火薬の爆発力を利用して弾丸を打ち出す武器。大砲を含むこともあるが,とくに小銃を指す。ここでは,西洋における鉄砲を含む武器携帯のあり方,日本への鉄砲伝来と近世における鉄砲使用のあり方について説明する。鉄砲の構造,分類,沿革については〈小銃〉の項目を参照されたい。
西洋
銃砲所持,広い意味での武器携帯は,古代社会から今日に至るまでさまざまの規制の対象となっている。古代のローマやアテナイでは市中での武器携帯は禁止され,東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は私人がかってに武器を製造し取引することを厳禁した。西ローマ帝国を復興したカール大帝も武器の常時携帯を禁止したが,中世を通じて多くの王令や勅令が公布されたことは,この禁止規定が十分に遵守されなかったことを物語っている。16世紀以降になると,例えばフランスでは,剣の携帯は貴族の特権として位置づけられたが,火器(鉄砲,拳銃など)の携行は彼らにも禁止され,広く一般にも武器を所持して集会を開くことは1670年の刑事王令(第1編第11条)に依拠して国王専決事項と規定され,厳しい訴追の対象となった。フランス革命期には武器の取扱いは事実上放任されたが,今日では武器(第1種の兵器と第4種の自衛のための火器,例えば口径の大小を問わないピストル)の携帯と保持は軍人と警察官に対してのみ認められ,一般国民には禁止されている。武器携帯を集会との関連で規制する憲法では,ベルギー共和国憲法第19条,イタリア共和国憲法第17条,ドイツ連邦共和国憲法第8条があり,いずれも武器を持たずに平穏に集会する権利を認めている。他方,アメリカ合衆国は,1791年に確定された合衆国憲法修正個条(別名〈権利章典〉と呼ばれる)の第2条において,〈規律ある民兵は,自由な国家の安全にとって必要であるから,人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は,これを侵してはならない〉と成文化して,武器の携帯を合法化した。アメリカ人民武装の法的容認は,今日においてもこの修正第2条に宿っている。
執筆者:志垣 嘉夫 上述のように,アメリカ合衆国は憲法で人民の武器保蔵・携帯の権利を認める数少ない国である。植民地時代から鉄砲は狩猟用,自己防衛の道具として開拓民の必需品であり,同時代のヨーロッパに比べてその需要は大きかった。独立革命期には,イギリスが兵器輸出を禁止したため,武器の自給が必須となり,また民兵の活躍は市民武装の必要性を再認識させ,この考え方は合衆国憲法に結実する。植民地時代のケンタッキー・ライフルや,〈西部を征服した銃〉とも呼ばれた1873年型ウィンチェスター銃など,アメリカは数々の名銃を生み出したが,18世紀末に,大量の銃砲を短期間かつ正確に製造するために,E.ホイットニーらが考案した〈部品互換方式〉は,標準部品による大量生産方式としてその後他の工業部門でも採用された。歴史上銃砲とのかかわりが深いアメリカにおいても,ケネディ大統領やキング牧師の暗殺を契機に,1968年以降たびたび銃砲取締りが試みられた。しかし,歴史的背景に加えて全国ライフル協会National Rifle Associationなどの圧力団体の活動によって,いずれの取締りも効を奏していない。
執筆者:岡田 泰男
日本
1543年(天文12)九州種子島に漂着したポルトガル人によって初めて欧州の鉄砲が伝来した。欧州側史料では1542年のことという。このとき伝えられた鉄砲はエスピンガルダと呼ばれた南欧系の先込め式火縄銃で,口径18mm前後,最大射程200m,有効射程40~50mくらいのものであった。《鉄炮記(てつぽうき)》によれば,時の島主種子島時尭(ときたか)は鉄砲の威力に驚き,2000金を投じて鉄砲2梃を譲りうけ,みずから日夜射撃の練習に励み,百発百中の腕前になり,また家臣らに命じて火薬の製法を学ばせ,鉄砲製作を研究させ,ついに鉄砲の国産化に成功したという。のちに鉄砲は発祥の地にちなんで種子島とも呼ばれた。種子島の技術は紀州根来(ねごろ)の杉坊妙算や堺の橘屋又三郎によって畿内へ伝えられ,さらに日本各地に広まっていった。また島津義久,将軍足利義晴らを経て近江の国友(くにとも)へ伝えられ,国友鉄砲鍛冶の起源ともなった。当時豊後に来た明の使節鄭舜功はその見聞記《日本一鑑》に鉄砲生産地として種子島のほかに坊津(ぼうのつ),平戸,豊後,和泉などを記している。このように新来の兵器鉄砲は数年のうちに急速に各地の戦国大名らに採用され,戦国の主要兵器となっていった。
天文末期ごろ足利将軍家には種子島,豊後などの各地から舶来,国産の鉄砲が集められ,また火薬の製法など鉄砲に関する多くの最新知識・技術が集積されていた。これらの知識・技術は将軍家を媒介として越後長尾氏や上野横瀬氏らに伝えられるなど,当時将軍家は一種の技術センター的役割を果たしていた。また堺は室町末期には商品流通,国際貿易の拠点としての地位を確立しており,いち早く鉄砲生産を工場制的段階にまで高めて堺筒として大量生産し,商品化に成功して日本における兵器厰となった。諸国の大名,武将らは競って堺から鉄砲,弾薬などを入手して,軍備の強化を図った。そして根来,雑賀(さいか)では僧兵,地侍らが大量の鉄砲を装備して,傭兵として畿内諸国で活躍した。鉄砲の普及は従来の戦闘形態に変化をもたらし,城郭と武器を鉄砲戦に耐えうるものに変えた。最も早くから鉄砲に注目し,鉄砲戦を軍事技術的に体系化し確立したのは織田信長である。1575年(天正3)信長は長篠の戦で3000の鉄砲隊をもって無敵の武田騎馬隊を撃破したが,この勝利の背後には堺の資金と鉄砲があったであろう。こうして戦国乱世は,鉄砲の出現によって信長,秀吉,家康と急速に天下統一の歩みを速めることになった。鉄砲が技術的に最も頂点を極めたのは,稲富一夢斎が活躍した大坂の陣のころであった。
火薬の問題は従来あまり注意が払われていないが,再検討すべき問題が多い。例えば火薬の主要成分である硝石は,慶長の役以前の段階ですでに国産されていたようである。1589年北条氏忠は下野国尻内郷に塩硝年貢の上納を命じている。
執筆者:福川 一徳 1637年(寛永14)の島原の乱は,農民身分の者が大量に鉄砲を利用した戦争であったが,以後幕末期まで実戦での鉄砲使用はない。鎖国体制確立期以前には,日本人銃士が東南アジア地方に傭兵としてやとわれるほど,鉄砲技術は普及しており,その普及のいっそうの大きさと,他面役割の変化とが,以後約200年の鉄砲のあり方となる。
17世紀後半,山鹿素行は猟師や農民に鉄砲を持たせて農兵とする大名の存在を指摘して推奨した。鷹狩の愛好はこれと両立しないとした点も,初期の鷹場保護策としての鉄砲規制の例とあわせて注意をひくが,農兵制は一般化せず,武士層の鉄砲需要は停滞した。徳川家康をはじめ銃撃を愛好した武将も多かったが,元来集団戦闘に有効であった鉄砲は,支配身分の象徴にはなりにくく,大名らの豪華な装飾鉄砲の例や鉄砲技術の秘伝化がみられたものの,大筒の製造や名人芸的射法の伝習事例より,農村において鉄砲の果たした役割のほうが大きな意味をもつ。
農兵や,領主に皮革上納の役を課された猟師のほか,土着して新田村を開いた浪人は,その所持鉄砲で盗賊や鳥獣害に備え,猟をもした例が多いにちがいない。のみならず,総じて山野開発の進行期には,野鳥獣駆除は農業経営の大きな部分を占め,鉄砲は有効な用具であった。戦闘用鉄砲需要停滞期に各地に広がっていた鉄砲製造者は,この需要に応じて農山村に鉄砲を広げ,17世紀の耕地開発に役割を演じた。幕府は,1657年(明暦3)関東盗賊取締令にはじまって,関東地方で鉄砲統制を強化していったが,全国規模での鉄砲取締りは1687-88年(貞享4-5)以降,徳川綱吉の諸国鉄砲改である。生類憐み政策の一環で,職業猟師の鉄砲と一部地域の用心鉄砲に登録のうえ実弾発射を認めたほかは,多くの在村鉄砲を没収させ,鳥獣害対策は登録した威(おどし)鉄砲による空砲を原則とし,やむなき際は領主管理下の撃殺を期日を限って認めた。この措置で村から没収された鉄砲数が,大名家城付鉄砲数を上回る例もある。徳川吉宗は幕府の鉄砲統制権を関東に限り,鉄砲改の趣旨は大きく後退した。諸大名で,綱吉期の統制を継承した例も多いが,野鳥獣害の大きい地では,江戸時代を通じて在村鉄砲は大量に存在しつづけた。百姓一揆の鉄砲使用の危惧は支配層に意識されたが,組織的使用例は確認できず,一揆弾圧用の鉄砲使用の例もあるが,かなり制約されていた。
1854年(安政1)の開国以後,火縄銃とは異質の銃の威力を知った幕府,諸藩は,大量の洋式銃を輸入したが,65年(慶応1)からの5年間で総数50万梃に近い。諸藩の洋式銃所有の差は,幕末内乱期に大きな意味をもった。明治政府による72年(明治5)の銃砲取締規則は,約200年ぶりの全国鉄砲調べで,当時も在村鉄砲は多かったが,洋式を主とする大量の新銃はこれを圧倒するものであり,84年秩父事件蜂起者の鉄砲は,国家権力の武器に匹敵すべくもなかった。
→銃砲刀剣類所持等取締法
執筆者:塚本 学