イタリア戦争 (イタリアせんそう)
15世紀末から16世紀半ばにかけて,政治的統一を欠くイタリアの支配権をめぐり,フランス王家とハプスブルク家との対立を軸として展開された大規模な国際紛争。発端は,ナポリ王国の継承権を主張するフランス国王シャルル8世のイタリア侵入(1494)である。しかし,これに対して,フランスの進出を嫌うベネチアなど北イタリア諸国,スペイン,神聖ローマ皇帝,ローマ教皇ユリウス2世,イギリスが同盟を結んだため,シャルルはイタリアからの退却を余儀なくされた。後を継いだルイ12世やフランソア1世もイタリア攻略の政策を受け継ぎ,フランソアはベネチアと組んでミラノを攻め,マリニャーノの戦(1515)に大勝した。しかし,神聖ローマ皇帝の位をめぐり,ヤーコプ・フッガーの財力に支えられたスペイン王カルロス1世(のちの皇帝カール5世)と争って敗れ(1519),やがて再開された戦闘でもパビアの戦(1525)に大敗,マドリードに捕らわれの身となった。こうしたフランスの苦境を救ったのは同盟関係の転換である。ようやくハプスブルク勢力の強大化を恐れるようになっていた北イタリア諸国,教皇,イギリスのヘンリー8世は,勢力の均衡をはかるため逆にフランスの周囲に結集し,これに東からハプスブルク家の所領を脅かしていたスレイマン1世のオスマン・トルコも加わり,対ハプスブルク連合軍が形成され,以後の戦いは,いずれも基本的にはこの同盟関係のもとで行われた。また,フランスとハプスブルクの戦いは,この間に,イタリアだけでなく,ネーデルラントやピレネー国境でも繰り広げられている。65年にわたるこのイタリア戦争は,1559年,アンリ2世とスペイン王フェリペ2世,そしてフランスと結んでいたイギリス女王エリザベス1世との間にカトー・カンブレジの和約が結ばれ,幕を閉じることになったが,この結果,ミラノはドイツ皇帝に,ナポリはスペインに帰するなど,ハプスブルク帝国の優位が確立し,フランスのイタリア支配政策は失敗に終わった。 この長期間にわたる戦争は,他にも多くの影響をヨーロッパやフランスに与えている。複雑に変化する同盟関係は,各国に常駐の外交使節の制度を採用させ,主権国家間の緊密な国際政治成立の契機となった。また,遠征軍を通じて流入したイタリア・ルネサンスの文物は,フランスのルネサンス文化に大きな刺激を与えた。美術の領域では,絵画や彫刻のほか,ロアール河畔の城館やP.レスコの指揮したルーブル宮殿などの建築にイタリア様式が最もはっきり表れ,思想の分野では,1530年に設立された王立教授団(コレージュ・ド・フランス)を拠点とし,教会による支配に反対したユマニストたちに,イタリア人文主義の影響を見いだすことができる。さらに,1495年のシャルル8世によるナポリ占領は,以後フランス病ともナポリ病とも呼ばれることになる梅毒が,ヨーロッパ中に急速にまんえんするきっかけとなった。
執筆者:林田 伸一
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イタリア戦争
イタリアせんそう
Italian Wars
1494~1559年おもに 16世紀前半,イタリア支配をめぐるフランスのバロア家対ドイツ,スペインのハプスブルク家の対立を軸とした戦争。第1期 (1494~1516) はフランス王シャルル8世がナポリの王位継承を主張してイタリアに遠征したのが契機。諸国の反対にあい失敗したが,1499年次のフランス王ルイ 12世はミラノ公領を制圧。 1513年6月,フランスは神聖同盟諸国とノバラに戦って敗れたが,15年9月,即位したばかりのフランソア1世はマリニャーノの戦いに大勝し報復した。第2期 (21~59) の戦争は,皇帝選挙の勝者カルル5世と敗者フランソア1世の間の北イタリア支配権をめぐる戦いをもって再開された。前後4回にわたる戦闘では,まず,25年フランソア1世はパビアの戦いに大敗し捕えられ,29年にはカンブレー条約で皇帝側の勝利に帰した。しかし,36年以来フランソア1世は東からドイツを脅かすトルコと同盟し,イングランドと結んだ皇帝勢力に再三再四戦いを挑んだ。結局,勝敗を決するにいたらず,44年クレピーの和約を結んだ。戦争はさらに,フランソア1世,カルル5世死後もその後継者のアンリ2世とスペイン王フェリペ2世に引継がれた。フランス王軍はイタリアへ,逆にフェリペ2世軍は北フランスに侵入したが,59年4月カトー=カンブレジの和約をもって長期にわたる戦争は終結した。この間,27年のドイツ=スペイン傭兵隊による「ローマの略奪」をはじめ諸国軍のイタリア侵攻はルネサンス文化を荒廃させた。
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イタリア戦争
いたりあせんそう
1521年から44年まで、イタリアの覇権をめぐって、フランス国王フランソア1世とドイツ皇帝カール5世との間に戦われた4回の戦争。フランスのイタリア侵入は、15世紀末のシャルル8世のナポリ進攻に始まり、次の王ルイ12世もミラノ公国を目標に侵入を繰り返したが、初めはドイツ皇帝マクシミリアン1世の、ついで教皇ユリウス2世を中心とするイタリア国内の反フランス勢力の同盟の反撃により挫折(ざせつ)した。ルイの後を継いだフランソア1世も北イタリア進出を企て、ベネチアと結んで、1515年マリニャーノの戦いで同盟軍に決定的勝利を収め、ミラノ公国を手中に収めた。だが1519年、マクシミリアンの死後スペイン王カルロス1世がフランソア1世を破ってドイツ皇帝に選ばれる(カール5世)と、1521年ミラノ王国奪回の軍を進め、イタリア戦争の口火が切られた。戦争は、第1回21~26年、第2回26~29年、第3回36~38年、第4回42~44年と繰り返された。第1回はフランスの完敗に終わり、フランソア1世も捕らえられ、マドリード降伏条約でイタリアに対するフランスの権利はいっさい放棄させられた。だが、ドイツ勢力の強大化を恐れた教皇クレメンス7世が、イタリア国内の勢力糾合を始めたのをみて、フランソアはただちに降伏条約を破棄してこれと結び、第2回目の戦端を開いた。しかしドイツ軍の優勢は揺るがず、北イタリアから南下してローマに迫ったため、教皇は屈服してカールと和解し、独仏間にもカンブレーの和約が成立した。ローマ攻撃の際ドイツ軍の傭兵(ようへい)がローマ市内に侵入、略奪を行い(ローマの略奪Sacco di Rome)、ルネサンス文化の精華の多くを破壊する事態が起こった。フランソアはその後もイタリアに対する野心を放棄せず、トルコと結んで第3回、第4回と戦争を再開したが、いずれも成果を収めず、フランソア1世の死(1547)でイタリア戦争は終結をみた。
[平城照介]
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イタリア戦争
イタリアせんそう
イタリア支配をめぐるドイツ皇帝・スペイン王・フランス王などの抗争
【広義のイタリア戦争】フランス国王シャルル8世がアンジュー家の継承権を掲げてナポリ王国に侵入した1494年から始まり,ハプスブルク家(ドイツ皇帝)とヴァロワ家(フランス国王)の両者が,財政負担に耐えかね,かつ国内の宗教問題に追いつめられてカトー−カンブレジ条約を結んだ1559年までの,イタリア支配および諸国での継承権をめぐるヨーロッパ諸国の抗争をさす。このイタリア戦争およびカトー−カンブレジ条約の締結は,近代の主権国家体制(国際関係)成立の起点となった。
【狭義のイタリア戦争】マクシミリアン1世死後の神聖ローマ皇帝位をめぐるドイツ皇帝カール5世とフランス国王フランソワ1世の対立が,分裂していたイタリアを舞台に展開した1521〜44年までの抗争をさす。背景には,カール5世の皇帝即位で国土の周囲をハプスブルク家に包囲されたフランス国王フランソワ1世の危機感があった。この抗争中,教皇はヨーロッパ諸国の利害をあやつり,フランス国王フランソワ1世は,ドイツ国内のルター派諸侯を援助し,イギリス・イタリア諸国およびオスマン帝国と同盟を結んだ。これに対して,ドイツ皇帝カール5世はスペインと結んで対抗した。戦争は,ドイツ国内の宗教対立とも結びついて展開され,一進一退の様相を呈したが,最終的には北イタリアがドイツ,南イタリアがスペインの勢力下にはいり,フランスの野望は失敗に終わった。この戦争でさまざまな主権国家が同盟関係を結んだ背景には,ヘゲモニーを握る一強国の絶対的支配を認めない「勢力均衡」の原則が働いていた。同時に,キリスト教の宗教的権威を背景に普遍的帝国の形成をめざしたカール5世の夢も過去のものとされた。またこの戦争の舞台となったイタリアでは諸都市が荒廃し,ルネサンス衰退の一要因となった。
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「イタリア戦争」の意味・わかりやすい解説
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イタリア戦争(イタリアせんそう)
16世紀前半イタリアでの覇権をめぐるヴァロワ家(フランス)とハプスブルク家(ドイツ)との戦争。1494年シャルル8世のイタリア侵攻以来,北イタリアに勢力を扶植しつつあったフランスは,フランソワ1世のとき,カール5世の皇帝選挙で,スペインとドイツにまたがる大勢力となったハプスブルク家と激しく衝突。1521年から44年クレピーの和約まで,主として北イタリアを舞台に,前後4回にわたり,教皇やトルコまでも渦中に巻き込んで複雑な外交的駆引きと戦闘が繰り返された。その結果北イタリアにおけるフランス勢力はほとんど一掃されたが,他面皇帝がドイツを不在にしたため,ドイツにおけるルター派勢力の伸張にも有利に作用した。
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世界大百科事典(旧版)内のイタリア戦争の言及
【カール[5世]】より
…25年パビアPaviaの戦でフランソア1世を破ったのちも,フランスは,ハプスブルク勢力の強大化を恐れる教皇や北イタリア諸国,さらに東方のオスマン・トルコとも手を結んで,カールに対抗した。この数次にわたる[イタリア戦争]で,最初は皇帝が優位に立ち,29年夏のカンブレー和約でミラノ,ジェノバを得,翌年にはボローニャで教皇から帝冠を受けて,イタリアにおけるヘゲモニーを確立したかに見えた。しかし同じころオスマン・トルコのスレイマン1世がウィーンを脅かし,カールはドイツ諸侯の援助でこれを撃退したものの,北アフリカ沿岸にスペインがもっていた拠点を次々とオスマン・トルコに奪われた。…
※「イタリア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」