中馬場村(読み)なかばんばむら

日本歴史地名大系 「中馬場村」の解説

中馬場村
なかばんばむら

[現在地名]富山市水橋中馬場みずはしなかばんば

白岩しらいわ川右岸沿いの平地で、北東は北馬場村。村名の由来は、戦国期の初め当地の豪族細川宗十郎がここに馬場をつくったことによる(水橋町郷土史)。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高二五〇石・免四ツ八歩、小物成は鮭役二二匁・鱒役三匁。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では新たに鮎川役一匁が加わっている(三箇国高物成帳)。嘉永四年(一八五一)まで草高・免に変化はない(「上条組高免定納等手帳」杉木家文書)。所属組は伊勢屋いせや村と同じ。嘉永四年の家数一四・人数五六、耕作馬二(前掲手帳)。安政六年(一八五九)には綿打商一軒があった(「諸商売書上」同文書)

浄土真宗本願寺派光円こうえん寺は明応三年(一四九四)西願の創建と伝える(貞享二年寺社由緒書上)


中馬場村
なかばんばむら

[現在地名]八潮市中馬場・中央ちゆうおう・八潮

古綾瀬ふるあやせ川の氾濫原の沖積地に位置し、北は上馬場村。慶長八年(一六〇三)代官頭伊奈忠次が「中はんは」に出した年貢割付状(石井家文書)によると、田一三町八反余・畑屋敷一五町六反余(うち屋敷七反余)、年貢は米六六石余・永四貫一二文。寛永四年(一六二七)幕府領のうち一部が旗本幸田孫助に、寛文二年(一六六二)にはさらに一部が旗本森川下総守に宛行われ、下総守知行分のうちの一部は同一一年分家の森川主水に分地された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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