ムフタール(その他表記)`Umar al-Mukhtār

改訂新版 世界大百科事典 「ムフタール」の意味・わかりやすい解説

ムフタール
`Umar al-Mukhtār
生没年:1862-1931

リビアの反イタリア抵抗運動の指導者。サヌーシー教団サヌーシー派)の創設者の子で,反オスマン・トルコ運動を展開するムハンマド・アルマフディー主宰のジャグブーブ教団修道場で,イスラム諸学を修めた。1911年オスマン帝国軍の対イタリア戦争に従軍したのを手始めに,生れ故郷キレナイカで反イタリア抵抗運動を死ぬまで続けた。26年イタリア軍のジャグブーブ占領以後,ムフタールの抵抗はゲリラ戦の形をとり,当時の記録では20ヵ月間にイタリア軍は263回の戦闘を強いられた。29年イタリア総督の懐柔工作も,民族独立要求を堅持するムフタールの前に失敗した。31年ムフタールはイタリア軍に捕らえられ処刑されたが,以後もリビア民族解放の精神的支柱であり続けた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のムフタールの言及

【イマーム】より

…ただしシーア派では,この用い方は不敬であるとする考え方が強い。 イマームを特定の人物の称号として最初に用いたのは過激シーア派のカイサーン派で,ムフタールMukhtārはムハンマド・ブン・アルハナフィーヤMuḥammad b.al‐Ḥanafīya(?‐700)をイマームおよびマフディーと奉じ,クーファで反乱を起こした。反乱が鎮圧され,700年にムハンマドが没した後,カイサーン派の主流はムハンマドが隠れイマームとなり,最後の審判の日に地上に再臨して正義と公正とを実現すると説いた。…

【ムフタールの乱】より

イブン・アッズバイルがカリフ位を僭称中に,過激シーア派のカイサーン派のムフタールMukhtār b.Abī ‘Ubayd(622‐686)がクーファで起こした反乱。彼は,ハニーファ族の女が生んだアリーの息子ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤMuḥammad b.al‐Ḥanafīya(?‐700)をイマームにしてマフディー,自らをそのワジール(代理)と称した。…

【リビア】より

…サヌーシー運動はリビアがオスマン帝国領からイタリア植民地に移行した1912年,広範な反イタリア闘争を組織,全リビアを反イタリア意識で結束させた。サヌーシー派自体は第1次大戦後内部対立を表面化させたが,イタリアのリビア植民地化の達成は,キレナイカでのムフタール指導の抵抗(1921‐31)鎮圧を待たねばならなかった。リビアは植民地分割ラインで囲いこまれ,周辺アフリカ諸地域との人的・経済的つながりは最終的に閉ざされた。…

※「ムフタール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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