ドイツの画家。デューラー,グリューネワルトより一世代若く,ドイツ・ルネサンス絵画の最後を飾る。アウクスブルク生れ。同名の父(1465ころ-1524)も画家で,後期ゴシックからルネサンスへかけてのドイツ絵画を代表する一人。父ハンスは,《セバスティアヌスの祭壇画》(1516)をはじめとする祭壇画,肖像画などを残す。父のもとで学んだ後,1515-16年ころ,兄の画家アンブロジウスAmbrosius(1494ころ-1519か20)とともに当時のヨーロッパにおける学芸の中心地の一つバーゼルに赴き,市長ヤコプ・マイヤーとその妻の肖像(1516)によって早くも肖像画家として頭角を現す。約10年間の第1次バーゼル時代の作品では,《聖母子と市長マイヤーの家族》(1526)のような大型の肖像画のほか,後にドストエフスキーにも多大の感銘を与えた《墓の中のキリスト》(1521)が注目され,木版画《死の舞踏》もこの時期に開始。26年,トマス・モアあてのエラスムスの紹介状をたずさえて初めてロンドンに渡り,約2年滞在。この第1次ロンドン時代には,《トマス・モア》《ニコラウス・クラッツァー》などの肖像画を残す。31年,バーゼルに帰るが,美術に冷淡だった宗教改革の波に押されて仕事に恵まれず,翌年,妻子を残したまま再びロンドンに渡った。かつてホルバインをもり立てたモアは失脚していたが,モアを失脚させたヘンリー8世が代わってパトロンとして登場し,36年以後その宮廷画家として活躍。ヘンリー8世とその何人かの妻のほか,当時のイギリスの要人をモデルとした数々の肖像画は,ほとんどが正面,上半身を描いたもので,盛装したモデルは身じろぎもせず,イコン的ともいうべき不動性とおごそかさを漂わせている。この時代の彼の作品の大半は単独像であるが,2人の等身大の人物を配した《大使たち》(1533)は,肖像画としてはホルバイン最大の作品でまた代表傑作。ロンドンで没。ホルバインの作品は,終始一貫した作者の冷徹な観察眼,入念な細部描写,感情表現をほとんど含まない客観的な描写などを特色とし,この傾向は初期のころからほとんど変わらない。ドイツのみならずヨーロッパ絵画史上最大の肖像画家の一人で,その後のイギリスの肖像画の伝統の基礎をすえた意義も少なくない。
執筆者:千足 伸行
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15、6世紀に活躍したドイツ(アウクスブルク)の画家一族だが、とくに同名の父と子が有名である。(1)父ハンス・ホルバインHans Holbein der Ältere(1465ころ―1524)
アウクスブルクで生まれ、アルザスのイーゼンハイムで死去した。彼は当代のネーデルラント絵画(ワイデン、メムリンク)およびイタリア・ルネサンスの影響を受けて1494年以降主として生地で活躍。1501年フランクフルト・アム・マイン、17~19年スイスのルツェルンに足跡を残している。大祭壇画、板絵、肖像画、銀筆によるデッサンおよびステンドグラスのための下絵が彼の制作分野であるが、新時代の影響を受けながらもドイツ後期ゴシックの伝統を守って、輪郭線の明瞭(めいりょう)な形象と、対象の細密描写、および落ち着いた色調による彩色を追求した。代表作に『カイスハイムの祭壇画』(1502・ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)、『セバスチャン祭壇画』(1516・同上)がある。理想主義を加味した彼の細密描写は息子ハンスの肖像芸術を先取している。助手をつとめたジークムントSigmund H.(1475ころ―1540)は弟。(2)子ハンス・ホルバインHans Holbein der Jüngere(1497/98―1543) ハンス・ホルバイン(父)の次子。アウクスブルクに生まれる。父について絵を学び、のちハンス・ブルクマイアの感化を受けた。1515~26年バーゼルに滞在、この間にイタリア北部およびフランスを旅行し、またバーゼルの有力な出版者ヨハン・フローベンの紹介で人文学者エラスムスやその友人でイギリスの政治家トマス・モアを知り、2人の肖像画を描いた。その知遇を得て26年から2年間ロンドンで制作。28~32年ふたたびバーゼルに住んだが、その後ロンドンに渡り、36年以後はヘンリー8世の宮廷画家となって同地で生涯を終えた。
彼はデューラーに次ぐルネサンス的な教養人で、画業ではとくに肖像画に優れた。初期の作品『死せるキリスト』(バーゼル美術館)でみせた透徹した写実の眼光と卓抜な性格描写の手腕とを発揮して、『市長マイアーのマドンナ』(ダルムシュタット王宮)、『ロッテルダムのエラスムス』(ルーブル美術館)、『使節たち』(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)、『ヘンリー8世』(ローマ国立美術館)などの傑作を生んだ。また58点の木版画『死の舞踏』も名高い。なお彼の夭折(ようせつ)した兄アンブロジウスAmbrosius H.(1494―1519ころ)も画家で、木版画の下絵、銀筆とペンのデッサンを多数残している。
[野村太郎]
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1497~1543
ドイツの画家。同名の父と並んでルネサンス期の巨匠。初めバーゼル,のちロンドンで活躍し,ヘンリ8世やエラスムスの肖像画などのほか宗教的な版画でも知られる。
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…また外来芸術家の活躍が,イギリスの場合には特に18世紀以前の,国家間の人的交流がそれほど盛んでなかった時代に目だっている。特に線画の領域では16世紀のH.ホルバイン(ドイツ),17世紀のファン・デイク(フランドル)らの存在を抜きにして,それ以降のイギリス絵画の展開は考えられない。 このようなイギリス美術の歴史的特質の背景には,イギリスの宗教事情も多分にからんでいる。…
…一方南ドイツのモーザーLukas Moser(1390ころ‐?)やウィッツやムルチャーHans Multscher(1400ころ‐67)には忠実な自然の観察がみられ,新時代到来の間近さを感じさせる。しかし15世紀後半のドイツ絵画で大きな役割を演じたのは,プライデンウルフHans Pleydenwurf(?‐1472),ウォルゲムートMichael Wolgemut(1434‐1519),ションガウアー,ホルバイン(父),パッヒャーらであり,彼らはネーデルラント絵画や北イタリア絵画の直接間接の影響を受けた作品を創造し,デューラーの登場を準備した。ゴシック美術
【ルネサンス】
古代世界を再生させることを目標としたルネサンスは,直接古代を知らない北方,なかんずくドイツにおのずからイタリアとは異なる様相をもたらし,加えて宗教改革運動がドイツ固有の問題として,この期の社会を大きく揺り動かした。…
※「ホルバイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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