出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
乗馬,馬術の練習および馬術競技や競馬を行う場所。古代には端午の節会に天皇が騎射を観覧した馬場が朝廷の武徳殿の前にあり,近衛府,兵衛府にも調練のための馬場があった。古代には国家の軍馬供給を目的とする牧が各地にあったが,これを基盤に古代末から中世にかけて東国を中心に勢力を伸ばした武士は,その軍事力の基礎を騎馬と弓射においた。各地に残る馬場という名には,この牧に由来するものもあると考えられる。また中世武士団の拠点となる広大な豪族の館の中にも必ず馬場があり,戦闘の際の馬揃(うまぞろえ)(勢汰(せいぞろえ))もここで行われた。騎射は犬追物(いぬおうもの),流鏑馬(やぶさめ),笠懸(かさがけ)などの形で中世武士にうけつがれ,そのための馬場も作られている。神社などでも祭礼に際して臨時の馬場が設けられることが多かった。武士が集住させられた各地の近世城下町においては,城内および城外に馬場が必ず置かれた。江戸では城内の吹上御庭に,城下にも神田,馬喰町,木挽町,溜池,十番,高田,小日向,小石川,浅草,本所などにあったことが知られる。これらの馬場は土塁および垣(埒(らち)という)で囲われ,長さが100間ほどあるのに幅は10間ほどという細長い形が多いが,これは馬を一直線に走らせて弓矢を射る流鏑馬,笠懸のような競技が多かったためである。〈初音の馬場〉と呼ばれた馬喰町馬場は,関ヶ原の戦の馬揃を行ったという伝えのある古くからの馬場で,明暦大火(1657)後に縮小された。それでも天和年中(1681-84)までは流鏑馬のできる2町(120間)の長さがあった。しかし都市の稠密化でしだいに縮小され,幕末には半分以下の長さになっている。現在も地名として残っている高田馬場は寛永期(1624-44)に設けられたものである。中山安兵衛の仇討で知られるが,享保期(1716-36)には8代将軍吉宗が流鏑馬を盛大に行ったことでも有名である。また享保期,火災焼失後の明地に作られた木挽町(現在の東銀座付近)の采女ヶ原(うねめがはら)馬場は,地の利がよかったことから,馬場周辺が歓楽地としておおいに発展した。
執筆者:玉井 哲雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
馬術の練習や競技を行う場所。古代には朝廷の武徳殿の前にあり,端午の節会には走馬(はしりうま)の儀式が行われた。近衛府・兵衛府にもあった。古代末~中世に武士の戦闘は騎馬と弓射を基本としたため,犬追物(いぬおうもの)・流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)などのための馬場が各所に作られた。近世には城下町の城内・城外に作られた。江戸の馬場としては城内の吹上御庭,城下の神田・馬喰町・木挽町・高田などが有名。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…ニセコアンヌプリ(1309m)の南西麓,標高560mの高原にあり,ニセコ温泉郷に含まれる。かつて馬場温泉とよばれた湯場であったが,1885年小屋が建てられ,1937年に湯本温泉と改称した。源泉は近くの大湯沼の底からわく間欠泉である。…
…石灰窒素(シアン化カルシウムと炭素の混合物)法が工業化され(1905),チリ硝石(天然硝酸ナトリウム)の枯渇に備えるなどの動きがあったころである。F.ハーバーは1909年ついに,空気中の窒素を原料に,触媒を用いてアンモニアの連続合成実験に成功した。彼はアンモニア合成反応が平衡上高圧であるほど有利になることをよく認識していた。…
※「馬場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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