日本歴史地名大系 「中間丁」の解説 中間丁ちゆうげんちよう 岡山県:高梁市松山城下中間丁[現在地名]高梁市中間町下(しも)町の西側、松山川(現高梁川)沿いにあった屋敷町。北は下谷(しもだに)川(現紺屋町川)を隔てて本(ほん)町、南は牢屋(ろうや)小路を隔てて鉄砲(てつぽう)丁に接する。正保年中(一六四四―四八)作成の松山城絵図(国立公文書館蔵)に「中間町」とみえ、北端に材木蔵屋敷があった。元禄(一六八八―一七〇四)初年の改では、「中間町、長二丁三十二間、家数三十六軒」となっている(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)。藩主石川総慶時代には南北に走る道の東側に九(うち明家二)、西側に一〇(うち明家三)があり(「松山城下絵図」三重県亀山市立図書館蔵)、延享元年(一七四四)には「表足軽町」とよんでおり、給人屋敷一七のほか一棟長屋八および藁草蔵一があった(「松山家中屋敷覚」高梁市立図書館蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by