鳥取県の西部、西伯(さいはく)郡にある町。2005年(平成17)に西伯郡の岸本町(きしもとちょう)と日野(ひの)郡の溝口町(みぞくちちょう)が合併して成立した。町域の中央部から北西部にかけて、日野川が北西流し、その東岸に大山西麓(だいせんせいろく)の微傾斜地が展開する。大山西麓の標高500メートル前後の地域には水無(みずなし)原、桝水(ますみず)原(桝水高原)、福永(ふくなが)原、大平(おおなる)原など高原地帯が続き、ここを水源とする別所川、清山(せいやま)川、大江川などが西流して日野川右岸に注ぐ。別所川の北岸、半(はん)川(下流部を佐蛇(さだ)川といい、日本海に注ぐ)との間には、俗に大原千町とよぶ稲作地帯が開ける。町域の南部は日野川左岸に注ぐ野上(のがみ)川の流域で、標高300~700メートルの山地が連なる。日野川に沿ってJR伯備(はくび)線、国道181号が通じ、米子自動車道溝口インターチェンジがある。町名は旧伯耆国の国名に由来。基幹産業は農林畜産業だが、隣接する米子市に就業する者も多く、兼業農家の比率が高まっている。大山山麓の火山灰土(黒ぼく)で栽培された白ネギ、白菜は特産。同じく黒ぼくの牧草地で放牧された伯耆牛はブランド牛となっている。ほかにリンゴ、カキなどの果樹、スイカ、メロンや花卉(かき)の栽培も盛ん。町域(西側)から眺める大山の姿は大山の正面といわれ、均整のとれたコニーデ状の山容で、伯耆富士とよばれる。こうした自然環境を活用し、大山山麓の高原リゾート地としての観光開発にも力が注がれる。大殿(おおとの)地区の大寺廃寺(おおてらはいじ)は白鳳期の創建と考えらる。法起寺式の伽藍配置は全国でも類例が少なく、1918年(大正7)に発見された石製鴟尾(しび)は国指定重要文化財。江戸時代、野上川流域の山間部では鉄穴(かんな)流しによる山砂鉄の採取が盛行。日野川左岸一帯を灌漑する用水路佐野川は、江戸時代前期に開削に着手したが、難工事のため幾度となく頓挫、ようやく1861年(文久1)に竣工した。難所の一つであった金廻(かなまわり)には「佐野川御普請皆出来」の記念碑が立つ。面積139.44平方キロメートル、人口1万0696(2020)。
[編集部]
鳥取県西部,西伯郡の町。2005年1月岸本(きしもと)町と溝口(みぞぐち)町が合体して成立した。人口1万1621(2010)。
伯耆町北部の旧町。西伯郡所属。人口7271(2000)。日野川中流域に位置し,東部には大山西麓のすそ野が広がり,西部は火山灰台地と米子平野の一部をなす低地からなる。中心集落の岸本は日野川の谷口集落で,古代の山陰道の駅家が置かれた。日野川両岸の台地では古墳群や奈良時代の大寺廃寺跡(史),石製鴟尾(しび)(重要文化財)が発見されている。西方台地上の長者原は吉持家7代によって江戸末期に開墾が完成し,1861年(文久1)佐野川用水の完成により水田化された。農業を町の基幹産業とし,米作を中心にスイカ,二十世紀梨などの栽培が営まれる。1973年まで減少を続けていた人口も隣接する旧米子市の都市化の波を受けて増加に転じている。JR伯備線,国道180号線が通る。
伯耆町中南部の旧町で,日野川中流域に位置する,旧日野郡所属。人口5392(2000)。町域は中央を北西流する日野川を境に東西に分かれ,東部は大山西麓の火山灰土地帯,西部は日野山地の花コウ岩地帯からなる。中心集落の溝口は近世に参勤交代の諸大名が往来した出雲街道の宿場町で,本陣が置かれた。農業が主産業で,大山西麓では大規模な牧草地づくりが盛んであり,乳牛・肉牛の集団放牧が行われる。日野川支流谷奥の福居ではかつてたたら製鉄が行われていた。北東部の桝水原は大山のすそ野の古い浸食谷を火砕流が埋積してできた平たん面で,夏季はキャンプ地,冬季はスキー場となる。大山隠岐国立公園に属し,大山環状道路(1982年無料開放)の起点がある。JR伯備線,国道180号線が通じ,米子自動車道のインターチェンジがある。
執筆者:上田 雅子
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