室町幕府11代将軍。院号法住院。堀越公方足利政知の子。伊豆に出生。1491年(延徳3)上洛して天竜寺塔頭(たつちゆう)香厳院の喝食(かつしき)となる。93年(明応2)4月,細川政元のクーデタによって将軍義稙(よしたね)(義材(よしき))が廃立されたとき,将軍跡目に嗣立されて還俗,従五位下に任官し,初め義遐(よしとお)のち義高,義澄と改名した。94年左馬頭,征夷大将軍に就任したが,実権はまったく政元が掌握し,典型的なかいらいであった。彼の治世は北陸,中国など遠国の大名が離反し,幕府の威令は畿内近国にしか及ばず,一般に戦国時代の始まりといわれる。1507年(永正4)政元が暗殺されるに及んで幕政は混乱に陥り,翌年には周防に亡命中の前将軍義材が大内義興に擁せられて上洛したため,近江に逃亡,将軍位を剝奪された。土豪九里(くのり)氏を頼って岡山城に籠城中に病死。12代将軍義晴は彼の次男。
執筆者:今谷 明
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室町幕府第11代将軍。文明(ぶんめい)12年12月15日生まれ。堀越公方(ほりこしくぼう)足利政知(まさとも)の子。元来、将軍位継承の地位になく、初め天竜寺喝食(かつじき)として塔頭(たっちゅう)香厳院に入寺し、清晃(せいこう)と称す。還俗(げんぞく)後、初名義遐(よしとお)、ついで義高(よしたか)、1502年(文亀2)より義澄を名のる。将軍義稙(よしたね)が第二次六角(ろっかく)征伐や河内(かわち)(大阪府)出陣を起こし、管領(かんれい)細川政元(まさもと)と対立したため、1493年(明応2)政元のクーデターにより将軍に擁立された。しかし実権はほとんどなく、細川氏による幕府政治の専制化が進み、義澄の威令は畿内(きない)近国にしか及ばなかった。1508年(永正5)細川氏の内紛と義稙の上洛(じょうらく)により京都を追われ、将軍位を剥奪(はくだつ)された。永正(えいしょう)8年8月14日近江(おうみ)(滋賀県)岡山で死去。
[今谷 明]
1480.12.15~1511.8.14
室町幕府の11代将軍(1494.12.27~1508.4.16)。堀越公方(ほりごえくぼう)政知の次子。母は武者小路隆光の女。法名法住院旭山清晃。従三位参議・贈従一位太政大臣。1487年(長享元)上洛し,天竜寺香厳院の喝食(かっしき)となり清晃(せいこう)と称する。上洛前後から細川政元との連携がうわさされ,93年(明応2)将軍足利義稙(よしたね)の河内出陣中,政元は京都で清晃を擁立して義稙を廃した。清晃は還俗して義遐(よしとお),ついで義高と改名。翌年征夷大将軍に任じられる。1502年(文亀2)義澄と改名。08年(永正5)前将軍義稙が大内義興に奉じられて京都に迫ると,九里(くのり)氏を頼って近江国岡山城にのがれた。子義晴・義維(よしつな)を赤松義村に託し,同城で没した。
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(今谷明)
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