鉄砲(読み)テッポウ

デジタル大辞泉 「鉄砲」の意味・読み・例文・類語

てっ‐ぽう〔‐パウ〕【鉄砲/鉄×炮】

火薬の爆発に伴うガス圧によって弾丸を発射する金属製の火器。ふつう小銃をいう。古くは大砲をも称した。
《形が1に似ているところから》据え風呂の下部や隅に取り付け火をたくようにした鉄製または銅製の筒状のかま
相撲で、両手または片手に力をこめて、相手のからだをつきとばすもの。柱に手を打ち付けてその稽古をすることにもいう。
狐拳きつねけん藤八拳)の手の一。こぶしを固めて左腕を前方に突き出し、鉄砲1を撃つまねをして猟師を表すもの。
《毒にあたると死ぬところから》フグの俗称。
鉄砲巻き」の略。
牛や豚の直腸。主に焼き肉にして食し、やや歯ごたえがある。
劇場で、1階中央の席。椅子席でなかった時代には、最も見やすく出入りに便利な席とされた。劇場と縁故をもつ観客のために急にずどんと席をとることがあったところからという。
鉄砲見世」の略。
「大町六十幾軒に五十軒の河岸見世、―に至るまで」〈洒・志羅川夜船〉
10 ほら。大言。また、うそつき。
「いやいや、飛八さんの話はいつも―だて」〈滑・浮世風呂・四〉
[類語]銃器飛び道具ピストル短銃拳銃はじき機関銃機関砲小銃ライフル銃猟銃火縄銃散弾銃空気銃大砲迫撃砲ショットガンエアガンマシンガンカービン銃バズーカ砲ガス銃ガトリング銃カラシニコフ騎銃救難銃軽機関銃ゲベール銃高圧電流銃三八式歩兵銃実銃自動拳銃自動小銃重機関銃準空気銃水中銃スタンガンスナイドル銃短機関銃単身銃単発銃鳥銃二連銃村田銃モーゼル銃連発銃遊戯銃玩具銃模型銃光線銃水鉄砲豆鉄砲紙鉄砲威し鉄砲空鉄砲剣付き鉄砲竹鉄砲ふところ鉄砲山吹鉄砲トイガンモデルガンエアソフトガンエアライフルビームライフル

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精選版 日本国語大辞典 「鉄砲」の意味・読み・例文・類語

てっ‐ぽう‥パウ【鉄砲・鉄炮】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 鉄その他の金属で作られた、火薬の力で弾丸を発射させる装置の武器。大砲・小銃などの総称。〔蒙古襲来絵詞(1293頃)〕
    1. [初出の実例]「鉄炮(テッパウ)とて鞠の勢なる鉄丸の迸る事」(出典:太平記(14C後)三九)
  3. 特に小銃の称。
    1. [初出の実例]「朝、北殿にて鴈汁給候。中務銕炮にて射て進上候」(出典:石山本願寺日記‐私心記・天文二〇年(1551)一二月六日)
  4. かみでっぽう(紙鉄砲)」「まめでっぽう(豆鉄砲)」などの略。
    1. [初出の実例]「紙でっほう〔来山点笠付〕手を手をにてっほうにする手本紙」(出典:随筆・嬉遊笑覧(1830)六)
  5. 据え風呂に装置して火をたく鉄や銅などで作られた筒。また、それを装置した風呂。鉄砲風呂。また、単にそのかま。
    1. [初出の実例]「此湯をぬるいといふ人は鉄炮(テッボウ)の方へ沈か、此格子をはづしで鑊(かま)の中へはいるが能(いい)」(出典:滑稽本・浮世風呂(1809‐13)前)
  6. 狐拳(きつねけん)の手の一つ。こぶしをかためて腕を前方に突き出し、猟銃をうつまねをするもの。猟師を表わすもので、狐には勝ち、庄屋には負ける。また、単に、握りこぶし、げんこつなどの意を表わす。
    1. [初出の実例]「卒八眼七が鉄砲であとはのこらず名主、ヤ奇妙奇妙」(出典:滑稽本・八笑人(1820‐49)二下)
  7. ( 煙を出し、しかも形が似ているところから ) キセルの異称。
    1. [初出の実例]「鉄鉋で一吹と〈略〉打つ石の光りより」(出典:浄瑠璃・伊豆院宣源氏鏡(1741)四)
  8. てっぽうぜめ(鉄砲責)
    1. [初出の実例]「鉄砲(テツハウ)にかくる時もはや何をかくし申べし」(出典:浮世草子・懐硯(1687)四)
  9. うそ。だぼら。鉄砲話。
    1. [初出の実例]「はなし只ききて笑はぬ人もなし さてさてくさき鉄鉋(テッパウ)の音」(出典:俳諧・新増犬筑波集(1643)油糟)
  10. ( 当たれば死ぬというところから ) 魚、「ふぐ(河豚)」の俗称。また、フグを料理したふぐなべ、ふぐちり、ふぐ汁などもいう。てつ。
    1. [初出の実例]「鉄炮と名にこそ立れふぐと汁」(出典:雑俳・たから船(1703))
  11. てっぽうみせ(鉄砲店)」「てっぽうじょろう(鉄砲女郎)」の略。
    1. [初出の実例]「是から鉄ぽうをそそるベヱ」(出典:洒落本・客衆肝照子(1786)地まわり)
    2. 「伏見丁のてっぱうへ鞍替して居た」(出典:黄表紙・富士之人穴見物(1788))
  12. てっぽうしぼり(鉄砲絞)」の略。
    1. [初出の実例]「『並の絞りのその外に、さぞ珍らしいのがいろいろあるで』『〈略〉らせん鹿の子に養老柳、てっぽう麻の葉、きしゃご絞りになまこむきみ』」(出典:歌舞伎・狭間軍記鳴海録(桶狭間合戦)(1870)序幕)
  13. てっぽうそで(鉄砲袖)」の略。
  14. てっぽうまき(鉄砲巻)」の略。
  15. 椅子席以前の歌舞伎劇場で、平土間(ひらどま)の中央の部分。観客席のうち、もっとも見やすく、出入りに便利である場所。
  16. 相撲で、両手をのばして、相手の胸部を強く突っ張ること。また、その突き。もろてづき。柱などを相手に、左右の手で交互に強く突いたり、左右同時に強く突いたりする、基本的な稽古もいう。
    1. [初出の実例]「ドンと一発鉄砲(テッパウ)をくれたので、駒はたまらず土俵外に飛出して」(出典:相撲講話(1919)〈日本青年教育会〉駒ケ嶽の凋落と太刀山の独舞台)
  17. 競馬で、比較的長い休養期間をとった競走馬が、休養後はじめてレースに出走すること。

てっ‐ぽ【鉄砲】

  1. 〘 名詞 〙 「てっぽう(鉄砲)」の変化した語。
    1. [初出の実例]「向ひ通るは甚太じゃないか、てっぽかついで小脇指をさいて」(出典:歌謡・淋敷座之慰(1676)鞠つき歌)

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改訂新版 世界大百科事典 「鉄砲」の意味・わかりやすい解説

鉄砲 (てっぽう)

火薬の爆発力を利用して弾丸を打ち出す武器。大砲を含むこともあるが,とくに小銃を指す。ここでは,西洋における鉄砲を含む武器携帯のあり方,日本への鉄砲伝来と近世における鉄砲使用のあり方について説明する。鉄砲の構造,分類,沿革については〈小銃〉の項目を参照されたい。

銃砲所持,広い意味での武器携帯は,古代社会から今日に至るまでさまざまの規制の対象となっている。古代のローマやアテナイでは市中での武器携帯は禁止され,東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は私人がかってに武器を製造し取引することを厳禁した。西ローマ帝国を復興したカール大帝も武器の常時携帯を禁止したが,中世を通じて多くの王令や勅令が公布されたことは,この禁止規定が十分に遵守されなかったことを物語っている。16世紀以降になると,例えばフランスでは,剣の携帯は貴族の特権として位置づけられたが,火器(鉄砲,拳銃など)の携行は彼らにも禁止され,広く一般にも武器を所持して集会を開くことは1670年の刑事王令(第1編第11条)に依拠して国王専決事項と規定され,厳しい訴追の対象となった。フランス革命期には武器の取扱いは事実上放任されたが,今日では武器(第1種の兵器と第4種の自衛のための火器,例えば口径の大小を問わないピストル)の携帯と保持は軍人と警察官に対してのみ認められ,一般国民には禁止されている。武器携帯を集会との関連で規制する憲法では,ベルギー共和国憲法第19条,イタリア共和国憲法第17条,ドイツ連邦共和国憲法第8条があり,いずれも武器を持たずに平穏に集会する権利を認めている。他方,アメリカ合衆国は,1791年に確定された合衆国憲法修正個条(別名〈権利章典〉と呼ばれる)の第2条において,〈規律ある民兵は,自由な国家の安全にとって必要であるから,人民が武器を保蔵しまた携帯する権利は,これを侵してはならない〉と成文化して,武器の携帯を合法化した。アメリカ人民武装の法的容認は,今日においてもこの修正第2条に宿っている。
執筆者: 上述のように,アメリカ合衆国は憲法で人民の武器保蔵・携帯の権利を認める数少ない国である。植民地時代から鉄砲は狩猟用,自己防衛の道具として開拓民の必需品であり,同時代のヨーロッパに比べてその需要は大きかった。独立革命期には,イギリスが兵器輸出を禁止したため,武器の自給が必須となり,また民兵の活躍は市民武装の必要性を再認識させ,この考え方は合衆国憲法に結実する。植民地時代のケンタッキー・ライフルや,〈西部を征服した銃〉とも呼ばれた1873年型ウィンチェスター銃など,アメリカは数々の名銃を生み出したが,18世紀末に,大量の銃砲を短期間かつ正確に製造するために,E.ホイットニーらが考案した〈部品互換方式〉は,標準部品による大量生産方式としてその後他の工業部門でも採用された。歴史上銃砲とのかかわりが深いアメリカにおいても,ケネディ大統領やキング牧師の暗殺を契機に,1968年以降たびたび銃砲取締りが試みられた。しかし,歴史的背景に加えて全国ライフル協会National Rifle Associationなどの圧力団体の活動によって,いずれの取締りも効を奏していない。
執筆者:

1543年(天文12)九州種子島に漂着したポルトガル人によって初めて欧州の鉄砲が伝来した。欧州側史料では1542年のことという。このとき伝えられた鉄砲はエスピンガルダと呼ばれた南欧系の先込め式火縄銃で,口径18mm前後,最大射程200m,有効射程40~50mくらいのものであった。《鉄炮記(てつぽうき)》によれば,時の島主種子島時尭(ときたか)は鉄砲の威力に驚き,2000金を投じて鉄砲2梃を譲りうけ,みずから日夜射撃の練習に励み,百発百中の腕前になり,また家臣らに命じて火薬の製法を学ばせ,鉄砲製作を研究させ,ついに鉄砲の国産化に成功したという。のちに鉄砲は発祥の地にちなんで種子島とも呼ばれた。種子島の技術は紀州根来(ねごろ)の杉坊妙算や堺の橘屋又三郎によって畿内へ伝えられ,さらに日本各地に広まっていった。また島津義久,将軍足利義晴らを経て近江の国友(くにとも)へ伝えられ,国友鉄砲鍛冶の起源ともなった。当時豊後に来た明の使節鄭舜功はその見聞記《日本一鑑》に鉄砲生産地として種子島のほかに坊津(ぼうのつ),平戸,豊後,和泉などを記している。このように新来の兵器鉄砲は数年のうちに急速に各地の戦国大名らに採用され,戦国の主要兵器となっていった。

 天文末期ごろ足利将軍家には種子島,豊後などの各地から舶来,国産の鉄砲が集められ,また火薬の製法など鉄砲に関する多くの最新知識・技術が集積されていた。これらの知識・技術は将軍家を媒介として越後長尾氏や上野横瀬氏らに伝えられるなど,当時将軍家は一種の技術センター的役割を果たしていた。また堺は室町末期には商品流通,国際貿易の拠点としての地位を確立しており,いち早く鉄砲生産を工場制的段階にまで高めて堺筒として大量生産し,商品化に成功して日本における兵器厰となった。諸国の大名,武将らは競って堺から鉄砲,弾薬などを入手して,軍備の強化を図った。そして根来,雑賀(さいか)では僧兵,地侍らが大量の鉄砲を装備して,傭兵として畿内諸国で活躍した。鉄砲の普及は従来の戦闘形態に変化をもたらし,城郭と武器を鉄砲戦に耐えうるものに変えた。最も早くから鉄砲に注目し,鉄砲戦を軍事技術的に体系化し確立したのは織田信長である。1575年(天正3)信長は長篠の戦で3000の鉄砲隊をもって無敵の武田騎馬隊を撃破したが,この勝利の背後には堺の資金と鉄砲があったであろう。こうして戦国乱世は,鉄砲の出現によって信長,秀吉,家康と急速に天下統一の歩みを速めることになった。鉄砲が技術的に最も頂点を極めたのは,稲富一夢斎が活躍した大坂の陣のころであった。

 火薬の問題は従来あまり注意が払われていないが,再検討すべき問題が多い。例えば火薬の主要成分である硝石は,慶長の役以前の段階ですでに国産されていたようである。1589年北条氏忠は下野国尻内郷に塩硝年貢の上納を命じている。
執筆者: 1637年(寛永14)の島原の乱は,農民身分の者が大量に鉄砲を利用した戦争であったが,以後幕末期まで実戦での鉄砲使用はない。鎖国体制確立期以前には,日本人銃士が東南アジア地方に傭兵としてやとわれるほど,鉄砲技術は普及しており,その普及のいっそうの大きさと,他面役割の変化とが,以後約200年の鉄砲のあり方となる。

 17世紀後半,山鹿素行は猟師や農民に鉄砲を持たせて農兵とする大名の存在を指摘して推奨した。鷹狩の愛好はこれと両立しないとした点も,初期の鷹場保護策としての鉄砲規制の例とあわせて注意をひくが,農兵制は一般化せず,武士層の鉄砲需要は停滞した。徳川家康をはじめ銃撃を愛好した武将も多かったが,元来集団戦闘に有効であった鉄砲は,支配身分の象徴にはなりにくく,大名らの豪華な装飾鉄砲の例や鉄砲技術の秘伝化がみられたものの,大筒の製造や名人芸的射法の伝習事例より,農村において鉄砲の果たした役割のほうが大きな意味をもつ。

 農兵や,領主に皮革上納の役を課された猟師のほか,土着して新田村を開いた浪人は,その所持鉄砲で盗賊や鳥獣害に備え,猟をもした例が多いにちがいない。のみならず,総じて山野開発の進行期には,野鳥獣駆除は農業経営の大きな部分を占め,鉄砲は有効な用具であった。戦闘用鉄砲需要停滞期に各地に広がっていた鉄砲製造者は,この需要に応じて農山村に鉄砲を広げ,17世紀の耕地開発に役割を演じた。幕府は,1657年(明暦3)関東盗賊取締令にはじまって,関東地方で鉄砲統制を強化していったが,全国規模での鉄砲取締りは1687-88年(貞享4-5)以降,徳川綱吉の諸国鉄砲改である。生類憐み政策の一環で,職業猟師の鉄砲と一部地域の用心鉄砲に登録のうえ実弾発射を認めたほかは,多くの在村鉄砲を没収させ,鳥獣害対策は登録した威(おどし)鉄砲による空砲を原則とし,やむなき際は領主管理下の撃殺を期日を限って認めた。この措置で村から没収された鉄砲数が,大名家城付鉄砲数を上回る例もある。徳川吉宗は幕府の鉄砲統制権を関東に限り,鉄砲改の趣旨は大きく後退した。諸大名で,綱吉期の統制を継承した例も多いが,野鳥獣害の大きい地では,江戸時代を通じて在村鉄砲は大量に存在しつづけた。百姓一揆の鉄砲使用の危惧は支配層に意識されたが,組織的使用例は確認できず,一揆弾圧用の鉄砲使用の例もあるが,かなり制約されていた。

 1854年(安政1)の開国以後,火縄銃とは異質の銃の威力を知った幕府,諸藩は,大量の洋式銃を輸入したが,65年(慶応1)からの5年間で総数50万梃に近い。諸藩の洋式銃所有の差は,幕末内乱期に大きな意味をもった。明治政府による72年(明治5)の銃砲取締規則は,約200年ぶりの全国鉄砲調べで,当時も在村鉄砲は多かったが,洋式を主とする大量の新銃はこれを圧倒するものであり,84年秩父事件蜂起者の鉄砲は,国家権力の武器に匹敵すべくもなかった。
銃砲刀剣類所持等取締法
執筆者:

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普及版 字通 「鉄砲」の読み・字形・画数・意味

【鉄砲】てつぽう(ぱう)

小銃。〔海槎余録〕黎俗、二に則ち出獵す。~人犬齊しく奮ひて閙(けうたう)し、~獸怖して深嶺に向ふ。~鐵一二百、犬百隻を持し、密かに大嶺に向ひ、を擧げ喊を發し、犬を縱ちて捕す。~に着き、に中(あた)らざる無し。

字通「鉄」の項目を見る

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百科事典マイペディア 「鉄砲」の意味・わかりやすい解説

鉄砲【てっぽう】

小銃の旧称。日本には1543年種子島にきたポルトガル人により初めてもたらされた。ポルトガル語でエスピンガルダ,英語でアーキバスという火縄長銃であった(種子島銃)。その製造法は1553年ころまでに坊津(ぼうのつ),平戸,豊後(ぶんご)(大分),堺などに伝わり,各地に鉄砲鍛冶が興った。堺鉄砲鍛冶,薩摩鉄砲鍛冶,国友鉄砲鍛冶などが有名。戦国大名は鉄砲を求めて狂奔し,鉄砲隊を編制して戦術・築城法に一大革命が起こった。
→関連項目種子島時尭長篠の戦薙刀

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鉄砲」の意味・わかりやすい解説

鉄砲
てっぽう

ライフル銃、散弾銃など小銃器の総称。『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』によると、1274年(文永11)に日本に侵攻したモンゴル軍が、鉄製の容器に爆発薬または燃焼薬を詰めて点火、投擲(とうてき)する原始的火器を使用した。これを「てつはう=鉄炮」といい、以来、日本では小銃器(中国では鳥銃(ちょうじゅう)という)を鉄砲と称した。

[小橋良夫]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鉄砲」の解説

鉄砲
てっぽう

火薬の力で鉄の筒から弾丸を発射させる武器の総称。火器・銃ともいい,筒の太いものを大砲という。日本が鉄砲に接触した最初は13世紀末の元寇の際の元軍使用のものだが,これは火薬を爆発させて音響効果を狙ったもので,のちの鉄砲とは異なる。その後,通説では1543年(天文12)ポルトガル人により種子島(たねがしま)に火縄銃(ひなわじゅう)が伝えられ,以後,種子島とよばれて戦国大名間に普及した。近世の鎖国体制のなかで,鉄砲の大量利用例は少なくなり,鉄砲の機能・技術は停滞した。むしろ外面的装飾をこらす装飾砲が造られ,鉄砲技術は流派の秘伝となり,鉄砲使用は農山村の在村銃が多くなった。開国後,火縄銃から大量に輸入された洋式銃にかわった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鉄砲」の意味・わかりやすい解説

鉄砲
てっぽう

相撲用語。稽古場にある「鉄砲柱」に向かって行なう突っ張りの稽古法。左で突く場合は左腰を入れ,左足爪先の親指に力を入れて柱の方向にすり込んでいくのが本格。また,もろ手突きのこともいう。

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とっさの日本語便利帳 「鉄砲」の解説

鉄砲

休養明けの初戦。レース間隔が空いてもいきなり走れるタイプの馬を「鉄砲駈けする」という。「ポン駈けする」とも。

鉄砲

柱や人を相手に、突きや押しの力、手足の連係を養うトレーニング。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

動植物名よみかた辞典 普及版 「鉄砲」の解説

鉄砲 (テッポウ)

動物。フグ科の魚類の総称。フグの別称

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世界大百科事典(旧版)内の鉄砲の言及

【フグ(河豚)】より

…記録はないが,当然中毒死した人は多かったはずで,それが松尾芭蕉をして〈あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁〉の句をなさしめたゆえんであった。また,異名を〈鉄砲〉,略して〈てつ〉と呼ぶのも,食べるとあたり,あたれば死ぬことが多いというしゃれである。フグ料理について最初に記載したのは《大草家料理書》(室町末期ころの成立)と思われる。…

【安土桃山時代】より

… この時代の文化を象徴するものは城郭建築であるが,中世の城郭が山の斜面を利用して土塁と空堀をつくり,郭(くるわ)(曲輪)による防御機能を中心にしているのに対し,近世の城郭は平地に築かれ,周囲に堀をめぐらして水をたたえ,高く石垣を積みあげ,最上部には天守閣がそびえていた。従来の山城から平城への移行は,鉄砲の伝来による戦術の変化のためで,領国統治の中枢として権力者の富と権威を象徴するものとなった。信長が1576年に築いた安土城は平山城であるが,近世様式の最初で,外柱は朱色,内柱は金色に塗られ,最上部の望楼には内外ともに金が張られていた。…

【軍制】より

…寄子制は村落支配にも採用され,広く農民層が戦場に動員される。槍と鉄砲の使用がそれを促進し,足軽野伏と傭兵制が軍制上での新たな問題になる。戦国大名領国においては,軍制が政治の主要なものであった。…

【小銃】より

…ベトナム戦争で5.56mm口径のM16小銃(アメリカ)が,また中東戦争で同じく口径5.56mmのガリル突撃銃(イスラエル)が使用され,5.56mm口径の有効性が確認されてから,他のNATO諸国でも次々に5.56mm小銃が開発され,ソ連でも5.45mm口径のAK74およびAKS74小銃が開発・装備された。 日本においては,1543年(天文12)の鉄砲伝来以来,わずかの間に多数の鉄砲を使用する近世集団戦術が確立して足軽鉄砲隊が編成され,長篠の戦(1575)の織田軍は3000梃を使用するまでになった。文禄・慶長の役当時は鉄砲と足軽の比は14%程度であったが,関ヶ原の戦(1600)には40%近くまで増大した。…

【関所】より

…これは史料の性格や関所に対する認識の違いによるもので,《諸国御関所書付》によると〈重キ御関所〉26ヵ所,〈軽キ御関所〉28ヵ所の計54ヵ所であるが,このうち前者のみを幕府の関所とみなす論者もいる。 近世の関所の機能を端的に表現するものとして,〈入鉄砲に出女〉の言葉がある。それは関東内への諸大名等の鉄砲以下の武器潜入,江戸藩邸の大名妻子の国許への逃亡を監視することが主任務であったが,幕府の全国支配が貫徹するころには箱根関のように前者の検閲が若干緩和される例もみられた。…

【種子島】より

…南北朝時代以降島主となる種子島氏はその系統であるが,《種子島家譜》は平家落人の子孫と伝える。1543年(天文12)にはポルトガル船が門倉崎に漂着して鉄砲を伝来し,その後国産銃(種子島銃)の製作に成功した。戦国期にはまた種子島氏と禰寝(ねじめ)氏との抗争が続き,種子島氏は戦国大名島津氏と結んだが,1595年(文禄4)島津以久(もちひさ)領となった。…

【長篠の戦】より

…武田信玄の没後,家康が長篠城を取り返したので,勝頼は前年に遠江高天神(たかてんじん)城を陥れた勢いに乗り,75年4月21日約1万(兵員数には諸説がある)の軍勢で長篠城を囲んだ。5月15日鳥居強右衛門(すねえもん)を使者にしての城主奥平信昌の請いにより,勝頼軍の約3倍の兵員で家康,信長の連合軍が救援におもむき,長篠城の西約2kmの設楽原で連吾川を前にして三重の馬防柵を築き,3000挺の鉄砲を配備して武田勢を待った。これに対し武田勢は午前6時ごろより午後2時ごろまで騎馬隊による突撃を繰り返したが,柵にはばまれて敵陣に入ることができず,しかも鉄砲の一斉射撃を浴びて壊滅的な打撃をうけた。…

【武器】より

…この弓矢と騎馬による正確な射撃がモンゴルの大帝国をつくりあげたといわれている。ほかに火器として,花砲という大音響を発するもので,これを敵陣に打ちこんで軍馬や兵士を混乱におとしいれるものがあり,ついで火槍という燧(ひうち)石を使って火薬に点火し,その爆発力によって砲弾を飛ばす初期の鉄砲があり,さらにポルトガル人がインドに運んできたといわれる大砲を模倣したものがあった。
[銃砲の登場]
 明代の武器は日本から直接輸入したものや,日本製武器を参考にして作られたものもある。…

※「鉄砲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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