足利義澄(読み)アシカガヨシズミ

デジタル大辞泉 「足利義澄」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしずみ【足利義澄】

[1481~1511]室町幕府第11代将軍在職1495~1508。足利政知まさともの子で、義政養子細川政元擁立されて将軍となったが、永正5年(1508)前将軍義稙よしたね将軍職を追われた。
[補説]6歳で出家し清晃せいこうと名乗る。明応2年(1493)に還俗げんぞくして義遐よしとお同年義高よしたか、文亀2年(1502)に義澄と改名している。

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精選版 日本国語大辞典 「足利義澄」の意味・読み・例文・類語

あしかが‐よしずみ【足利義澄】

  1. 室町幕府第一一代将軍。政知の子。初名義遐(よしとお)、義高。はじめ、天龍寺香厳院主。明応三年(一四九四)細川政元に擁されて還俗し、将軍となる。永正五年(一五〇八近江に追われた。文明一二~永正八年(一四八〇‐一五一一

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改訂新版 世界大百科事典 「足利義澄」の意味・わかりやすい解説

足利義澄 (あしかがよしずみ)
生没年:1480-1511(文明12-永正8)

室町幕府11代将軍。院号法住院。堀越公方足利政知の子。伊豆出生。1491年(延徳3)上洛して天竜寺塔頭(たつちゆう)香厳院の喝食(かつしき)となる。93年(明応2)4月,細川政元クーデタによって将軍義稙(よしたね)(義材(よしき))が廃立されたとき,将軍跡目に嗣立されて還俗,従五位下に任官し,初め義遐(よしとお)のち義高,義澄と改名した。94年左馬頭,征夷大将軍に就任したが,実権はまったく政元が掌握し,典型的なかいらいであった。彼の治世は北陸,中国など遠国の大名が離反し,幕府の威令は畿内近国にしか及ばず,一般に戦国時代の始まりといわれる。1507年(永正4)政元が暗殺されるに及んで幕政は混乱に陥り,翌年には周防に亡命中の前将軍義材が大内義興に擁せられて上洛したため,近江に逃亡,将軍位を剝奪された。土豪九里(くのり)氏を頼って岡山城に籠城中に病死。12代将軍義晴は彼の次男
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百科事典マイペディア 「足利義澄」の意味・わかりやすい解説

足利義澄【あしかがよしずみ】

室町幕府11代将軍。堀越公方足利政知の子。1491年京都天竜寺塔頭(たっちゅう)香厳院の喝食(かっしき)となり,清晃と称した。1493年細川政元はクーデタにより将軍足利義稙(よしたね)(義材(よしき))を廃し,清晃を将軍に擁立。清晃は還俗して初め義遐(よしとお),のち義高と改名,1502年以後は義澄を名乗った。1494年征夷大将軍に就任したが,実権は政元が掌握した。1507年政元が暗殺されると,周防に亡命していた義材が大内氏に擁せられて上洛,義澄は将軍位を剥奪された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「足利義澄」の意味・わかりやすい解説

足利義澄
あしかがよしずみ
(1480―1511)

室町幕府第11代将軍。文明(ぶんめい)12年12月15日生まれ。堀越公方(ほりこしくぼう)足利政知(まさとも)の子。元来、将軍位継承の地位になく、初め天竜寺喝食(かつじき)として塔頭(たっちゅう)香厳院に入寺し、清晃(せいこう)と称す。還俗(げんぞく)後、初名義遐(よしとお)、ついで義高(よしたか)、1502年(文亀2)より義澄を名のる。将軍義稙(よしたね)が第二次六角(ろっかく)征伐や河内(かわち)(大阪府)出陣を起こし、管領(かんれい)細川政元(まさもと)と対立したため、1493年(明応2)政元のクーデターにより将軍に擁立された。しかし実権はほとんどなく、細川氏による幕府政治の専制化が進み、義澄の威令は畿内(きない)近国にしか及ばなかった。1508年(永正5)細川氏の内紛と義稙の上洛(じょうらく)により京都を追われ、将軍位を剥奪(はくだつ)された。永正(えいしょう)8年8月14日近江(おうみ)(滋賀県)岡山で死去。

[今谷 明]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「足利義澄」の解説

足利義澄
あしかがよしずみ

1480.12.15~1511.8.14

室町幕府の11代将軍(1494.12.27~1508.4.16)。堀越公方(ほりごえくぼう)政知の次子。母は武者小路隆光の女。法名法住院旭山清晃。従三位参議・贈従一位太政大臣。1487年(長享元)上洛し,天竜寺香厳院の喝食(かっしき)となり清晃(せいこう)と称する。上洛前後から細川政元との連携がうわさされ,93年(明応2)将軍足利義稙(よしたね)の河内出陣中,政元は京都で清晃を擁立して義稙を廃した。清晃は還俗して義遐(よしとお),ついで義高と改名。翌年征夷大将軍に任じられる。1502年(文亀2)義澄と改名。08年(永正5)前将軍義稙が大内義興に奉じられて京都に迫ると,九里(くのり)氏を頼って近江国岡山城にのがれた。子義晴・義維(よしつな)を赤松義村に託し,同城で没した。

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朝日日本歴史人物事典 「足利義澄」の解説

足利義澄

没年:永正8.8.14(1511.9.6)
生年:文明12.12.15(1481.1.15)
室町幕府第11代将軍。堀越公方足利政知の次男として伊豆に生まれる。母は武者小路隆光の娘。はじめ天竜寺香厳院の喝食として清晃と称したが,明応2(1493)年3月,将軍足利義稙が親裁権の強化を目指して河内出陣を強行したことから細川政元はクーデタによって義稙を廃立(明応の政変),清晃が足利家督に擁立された。直ちに還俗して義遐(義高,義澄)と改名し,翌年末将軍に任官した。しかし義澄は幕政を壟断する政元の傀儡に過ぎず,永正4(1507)年6月に政元が暗殺されると幕政は混乱,翌年義稙の再入洛により近江に逃亡した。3年後,近江九里城で病死。細川氏の専制,つまり戦国大名化により圧迫された悲劇の将軍といえる。

(今谷明)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義澄」の解説

足利義澄 あしかが-よしずみ

1481*-1511 室町幕府11代将軍。在職1495*-1508。
文明12年12月15日生まれ。足利政知(まさとも)の次男。10代将軍足利義稙(よしたね)が細川政元の反乱により追放されると,還俗(げんぞく)して明応3年将軍となる。永正(えいしょう)4年政元が暗殺され,5年義稙が援軍とともに京都にせまると,近江(おうみ)にのがれた。永正8年8月14日死去。32歳。伊豆(いず)出身。初名は義遐(よしとお),のち義高。法名は清晃。法号は法住院。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義澄」の意味・わかりやすい解説

足利義澄
あしかがよしずみ

[生]文明12(1480).伊豆,堀越
[没]永正8(1511).8.14. 近江,岡山
室町幕府 11代将軍 (在職 1494~1508) 。政知の子。初め天竜寺香厳院主清晃,還俗して義遐 (よしとお) ,義高,義澄と改名。細川政元に擁立されて将軍となったが,前将軍足利義稙と対立,近江に逃れて永正5 (08) 年将軍職を退いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「足利義澄」の解説

足利義澄
あしかがよしずみ

1480〜1511
室町幕府11代将軍(在職1494〜1508)
堀越公方足利政知 (まさとも) の子。義教 (よしのり) の孫で義政の養子。1494年細川政元に擁せられ将軍義稙 (よしたね) に代わって将軍となったが,1508年前将軍義稙,大内義興 (よしおき) が入京すると近江に追われ将軍職を退いた。

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367日誕生日大事典 「足利義澄」の解説

足利義澄 (あしかがよしずみ)

生年月日:1480年12月15日
戦国時代の室町幕府第11代の将軍
1511年没

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