イタリア戦争(読み)イタリアせんそう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリア戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア戦争
イタリアせんそう
Italian Wars

1494~1559年おもに 16世紀前半,イタリア支配をめぐるフランスのバロア家ドイツ,スペインのハプスブルク家対立を軸とした戦争。第1期 (1494~1516) はフランス王シャルル8世ナポリ王位継承を主張してイタリアに遠征したのが契機。諸国の反対にあい失敗したが,1499年次のフランス王ルイ 12世はミラノ公領を制圧。 1513年6月,フランスは神聖同盟諸国とノバラに戦って敗れたが,15年9月,即位したばかりのフランソア1世はマリニャーノの戦いに大勝し報復した。第2期 (21~59) の戦争は,皇帝選挙の勝者カルル5世と敗者フランソア1世の間の北イタリア支配権をめぐる戦いをもって再開された。前後4回にわたる戦闘では,まず,25年フランソア1世はパビアの戦いに大敗し捕えられ,29年にはカンブレー条約で皇帝側の勝利に帰した。しかし,36年以来フランソア1世は東からドイツを脅かすトルコと同盟し,イングランドと結んだ皇帝勢力に再三再四戦いを挑んだ。結局,勝敗を決するにいたらず,44年クレピーの和約を結んだ。戦争はさらに,フランソア1世,カルル5世死後もその後継者アンリ2世とスペイン王フェリペ2世に引継がれた。フランス王軍はイタリアへ,逆にフェリペ2世軍は北フランスに侵入したが,59年4月カトー=カンブレジの和約をもって長期にわたる戦争は終結した。この間,27年のドイツ=スペイン傭兵隊による「ローマの略奪」をはじめ諸国軍のイタリア侵攻はルネサンス文化を荒廃させた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリア戦争」の意味・わかりやすい解説

イタリア戦争
いたりあせんそう

1521年から44年まで、イタリアの覇権をめぐって、フランス国王フランソア1世とドイツ皇帝カール5世との間に戦われた4回の戦争。フランスのイタリア侵入は、15世紀末のシャルル8世のナポリ進攻に始まり、次の王ルイ12世もミラノ公国を目標に侵入を繰り返したが、初めはドイツ皇帝マクシミリアン1世の、ついで教皇ユリウス2世を中心とするイタリア国内の反フランス勢力の同盟の反撃により挫折(ざせつ)した。ルイの後を継いだフランソア1世も北イタリア進出を企て、ベネチアと結んで、1515年マリニャーノの戦いで同盟軍に決定的勝利を収め、ミラノ公国を手中に収めた。だが1519年、マクシミリアンの死後スペイン王カルロス1世がフランソア1世を破ってドイツ皇帝に選ばれる(カール5世)と、1521年ミラノ王国奪回の軍を進め、イタリア戦争の口火が切られた。戦争は、第1回21~26年、第2回26~29年、第3回36~38年、第4回42~44年と繰り返された。第1回はフランスの完敗に終わり、フランソア1世も捕らえられ、マドリード降伏条約でイタリアに対するフランスの権利はいっさい放棄させられた。だが、ドイツ勢力の強大化を恐れた教皇クレメンス7世が、イタリア国内の勢力糾合を始めたのをみて、フランソアはただちに降伏条約を破棄してこれと結び、第2回目の戦端を開いた。しかしドイツ軍の優勢は揺るがず、北イタリアから南下してローマに迫ったため、教皇は屈服してカールと和解し、独仏間にもカンブレーの和約が成立した。ローマ攻撃の際ドイツ軍の傭兵(ようへい)がローマ市内に侵入、略奪を行い(ローマの略奪Sacco di Rome)、ルネサンス文化の精華の多くを破壊する事態が起こった。フランソアはその後もイタリアに対する野心を放棄せず、トルコと結んで第3回、第4回と戦争を再開したが、いずれも成果を収めず、フランソア1世の死(1547)でイタリア戦争は終結をみた。

[平城照介]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例