コロンブス(読み)ころんぶす(英語表記)Christopher Columbus 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コロンブス」の意味・わかりやすい解説

コロンブス
ころんぶす
Christopher Columbus 英語
Cristóbal Colón スペイン語
Christoforo Colombo イタリア語
(1451―1506)

スペイン語名クリストバル・コロン、イタリア語名クリストフォロ・コロンボ。イタリアのジェノバ生まれといわれる航海者、新大陸の「発見」者。生年月日は明確ではないが、1451年の8月26日から10月末日までの間に生まれたと推定される。

[飯塚一郎]

「計画」の実現まで

彼は、10代の終わりころには毛織物業者の父ドメニコの家業を手伝って織物やワインの売買で地中海を航海し、20代後半には頼まれてマデイラ島へ砂糖買付けのために出向いたこともあったらしい。1476年ポルトガル南西端サン・ビセンテ岬沖で、彼の船が海賊に襲われて沈没、板切れ一枚で陸に泳ぎ着き、ラゴスを経てジェノバ商人の居住区を頼ってリズボアリスボン)へ行ったといわれる。彼はこの前後までの間に、マルコ・ポーロの『旅行記』、プトレマイオスの『コスモグラフィア』(宇宙誌)、ピエール・ダイイの『イマゴ・ムンディ』(世界の姿)、トスカネッリの手紙などを読み、西航して東洋(カタイ、ジパング)へ達することに確信を得たと考えられる。1479年フェリーパ・ペレストレロという上流階級の娘と結婚、翌年一子ディエゴが生まれた。1483年か84年に、彼は西航して東洋に達する「計画」をポルトガル王ジョアン2世に請願したようであるが、審議した「数学者委員会」(探検航海を審議する)はこれを否決。彼はついにスペイン国王に請願する決心をして、1485年夏ごろディエゴを連れスペインのパロス港へやってきた。このとき妻フェリーパはすでにこの世になかったようである。パロスのサンタ・マリア・デ・ラ・ラビーダ修道院長マルチェーナ神父の計らいで1486年1月イサベル女王に初めて謁見、「計画」遂行の援助を請願。これは「特別審査委員会」にかけられ審査されたが、容易に結論が出なかった。結局グラナダ陥落の直後、「計画」は女王の援助で許可されることになった(サンタ・フェの協約、1492年4月)。

[飯塚一郎]

第1回航海

1492年8月3日早朝、コロンブス座乗のサンタ・マリア号のほか、ニーニャ号、ピンタ号の3隻でパロス港を出帆、カナリア諸島を経由して西航、多くの困難を克服して、10月12日未明、コロンブスがサン・サルバドル島と命名したバハマ諸島の一島を発見、上陸した。さらに付近の島々を巡航し、キューバ島、ハイチ島(イスパニョーラ島と命名)に至り、これをアジアの一部と判断し、ここに39人(ないし43人)を植民させて帰航の途についた(1493年1月)。彼は1493年3月13日リスボア(リスボン)、15日パロスへ帰港。彼の一行のなかに現地の珍奇な物産に加え、6人(あるいは7人)のインディオがいた。

[飯塚一郎]

第2回航海

第1回航海の報告を聞いたイサベル、夫のフェルナンド両王はただちに第2回航海を促し、17隻の船団に約1500人が加わり、1493年9月25日カディスを出帆、カナリア諸島から前回より南に進路をとり、小アンティル諸島中の一島に到達、ドミニカ島と命名、11月にはハイチ島に至った。前回残してきた植民者は全滅したが、その後モンテ・クリスティ湾の近くに植民地を再建し、イサベラと命名した。さらに金鉱と東洋への道を求めて探検したが、めぼしい発見ができず、1494年6月東方へ引き返し、9月末イサベラに帰着してみると、植民地は乱脈を極め、植民者相互の不和反目が著しかった。本国から弟バルトロメオがハイチにきており、コロンブスは彼を副総督として同島に残し、1496年3月2隻の船に225人とインディオ30人を乗せて帰国の途についた。

[飯塚一郎]

第3回航海

かなりの困難を経て、1498年5月末、6隻の船団でサンルーカルを出港、7月末日、小アンティル最南端の島を発見、トリニダー(トリニダード)Trinidadと命名した。しかし第3回航海では、本国および植民地でのコロンブスに対する嫉妬(しっと)反感、悪宣伝のため、ついにはイスパニョーラ島のサント・ドミンゴで捕らえられて監禁され、1500年10月本国へ送還された。本国につくと、やがて両王の彼に対する嫌疑は晴れたが、実際には彼の地位は回復されなかった。

[飯塚一郎]

第4回航海

最後の航海は失意のうちに企てられ、1502年5月9日4隻の船隊でカディスを出港したが、1504年11月7日サンルーカルに帰着するまでたびたびの暴風雨で乗船が破損するなど苦難の連続であり、ハイチ総督オバンドに救助を求めたことさえあった。

 彼の晩年は栄光から見放され、病躯(びょうく)をセビーリャの船員宿舎に横たえるが、訪れる人もなかった。イサベル女王は1504年11月26日この世を去り、コロンブスはフェルナンド国王を追ってバリャドリードまで行き、植民地当局の不正と損害賠償を訴えたが、無駄に終わった。彼は失意のうちに1506年5月20日この世を去った。

[飯塚一郎]

『『大航海時代叢書第一巻 航海の記録』(1965・岩波書店)』『ローベルト・グリューン著、尾鍋輝彦・原田節子訳『コロンブス航海記1492年』(1971・講談社)』『青木康征編・訳『コロンブス』(1978・平凡社)』『カール・ベルリンデン著、今野一雄訳『コロンブス』(白水社・文庫クセジュ)』『増田義郎著『コロンブス』(岩波新書)』『バルトロメー・デ・ラス・カサス著、林屋永吉訳『コロンブス航海誌』(岩波文庫)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コロンブス」の意味・わかりやすい解説

コロンブス
Columbus, Christopher

[生]1451? ジェノバ
[没]1506.5.20. バリャドリド
イタリア生れの航海者。新大陸の発見者として知られる。スペイン名クリストバル・コロン Cristobal Colón。署名はコロンボ,コロモ,コロム,コロンなどと次々に変えたが,コロンブスという綴りはラテン語で書くときも使用していない。ジェノバ商人の息子として地中海商船の業務に従事,のちポルトガルに移住。地理学者 P.トスカネリの説に触発され,西回りの航路でインドに到達する計画を立て,スペイン女王イサベル1世の後援を得て 1492年8月,3隻 (『サンタ・マリア』『ピンタ』『ニーニャ』) の船でパロスを出港。『サンタ・マリア』号は,コロンブスが指揮をとり,他の2隻は M.ピンソン,V.ピンソンの兄弟が指揮をとった。 10月7日 V.ピンソンの助言に従って航路を変更,同月 12日現在のバハマ諸島の一つ,グアナハニ島に到着,これをサンサルバドル島と名づけた。 93~95年の第2回航海でドミニカ,ジャマイカに到達,98~1500年の第3回目にはトリニダードに到達した。第4回目の航海を試みたが,役人との衝突や先住民の反抗などで計画は思うにまかせず,晩年は失意の生活をおくり,自分が到達した地をインドの一部であると信じたまま没した。なお,死亡した日を5月 21日とする説もある。

コロンブス
Columbus, Diego

[生]1479/1480. マデイラ諸島,ポルトサント島
[没]1526.2.23. モンタルバン
クリストファー・コロンブスの長男。 1485年父とともにスペインにおもむき,カトリック夫婦王 (イサベル1世,フェルナンド2世) の王子ドン・フアンに仕える。父の死後,父と女王イサベル1世との間に結ばれた契約に基づき,西インド総督に任命されてサントドミンゴに渡る (1509) 。しかし,彼の権利を父が到達した諸島に限定しようとする国王顧問会議に反抗して「新大陸」全域の権利を求め,最終的決着をみずに没した。

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