発電所、原子力発電所から得る。石炭や石油も産出するが国内需要を満たせず、原油を大量に輸入していた。観光も重要な産業で、アドリア海に散らばる1000余の島とダルマチア海岸の漁村はドル箱とうたわれた。なかでも中世のおもかげをいまに残す城砦(じょうさい)都市ドゥブロブニク、ローマ時代の円形競技場のあるプーラ、ディオクレティアヌス帝の宮殿跡がそのまま市街となったスプリトなどが広く知られている。なおプーラ、スプリト、リエカには造船所もある。

[田中一生]

貿易・銀行

ユーゴスラビアはOECD(経済協力開発機構)やCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)のメンバーではないが、これらと密接な関係を保ち、1970年代に入ってから発展途上国とも活発に貿易していた。食品、ぶどう酒、たばこ、工業製品を輸出し、原油、機械、圧延鋼材、化学品などを輸入した。貿易収支は恒常的な赤字であり、これを貿易外収支(観光、運賃、外国出稼ぎ労働者の送金)で埋めてきたが、累積債務が(1989年末で179億ドル。なおこのときの外貨準備高は6億ドル)激減する見込みはなかった。銀行制度は何度も改革されてきた。そして1977年には、銀行は連合労働組織に奉仕する金融機関と位置づけられた。

 その結果、低い金利で融資するばかりか、貸しつけた元金の回収を強く求めない。損失の計上を避けるため、多額の債務を負う連合労働へ短期融資をして利子を支払わせるといった悪循環が、しばしば生じた。融資が失敗しても各共和国の中央銀行、ひいては連邦中央銀行がその尻ぬぐいをした。

 先述したマルコビッチは、長年の財政赤字を解消すべく通貨政策を連邦中央銀行に一元化し、垂れ流し状態だった通貨発行を極度に抑えて金融引締めを断行したが、時すでに遅かったのである。

[田中一生]

社会

いわゆる自主管理の原則は、教育、文化、科学、保健、社会福祉など非経済の分野でも生かされた。こうした諸施設と連合労働基礎組織(OOUR)などが共同で利益共同体(SIZ)をつくり、サービスの質や量、それに見合う資金額などを話し合う。そこで結ばれた社会協定に基づいて健全な社会生活が営まれるはずであった。だが双方の利害が一致するのは容易でなく、しばしば所期の目的を達成することはできなかった。

[田中一生]

民族問題

宗教はスロベニア、クロアチアではほとんどカトリック信者、ボスニア・ヘルツェゴビナ(40%以上)やコソボ(80%以上)では多数のイスラム教徒がおり、セルビアとモンテネグロ、マケドニアでは圧倒的に正教の信者が多い。いずれも歴史的、文化的に独自の精神風土を形成してきたため、社会主義社会になっても競争や反発は解消せず、しばしば民族問題という形で爆発した。とくにセルビア人とクロアチア人の対立は、第二次世界大戦前の国家を分裂させたほど根深いものがあった。また後進地域に住むムスリム(イスラム教徒)には、民族問題のうえに経済的な不満も強まっていた。

 ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリムは、従来はセルビア人かクロアチア人、あるいはユーゴスラビア人と自己の帰属性を自己申告するか、無申告とする者が多かった。しかし歴史的な特殊性を考慮して1961年、「エスニック(民族的)な帰属としてのムスリム」、1967年には正式に民族として承認された。コソボのムスリムはアルバニア人としての強力な民族意識をもち、1968年、自治州を共和国へ格上げするよう求めて暴動を起した。1981年にも大規模な暴動を起した。1974年憲法によって共和国並みの自治は得ていたが、経済的不満が爆発したのである。コソボ問題に危機感を抱いたセルビアは、1989年3月に共和国憲法を修正し、以前と同様、自治州に対し警察権や裁判権を行使できるようにした。これに大セルビア主義の脅威を感じたスロベニアとクロアチアが猛烈に反発し、南北はいっそう離反していった。

[田中一生]

教育・言語

このような多民族国家の不協和音は、教育の力で解決するほかない。非織字率が高いのも問題であった。教育制度は1974~1975年に三度目の改革がなされた。7歳で就学し、8年間の初等教育が義務づけられているのは従来と変わりないが、中等教育が大幅に改組された。それまであったギムナジウム、技術学校、教員養成学校などをなくし、一律に4年制の中等専門教育を施すことにした。最高学府の大学は、1世紀以上の歴史をもつザグレブ、ベオグラード、リュブリャナをはじめ、各共和国や自治州にある。公用語はスロベニア語、セルビア・クロアチア語、マケドニア語であるが、ハンガリー人、アルバニア人、イタリア人、トルコ人などの少数民族も、それぞれの言語で学校教育を受け、ジャーナリズム活動を行う権利を保障されていた。たとえば北マケドニア共和国では、テレビのニュースがマケドニア語、トルコ語、アルバニア語で放映されている。スロベニア語はラテン文字を用いる。セルビア・クロアチア語は文法的に共通の言語である。しかし、セルビアではキリル文字(ロシア文字)、クロアチアではラテン文字を用いる。その呼称については1850年、多くの方言が使用されているセルビアとクロアチアで、南方のイエ・グループのシュト方言を共通の文語として確立しようと8人の文化人と言語学者が「ウィーン文語協定」に合意したのだが、反対が多くて結局は失敗に終わり、この名残(なごり)として、後にセルビア・クロアチア語とよばれるようになった。ただしこの呼称は多分に政治的ニュアンスを帯びたものとして(セルビア覇権主義)、クロアチア人は好まなかった。クロアチア・セルビア語、クロアチア語ないしセルビア語という言い方をし、1967年にはクロアチア語の独立を宣言する動きもあった。マケドニア語はキリル文字を用いる。ボスニア・ヘルツェゴビナでは両文字が使われ、『オスロボジェーニェ』(解放)紙などは、両文字を奇数と偶数ページに使い分けて用いていた。モンテネグロ人はセルビア語なのでキリル文字を使っている。

[田中一生]

生活

スポーツはたいへん盛んであった。もっとも人気の高いのはサッカーだが、バスケットボール、水球、ハンドボール、ボクシングなどもオリンピックや世界選手権でしばしば金メダルに輝いた。1984年の冬季オリンピックは、社会主義国として初めてボスニア・ヘルツェゴビナのサライエボで開かれた。後にアメリカ国籍を取得したテニスのモニカ・セレシュMonica Seles(1973― )は、ハンガリー系のユーゴ人である。チェス人口は非常に多く、グランドマスターの数はソ連に次いで世界第2位であった。人々は夏休みを1か月余りとり、海岸や湖畔の休息の家でバカンスを楽しみ、外国旅行へ出かける人もいる。車に食料品を積み、別荘で週末を過ごす人もいる。テレビ、冷蔵庫、電気洗濯機、ステレオなどの耐久消費財は、たいていの家庭にみられ、乗用車ですら100人に7台強と普及していた。そのほとんどは国産車。またオリエント急行はこの国を縦断していたことで有名だが、国内の交通網としては、時間の不正確な鉄道よりバスのほうが便利だとしてよく利用されていた。

[田中一生]

文化

ユーゴスラビアは古来さまざまな民族が混住し、それぞれが互いに影響しあうモザイク文化の土地柄であった。また険しい地形は、地方の土俗文化を今日まで生き延びさせてきた。

[田中一生]

音楽・映画

国民の楽天的な性質と相まって、民謡や民族舞踊の宝庫といわれ、とくにコロとよばれる円舞が知られている。ザグレブやベオグラードのコロ舞踊団は海外公演でも人気を博しており、来日したこともある。近代音楽も盛んで、イタリア人だがユーゴスラビアに住んだチェロ奏者で指揮者でもあったヤニグロ、声楽家ではバスのチャンガロビチやソプラノのクンツ・ミラノフZinka Kunc‐Milanov(1906―1989)が世界的に有名で、若手としてはピアニストのイボ・ポゴレリチ、サズ(トルコ、中央アジア、東欧に特有の撥(はつ)弦リュート)奏者でシンガー・ソングライターのヤドランカ・ストヤコビッチJadranka Stojaković(1950―2016)が日本でも人気が高かった。主要な都市にはオペラ劇場があり、シーズンともなればオペラ、バレエが連夜演じられた。フバル島にバルカン最古の劇場があることからもわかるように、演劇活動も活発である。しかし一般大衆は圧倒的に映画館へ足を運ぶ。サライエボ出身の映画監督エミール・クストリッツァは『パパは、出張中!』で世界的に注目され、『ジプシーのとき』では1989年にカンヌ映画祭で最優秀監督賞に輝いた。新ユーゴスラビアになってからも『アンダーグラウンド』で1995年にカンヌ映画祭の大賞をふたたび受賞している。

[田中一生]

美術

中世セルビア王国時代に数多く建立された修道院や教会堂内部の壁面を飾るビザンティン絵画が注目される。セルビアのミレシェボ、ソポチャニ修道院に残る13世紀のフレスコ画は、同時代のビザンティン美術の傑作として、またのちに花咲くルネサンス絵画との関連からもきわめて重要なものである。ドゥブロブニクにはルネサンス、バロック時代に独自の流派が生まれたが、全体的には現代まで西ヨーロッパの亜流に甘んじてきた。例外は彫刻家のメシュトロビッチIvan Meštrović(1883―1962)で、ロダンに私淑しながら民衆のエネルギーを凝集させた力量あふれる作風は、バルカンのミケランジェロとまでたたえられた。

[田中一生]

文学

マケドニア語の聖者伝、セルビアの口承文芸から始まった。とりわけグスレとよばれる一絃(いちげん)琴にあわせて誦(しょう)された中世の英雄譚(たん)は、4世紀以上もトルコの支配下で呻吟(しんぎん)していたセルビア人に、絶大な愛国心を育て続けたのである。だが彼らは近代までほとんど字が読めなかった。一方、16世紀ドゥブロブニクで活躍したドゥルジッチMarin Držić(1508ころ―1567)の喜劇『マロエ叔父さん』は、今日でも上演されている。この自由都市はまた17世紀に叙事詩人グンドゥリッチを生んだ。

 19世紀もなかばのロマンチシズム時代になると、スロベニア人プレシェルンFrance Prešeren(1800―1849)、モンテネグロ人の主教ニェゴシュ、クロアチア人マジュラニッチ、口承文芸を集大成したり国語を改革したセルビア人カラジッチなどが輩出した。20世紀に入ると社会主義的な作品でスロベニア人を啓蒙(けいもう)したツァンカル、エロティシズムを強調したジュパンチッチ、クロアチアの歴史を描いたシェノアAugust Šenoa(1838―1881)とナゾール、ヘルツェゴビナの叙情詩人シャンティッチAleksa Šantić(1868―1924)とドゥチッチJovan Dučić(1871―1943)、セルビア南部の風俗を描いたスタンコビッチBora Stanković(1876―1927)、ユーモア作家ヌシッチ、子供たちからいまでも「ズマイ(竜)小父(おじ)さん」と慕われるヨバノビッチJovan Jovanović Zmaj(1833―1904)、デサンカ・マクシモビッチDesanka Maksimović(1898―1993)などがあげられる。戦後の文学を代表するのは、多産なクロアチアの革命的作家ミロスラブ・クルレジャと、ボスニアの歴史に人間の運命を考察したイボ・アンドリッチで、後者は1961年ノーベル文学賞を受賞している。代表作は『ドリナの橋』。マケドニア語は戦後に文語を確立した若い言語であるが、すでにコネスキーBlaže Koneski(1921―1990)、ヤネフスキーSlavko Janevski(1920―2000)など純度の高い詩人、作家が現れた。ユーゴの文学は、解放戦争に材を求めたパルチザン小説が依然多くみられるものの、海外でも知られるミオドラグ・ブラトビッチ、ブラニミル・シュチェパノビッチBranimir Šćepanović(1937― )、ダニロ・キシュDanilo Kiš(1935―1989)などが新しい題材と手法に挑戦して注目され、とくに『ハザール事典』で内外から絶賛されたミロラド・パビッチMilorad Pavić(1929―2009)は、実験的な作風で大いに期待された。

[田中一生]

日本との関係

両国の正式な外交関係は第一次世界大戦後の1923年に始まった。第二次世界大戦を経たのちの1952年(昭和27)に国交が再開されると、公使館、ついで大使館(1958)が両首都に設置される。1968年にチトー大統領の訪日、1976年には皇太子(現、上皇)夫妻のユーゴスラビア訪問がなされた。両国間には1959年に通商航海条約が締結され、互いに特恵関税を供与していたが、両国間の貿易総額はあまり多くなく、また毎年日本はユーゴスラビアへ10倍から20倍の輸出超過を記録した。

 文化交流の面では、第二次世界大戦前は重訳ながら『万葉集』と『古今集』の一部が、戦後も『斜陽』『こゝろ』『河童(かっぱ)』などが訳出された。その後、『雪国』『宴(うたげ)のあと』『黒い雨』などが直接訳されている。大都市ではときおり華道の講習会があり、ほかに茶の湯、能、浮世絵などに対する関心も高い。黒澤明(あきら)や溝口健二の映画は、名画座などで繰り返し上映され、柔道、空手、囲碁クラブもある。俳句への関心も強い。近年は日本経済の奇跡を紹介する概説書や専門書も出版されていた。1976年ベオグラード大学に日本語コースが設けられた。1985年、これが専門科目も備えて4年間の正式な専攻課程に昇格している。ほかにリュブリャナのスロベニア東洋学会が催す公開講座、ザグレブのスーバク・センターの日本語コースなどで学ぶ青年男女が増えた。日本では、ユニークなユーゴスラビアの社会・政治制度を研究する者が多いが、交換留学生として原地語を習得する者も増え、文学作品も大概は直接訳されるようになった。

 旧ユーゴスラビアの解体後、日本は、1992年クロアチアおよびスロベニアと、1994年マケドニア(現、北マケドニア共和国)と、1996年ボスニア・ヘルツェゴビナと、1997年新ユーゴスラビア(セルビア、モンテネグロ)と、それぞれ外交関係を結び、交流を続けている。

[田中一生]

『アンドリッチ著、松谷健二訳『ドリナの橋』(1966・恒文社)』『ブラトービッチ著、大久保和郎訳『ろばに乗った英雄』(1966・恒文社)』『ウラジーミル・デディエ著、高橋正雄訳『チトーは語る』(1970・新時代社)』『シュチェパノビッチ著、田中一生訳『土に還る』(1979・恒文社)』『M・ドルーロヴィチ著、高屋定国・山崎洋訳『試練に立つ自主管理――ユーゴスラヴィアの経験』(1980・岩波現代選書)』『トヨタ財団助成研究報告書『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(1982・東欧史研究会・日本東欧関係研究会)』『ライコ・ボボド編著、山崎洋訳『ユーゴスラビア―社会と文化』(1983・恒文社)』『岩田昌征著『凡人たちの社会主義―ユーゴスラヴィア・ポーランド・自主管理』(1985・筑摩書房)』『アダミック著、田原正三訳『わが祖国ユーゴスラヴィアの人々』(1990・PCM出版)』『柴宜弘編『もっと知りたいユーゴスラヴィア』(1991・弘文堂)』『パビッチ著、工藤幸雄訳『ハザール事典』(1993・東京創元社)』『伊東孝之、直野敦、萩原直、南塚信吾監修『東欧を知る事典』(1993・平凡社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィアで何が起きているか』(1993・岩波ブックレット)』『スティーブン・クリソルド著、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社)』『ドラクリッチ著、三谷恵子訳『バルカン・エクスプレス』(1995・三省堂)』『キシュ著、山崎佳代子訳『若き日の哀しみ』(1995・東京創元社)』『ドーニャ、ファイン著、佐原徹哉訳『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(1995・恒文社)』『柴宜弘著『バルカンの民族主義』(1996・山川出版社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(1996・岩波新書)』『アンドリッチ著、田中一生訳『サラエボの鐘』(1997・恒文社)』『中島由美著『バルカンをフィールドワークする』(1997・大修館)』『ウグレシィチ著、岩崎稔訳『バルカン・ブルース』(1997・未来社)』『『現代思想臨時増刊・ユーゴスラヴィア解体』(1997・青土社)』

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百科事典マイペディア 「ユーゴスラビア」の意味・わかりやすい解説

ユーゴスラビア

セルビア・モンテネグロの旧国名。正式にはユーゴスラビア連邦共和国Savezna Republika Jugoslavija/Federal Republic of Yugoslavia。2003年,国名をセルビア・モンテネグロとした。→セルビア・モンテネグロ
→関連項目クロアチアサラエボオリンピック(1984年)セルビアバルカン半島ミロシェビッチ民族浄化

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ユーゴスラビア」の意味・わかりやすい解説

ユーゴスラビア

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世界大百科事典(旧版)内のユーゴスラビアの言及

【言語政策】より

…(2)1言語がある1国家だけで用いられる場合 日本語と日本,ノルウェー語とノルウェーにその例を見る。(3)多言語が1国家で話されている場合 旧ソ連,中国,旧ユーゴスラビアのような地域的広がりの比較的大きい国家に多い。大半の言語は(1)もしくは(3)の型に入り,(2)の例は珍しい。…

【労働組合】より

…こうして組合は実質的に経営にも責任を負うとともに,他方で,経営の成果を配分するにあたって交渉機能を発揮する,という仕組みが打ち立てられた。
[ユーゴスラビア]
 ハンガリーと並んでもう一つ注目されるのは,ユーゴスラビアの労働組合である。ユーゴスラビアはすでに1950年代から企業の労働者自主管理を軸とした分権的経済管理体制を敷いてきた。…

※「ユーゴスラビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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