岡山市南区中部の地区。旧藤田村で、干拓村として知られた。児島(こじま)湾干拓地の2区と6区からなり、2区は1912年(明治45)藤田組により干拓が完成して藤田村となり、1区(岡山市南区灘崎(なださき)町)とともに藤田農場として経営され、第二次世界大戦後の農地改革まで続いた。6区は第二次世界大戦後に藤田組から農林省に引き継がれて、1953年(昭和28)に干拓が完成し藤田村に編入された。
藤田農場は日本ではまれな資本主義的農場で、小作、請負、直営(分益)の3制度で経営されていたが、農民たちは雇用人の立場にあった。このため、1921年(大正10)春には生産額の分配などをめぐって大争議が起こり、1923年1月一応の解決をみた。
その後、アメリカから大型農業機械を導入し、これが西に隣接する興除(こうじょ)の農民に刺激を与え、児島湾干拓地が日本の農業機械化の発祥地となった。農地には道路、用排水路が整然と走り、家屋配置は散居制である。第二次世界大戦後に至るまで藤田農場事務所が村役場であった。戦後の農地改革により、農地は小作農、農場労務者のほか、引揚者らに解放された。以後、米作中心の農業が行われてきたが、現在では工場地化、宅地化が進んでいる。国道30号が通じる。
[由比浜省吾]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…町名は厚樫山の古名国見山にちなむ。古くから交通の要地で,中心の藤田は奥州街道の宿場町として発達,蚕糸,絹織物の集散地でもあった。町中央を東北本線,国道4号線,東北自動車道が縦断し,国見インターチェンジがある。…
…備中側でも倉敷南部や水島において数多くの新田が生まれた。明治以後は藤田組,第2次世界大戦後は農林省により児島湾の干拓が実施され,また倉敷では水島地先を埋め立てて水島臨海工業地帯が形成された。この平野は古くから穀倉地帯であり,この用水確保のため湛井(たたい)十二ヶ郷用水,八ヶ郷用水,田原用水などの大用水組織が作られ維持されてきた。…
※「藤田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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