朝日日本歴史人物事典 「中原基兼」の解説
中原基兼
平安末期の院近習。永暦1(1160)年には弾正忠であったことがみえ,承安1(1171)年に山城守となる。北面下臈として後白河院に仕え,治承1(1177)年鹿ケ谷の平氏打倒の陰謀に加担して,平清盛により解官,奥州に配流された。その後は藤原秀衡に属し,内乱期を通じて活発に行動したものと思われる。平氏滅亡後の文治3(1187)年には基兼の再上洛について源頼朝がとりなしをしていることから,基兼が各方面との連絡を維持していたことがうかがわれる。当時の貴族の日記では「元法皇近臣,凶悪之人」と評されている。
(奥田環)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報