朝日日本歴史人物事典 「二条持通」の解説
二条持通
生年:応永23(1416)
室町時代の公家。父は二条持基。永享2(1430)年従三位。文安3(1446)年右大臣を経て,2度関白に就いたのち太政大臣に転じ,寛正4(1463)年3度目の関白に就任。足利義政に接近を図り,寛正3年息子を義政の猶子とし,大乗院(門跡寺院)へ送った。大乗院には九条・一条両家から入るのが通例であったため,一条兼良による異議もあったが,大乗院門跡経覚の意見により入室,法名を政覚と称す。これは義政から諱の1字をもらったものであるが,持通はその斡旋を日野勝光に求めている。さらに持通は,文明15(1483)年政覚の興福寺別当宣下の執奏を義政に請うてもいる。しかし生活には衰退の兆しがあり,若狭高浜に二条家領があったことから文明17年,70歳の高齢をおして若狭,越前に下る。帰京後の延徳1(1489)年,准三后宣下。のち出家し,大染金剛院と号した。<参考文献>鈴木良一『大乗院寺社雑事記』
(湯川敏治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報