朝日日本歴史人物事典 「中院通秀」の解説
中院通秀
生年:正長1(1428)
室町中期の公卿。父は准大臣中院通淳,母は中院通敏の娘。初名通時。連歌師牡丹花肖柏は異母弟に当たる。永享10(1438)年叙爵。寛正3(1462)年権大納言。文明13(1481)年従一位に昇叙ののち官を辞す。同17年病気危急に際し,かねて念願であった内大臣の宣下を受け,直後退任。長享2(1488)年に出家。法名妙益。十輪院済川 と号す。文明9年から長享2年,通秀50歳から61歳までの自筆の日記『十輪院内府記』(『史料纂集』所収)が残っており,足利義政,義尚時代の公家,武家の動静や世情が知られる貴重な史料とされる。和漢の学に通じ,公家,武家の間で,その博識は大いに尊重された。日記の中にも和漢の書物に関する記述が多く,洞院公賢の日記『園太暦』を子孫の洞院公数から譲り受け,愛蔵したことや,文明15年に将軍義尚が和歌の『打聞集』の編纂を企画した際,選者に加えられ,かなり多数の歌書を調査したことなど,文化史的な面からも興味深い記事がある。
(相馬万里子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報