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上杉定正 うえすぎさだまさ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

上杉定正
うえすぎさだまさ

[生]文安1(1444)
[没]明応3(1494).10.5. 武蔵
戦国時代の武将。扇谷上杉持朝の子。修理大夫。山内上杉顕定の臣長尾景春を討つ。その後,顕定の中傷によって功臣太田持資 (道灌) を殺害。やがて顕定と不和になり,明応3 (1494) 年,武蔵高見原の陣で死去。

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デジタル大辞泉の解説

うえすぎ‐さだまさ〔うへすぎ‐〕【上杉定正】

[1443~1494]室町中期の武将。扇ヶ谷(おうぎがやつ)上杉持朝(もちとも)の子。太田道灌(おおたどうかん)に補佐されて兵威を振るったが、上杉顕定(あきさだ)の中傷を信じて道灌を暗殺。のち顕定との戦いの陣中で死亡。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

上杉定正 うえすぎ-さだまさ

1443-1494 室町時代の武将。
嘉吉(かきつ)3年生まれ。上杉持朝の子。甥(おい)の上杉政真の敗死後,扇谷(おうぎがやつ)上杉家をつぐ。家宰太田道灌の助けをえて同家を隆盛にみちびくが,その力をおそれ道灌を殺害。山内上杉顕定とも対立するようになり,北条早雲とむすび顕定を攻める途中落馬し,明応3年10月5日死亡した。52歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

上杉定正

没年:明応3.10.3(1494.10.31)
生年:嘉吉3(1443)
戦国時代の武将。扇谷上杉氏の当主。持朝の子。修理大夫。文明5(1473)年に甥の政真の死により扇谷上杉氏の当主となる。当初は山内上杉顕定と共に武蔵五十子に陣して古河公方足利成氏と対峙し,同8年にはじまる長尾景春の乱に際しては,家老の太田道灌と共にその鎮圧に当たった。こうしたなかで扇谷上杉氏は武蔵河越や相模糟屋を拠点としつつ相模と南武蔵を支配する勢力に成長したが,太田道灌の強大化を恐れた定正は文明18年にこれを謀殺。翌長享1(1487)年には山内上杉氏と戦いを開始し,戦いの渦中武蔵の荒川河畔で急死した。

(山田邦明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

大辞林 第三版の解説

うえすぎさだまさ【上杉定正】

1443~1494) 戦国時代の武将。定政とも。扇谷上杉持朝の子。太田道灌を登用して勢威があがったが、山内上杉顕定の中傷によって道灌を暗殺。顕定との交戦中、陣中で没した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

上杉定正
うえすぎさだまさ
(1443―1494)

室町後期の武将。嘉吉(かきつ)3年扇谷上杉持朝(おうぎがやつうえすぎもちとも)の三男として生まれる。1473年(文明5)甥(おい)の政真(まさざね)が武蔵(むさし)の五十子(いかつこ)(埼玉県本庄(ほんじょう)市)で古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがしげうじ)と戦って敗死すると、政真の家臣に迎えられて扇谷上杉家を継ぎ、家宰太田道灌(どうかん)らの力によってその家名を高めた。しかし、のちに道灌を相模糟屋(さがみかすや)の館(やかた)(神奈川県伊勢原(いせはら)市)で謀殺したため多くの家臣を失う。長尾景春(ながおかげはる)の反乱に対しては山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)を助けて戦ったが、のちに顕定と対立し、かつての敵古河公方や景春と結び、また伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(そううん))とも組んで顕定と戦う。明応(めいおう)3年武蔵の高見原で顕定と対陣した際、落馬が原因で10月5日に急死した。法名護国院大通範亨。[佐脇栄智]

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