上杉禅秀の乱(読み)うえすぎぜんしゅうのらん

改訂新版 世界大百科事典 「上杉禅秀の乱」の意味・わかりやすい解説

上杉禅秀の乱 (うえすぎぜんしゅうのらん)

1416年(応永23)10月より翌年1月まで,上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に反して起こした室町時代前期の内乱。1416年10月前管領上杉氏憲は持氏の叔父満隆を奉じて持氏邸を夜襲した。持氏は管領上杉憲基邸に逃れ,氏憲の来攻によりさらに小田原を経て駿河に逃れた。氏憲に与同した諸氏は氏憲一門,氏憲と姻戚関係を結んでいた千葉兼胤岩松満純,武田信満らの東国の伝統的豪族層,鎌倉府に不満を持つ足利満直,山入与義,小田持家らの有力領主層,関東から奥羽にかけての中小国人層などであった。さらに重大なことは将軍足利義持の弟義嗣が氏憲と気脈を通じ,将軍の座をねらっていたことである。当初は禅秀の乱を対岸の火災視していた幕府も事の重大性に気づき,京都を逐電して高雄に逃れた義嗣を捕らえて拘禁するとともに,駿河守護今川範政越後守護上杉房方に命じて持氏援軍を関東に進撃させた。このため形勢は逆転し,持氏・憲基が鎌倉に攻め込み,翌年1月禅秀を破った。禅秀は鎌倉雪ノ下で自害し,禅秀与党も討伐されたが,その過程で持氏は京都扶持衆をも討とうとしたので,幕府との間に対立が深まり,永享の乱の要因となっていった。禅秀の乱の直接的原因は第1に山内(やまのうち)上杉氏(憲基)と犬懸(いぬかけ)上杉氏(氏憲)の対立があげられる。相互に関東管領職を競望していたが,乱の前年犬懸上杉氏の家人越幡(おばた)六郎の所領が没収され氏憲は抗議のため管領を辞任,代わって憲基が管領に就任した。第2に持氏と叔父の満隆との間が不和であり,満隆が鎌倉公方への野心を持っていたこと。第3に足利義嗣が将軍への野望を抑えきれず,各地の反幕府分子と手を結んでいたことなどであり,鎌倉府成立後における幕府と鎌倉府の反目も微妙に影響していた。また惣領制の解体や国人一揆の形成など,東国の社会的変化も見逃すことのできない原因の一つといえよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉禅秀の乱」の意味・わかりやすい解説

上杉禅秀の乱
うえすぎぜんしゅうのらん

1416年(応永23)から翌年にかけて上杉氏憲(うじのり)(法名禅秀)が鎌倉公方(くぼう)足利持氏(あしかがもちうじ)に対して起こした乱。禅秀(犬懸(いぬがけ)家)は上杉憲定(のりさだ)の後を受け、関東管領(かんれい)に就任したが、家人の越幡(おばた)氏が持氏に処分され所領を没収されたという問題で持氏と対立して辞職、持氏が、後任に勢力を競っている上杉憲基(のりもと)(山内(やまのうち)家)を任命したことにより、禅秀の反山内家・反持氏が公然化した。そして、将軍義持(よしもち)の弟義嗣(よしつぐ)、持氏の叔父満隆(みつたか)、さらに禅秀と姻戚(いんせき)関係にある岩松満純(いわまつみつずみ)、那須資之(なすすけゆき)、千葉兼胤(ちばかねたね)、常陸大掾(ひたちだいじょう)満幹(みつとも)、武田信満(たけだのぶみつ)や、山入与義(やまいりともよし)、小田持家(おだもちいえ)らの諸豪族、二階堂、木戸らの吏僚層、武州南一揆(いっき)などの中小氏族など、現体制に不満を有する広範な武士たちを糾合し、16年10月挙兵し持氏を襲撃した。持氏らは駿河(するが)の今川(いまがわ)氏のもとに逃れたため、禅秀らは鎌倉を占領した。しかし反乱軍の反抗を恐れた幕府が持氏への救援を決定し、越後(えちご)の上杉房方(ふさかた)、信濃(しなの)の小笠原政康(おがさわらまさやす)、駿河の今川範政(のりまさ)らに出兵を命じたことにより形勢は逆転し、また武州南一揆などの離反もあり、結局17年正月、禅秀らは鎌倉の雪ノ下別当房で自殺し、反乱は終息した。

 この乱の結果、東国の社会は混乱し、鎌倉府の支配体制も動揺し、それらの立て直しを図るため持氏による強圧的な行動が行われるが、かえって混乱は深まり、さらには幕府との関係も以前に増してうまくゆかなくなるなど、この乱は東国に新たな問題を生み出す原因をつくることとなった。

[小要 博]

『渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(1971・新人物往来社)』『神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 通史編1』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』

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百科事典マイペディア 「上杉禅秀の乱」の意味・わかりやすい解説

上杉禅秀の乱【うえすぎぜんしゅうのらん】

1416年上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に対して起こした反乱。1415年関東管領の氏憲は持氏と不和となり辞職,1416年将軍足利義持や持氏に不満の関東の豪族とともに挙兵したが,幕府の持氏支援によって敗れ,1417年自殺。
→関連項目足利義持稲村御所

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上杉禅秀の乱」の解説

上杉禅秀の乱
うえすぎぜんしゅうのらん

1416年(応永23)におこった,前関東管領犬懸(いぬかけ)上杉氏憲(禅秀)の鎌倉公方足利持氏(もちうじ)・関東管領山内(やまのうち)上杉憲基に対する反乱。乱の前年持氏が犬懸上杉氏の被官の所領を没収する事件がおき,氏憲はこれを不満として管領を辞職。さらに持氏が犬懸家の対立勢力である憲基を管領に起用したため,氏憲は持氏・憲基に対する反感を強め,持氏の叔父足利満隆を擁して同志を募り,16年10月持氏・憲基を攻めて鎌倉から追い,政権を奪取。当時京都では将軍足利義持と弟義嗣が対立していたが,氏憲らは義嗣と連絡があり,幕府はこれに対抗して持氏らの支持にまわった。幕府は駿河・越後の軍勢を派遣して持氏らを救援し,17年正月氏憲らを鎌倉に包囲,氏憲・満隆はともに自殺。本来義持と持氏の関係は良好でなく,乱後持氏が残党討伐と称して親幕府の諸氏を攻めたため,その関係はいっそう悪化した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「上杉禅秀の乱」の解説

上杉禅秀の乱
うえすぎぜんしゅうのらん

1416年,上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に対しておこした乱(〜'17)
関東管領であった禅秀は,鎌倉公方持氏と不和になり,1415年職を辞し,4代将軍足利義持に不満な弟義嗣 (よしつぐ) らとはかり翌年挙兵。関東の豪族の支援を得て持氏を襲い駿河に追ったが,幕府は駿河の今川範政に持氏を助けさせたので,'17年禅秀らは敗れ鎌倉で自殺した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉禅秀の乱」の意味・わかりやすい解説

上杉禅秀の乱
うえすぎぜんしゅうのらん

応永 23 (1416) 年 10月,犬懸上杉家の氏憲 (禅秀) が鎌倉公方足利持氏にそむいた争乱。持氏と不和で,山内上杉家の憲基の関東管領就任などに不満をもった禅秀が,室町幕府4代将軍足利義持の弟義嗣,持氏の叔父満隆らとはかって挙兵し,一時は鎌倉を掌握したが,翌年正月,満隆,禅秀は敗れて自殺。

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世界大百科事典(旧版)内の上杉禅秀の乱の言及

【鎌倉公方】より

…満兼は,1409年7月に死去し,その跡は嫡子持氏が継いだ。
[幕府との対立,滅亡]
 持氏が最初に直面したのは,16年10月の上杉禅秀の乱であった。これは,前の関東管領上杉禅秀(氏憲)が将軍義持の弟義嗣や持氏の叔父満隆らと気脈を通じておこした反乱であったが,専制的支配を強める鎌倉公方に反対する広範な諸勢力を結集しえた点で,東国における本格的な内乱のはじまりであった。…

【下野国】より

…禅秀方には,那須資之,宇都宮左衛門佐,薬師寺,佐野左馬助,小山等の諸将,持氏方には宇都宮持綱,長沼義秀らがいた。上杉禅秀の乱に勝利した足利持氏は,宇都宮,那須など将軍に直結した京都扶持衆といわれる北関東の国人層の弾圧に乗り出し,京都の改元にも従わず,幕府の直轄領足利荘を押領するなど,専制権力の確立につとめた。穏健派の関東管領上杉憲実は持氏と不和になり,38年(永享10)永享の乱が勃発した。…

※「上杉禅秀の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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