八幡社(読み)はちまんしや

日本歴史地名大系 「八幡社」の解説

八幡社
はちまんしや

[現在地名]耶馬渓町平田

宮の馬場みやのばばにあり、城井きい八幡社と通称される。祭神は応神天皇・比大神・神功皇后仁徳天皇・高神。旧郷社。縁起によれば、建久九年(一一九八)野仲二郎重房が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し、津民つたみ友枝ともえだと三社に分けたという。「豊前志」は建久六年成恒(相良)近江守頼俊が勧請したとする。弘治四年(一五五八)の某覚書(到津文書)に「三月廿三日、下毛郡ママ井之若宮祝子在狂女、三ノ御杖人宮内所へ狂来、宮事を申、其内にも不思儀事トモを申、御侘申ママ言申也、同四月一日、西郡様送遣也、去応永年中にも如此狂女参、御造営共有、可目出事トモカ人申也」とあり、また「四月十三日、彼狂女又来、三ノ御杖人所へ居候て、種々御侘を申、十方人々参候、参銭花米多候」とみえ、「岐井若宮」の狂女が宇佐宮で瑞祥として扱われている。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]豊後高田市真中 中村

宮田みやたにある。田染元宮たしぶもとみや八幡社と称し、田染三社八幡の一宮で田染地域の総社であった。二宮は間戸まど村の間戸明神、三宮は上野うえの村の稲積明神。祭神は田心姫命ほか一〇柱。応神天皇が豊前国宇佐から豊後国安岐あき(現安岐町)に還幸した時に行宮が置かれた古跡という。和銅二年(七〇九)八幡大神が当社に降臨、そのとき金色の鷹が霊光を放って大空から岩頭に舞降りたと伝え、その岩を御鷹岩という。天平神護元年(七六五)国前郡大領栗原は新たに神殿を造営し八幡大神ならびに比神を斎き祀り一〇月八日を祭日と定めたという(田染村志)。建久八年(一一九七)一一月大友能直は一〇六貫を神領として寄進している(同書)

八幡社
はちまんしや

[現在地名]竹田市次倉

宮戸みやど集落の南の入口にあり、宮砥みやど八幡宮・宮砥荒神と通称される。祭神は応神天皇・比売大神・仲哀天皇・神功皇后など。社伝によると、創始は持統天皇八年(六九四)という。往古当地に小黒おぐろ山という山があり、麓の幽谷に鬼が住み、里人を常食して恐れられていた。やがて里人の困窮ぶりが天聴に達し、勅願により宇佐八幡神を勧請すると災厄は即座にやんだので、里人はその社を鬼原きはる神社とよび、これが神社の開基となり、宇佐姓の者が宮司になった。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]戸田市美女木七丁目

美女木びじよぎ地区の北西にある。旧村社。祭神は誉田別尊。美女木八幡社と通称される。「風土記稿」によれば、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州遠征の途中に当地で寄宿、その夜の霊夢の告げにより鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したのが当社と伝える。また現浦和市宮本の氷川女体みやもとのひかわによたい神社蔵の大般若経巻第五八九の至徳二年(一三八五)一二月一六日の奥書に「足立郡佐々目郷」の「新八幡宮」で書写したとあり、この新八幡宮が当社であるといわれる。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]瀬戸市八幡町

祭神神功皇后・品陀和気命など。旧郷社。矢形やかた町の本泉ほんせん寺蔵の文書には、貞応二年(一二二三)の創建とみえるという。「府志」「尾張志」「尾張名所図会」は当社を「延喜式」にみえる「山口神社」(実際は小口神社とみえ、山口神社ではない)、尾張国神名帳の「山口天神」ではないかとする。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]西尾市小島町 山内

矢作古やはぎふる川の東にそびえるしろ山の麓に鎮座。祭神誉田別尊。「三河国二葉松」に「小嶋村八幡並荒神社 社領三十四石五斗 神主石原半左衛門」と記す。小島八幡宛の将軍家光の朱印状(石原勝美家文書)を蔵する。

<資料は省略されています>

神明・春日かすが両社を明治四三年(一九一〇)に合祀する。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]八尾町下新町

別荘べつそう川左岸に鎮座。旧郷社。天保一四年(一八四三)の町絵図(県立図書館蔵)では下新したしん町の北西方に御宮と記される。古くは上皇太子かみこうたいし社と称され、天平年間(七二九―七四九)に金剛蔵王権現を勧請したのが始まりと伝えられる。天正四年(一五七六)当地に社殿を建立、正保二年(一六四五)聞名もんみよう寺境内にあった八尾の産土神滝谷たきたに神社を合祀し、八尾惣産土社八幡社と称されたと伝える。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]清洲町土田

北浦きたうらにある。祭神玉依姫命・息長足姫命・誉田別命、ほか合祀祭神二四神。旧郷社。元禄七年(一六九四)の由緒書(清洲町史)によれば、建久年中(一一九〇―九九)に源頼朝が石清水いわしみず八幡宮(現京都府)を勧請したものであるとする。慶長一一年(一六〇六)清須きよす城主松平忠吉が本殿・拝殿などを再興し三〇石の社領を寄進、以後の藩主も黒印領として安堵した。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]春日村下之郷 富士塚

祭神応神天皇。旧村社。鎮座年代は不詳であるが、天文一七年(一五四八)の棟札を蔵する(春日村史)。天正一八年(一五九〇)朝日姫(豊臣秀吉妹、徳川家康室)の本居の神ということで、本社・摂社神明社・天王社が再営され、慶長一一年(一六〇六、西春日井郡誌は同一〇年とする)松平忠吉が重ねて修造し、初穂米として一石を寄進。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]吉良町小山田 東山

小山田おやまだの北、幡豆山地の南斜面に鎮座。誉田別尊・綿津見神を祀る。伝説によると、吉良上野介義央が夫人富子の難病治癒を七面天女に祈り、霊験により全快したため、誓いにより元禄元年(一六八八)富好とみよし新田を築き、翌年七面天女を祀る。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]豊橋市杉山町

御園みそのにある。祭神応神天皇ほか二二柱。由緒書によると、元久二年(一二〇五)の創立で、杉山すぎやま郷七村の総氏神という。杉山御園(御厨)に奉祀された神社か。朱印社領三石。祭神のうちに、長慶ちようけい寺の開基と伝える弘仁太子がある。太子は貞応元年(一二二二)九月一五日の没といい、当社境内にその遺跡と伝える所がある。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]西尾市寺津町 西市場

国道二四七号に沿い、その西側に鎮座。誉田別尊・徳川家康を祀る。一名大川おおかわ神社と称し、建久年間(一一九〇―九九)大河内顕綱の創建と推定される。顕綱は家伝の守刀を寄進し、五代の孫教綱は暦応二年(一三三九)五月、鏡を奉献した。寛永九年(一六三二)領主大河内正久が社殿を改築した際、徳川家康を合祀。歴代大河内松平氏の鎮守の神。各地に鎮座していた神社を多く境内に移し、末社とする。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]中区正木二丁目

古渡ふるわたり橋の東に位置する。祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇。旧郷社。若宮わかみや八幡・闇森くらがりのもり八幡ともいう。創祀は不明だが、永正一八年(一五二一)の棟札(「名古屋市史」社寺編)には、鶴見道観らの造営とある。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]日進町折戸 寺脇

祭神は誉田別尊。丹羽氏の氏神で、折戸おりど城主丹羽氏従が文明三年(一四七一)城内に創建したと伝えられる。永禄元年(一五五八)氏清のときに社殿を改造、また天文二二年(一五五三)猿投さなげ神社に黒印を求めて奉納したといわれる(日進村誌)

八幡社
はちまんしや

[現在地名]南箕輪村字八幡

伊那往還南殿みなみどのの西方松林の中に鎮座。創立年月不詳。祭神応神天皇。口碑に「承平二年、多田満仲当国戸隠山の邪神を討伐のため下向。然るに邪神猛烈にして制するあたはず。よつて石清水八幡宮に祈願するに赫々たる威霊あり、忽ち邪神を湮滅す。よつて満仲その徳に報ぜんが為、石清水八幡宮を移し祭る」とある。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]小牧市村中 洞木

祭神は応神天皇。旧村社。「徇行記」所収の藤太夫書上によると、貞観一三年(八七一)の創建。山城国石清水いわしみず八幡を勧請したもので、往古は小牧村の産神であった。その後、小牧村から村中むらなか村が分離独立、永禄六年(一五六三)織田信長小牧山に築城した時、家臣の池田信輝は信長に従って山中に住み翌七年、輝政が生れたので、八幡社を池田家の産土神と定めた。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]西尾市熱池町 落

県道上横須賀―楠村線の南、熱池にいけ集落の外れに鎮座。誉田別尊を祀る。清和天皇の大嘗祭悠紀斎田と結び付けられるが、すでに野々宮ののみやがその地とされているのは、往昔は野々宮・斎藤さいとう・熱池などは一帯の集落であったとも考えられる。

八幡社
はちまんしや

[現在地名]豊橋市大崎町

祭神は八幡大神・天照大神・伊佐波止美命。創立年代不詳。天文一〇年(一五四一)銘の棟札に「奉八幡宮(ママ)立 願主 戸田三郎右兵衛尉宣成(花押)」とあるので、この頃の創立か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報