太政大臣(読み)ダイジョウダイジン

デジタル大辞泉 「太政大臣」の意味・読み・例文・類語

だいじょう‐だいじん〔ダイジヤウ‐〕【太政大臣】

律令制で、太政官の最高の官。適任者のない場合は「則ちく」として欠員とするので、則闕そっけつの官ともいう。おおきおおいもうちぎみ。おおきおとど。
だじょうだいじん(太政大臣)2

だじょう‐だいじん〔ダジヤウ‐〕【太政大臣】

だいじょうだいじん(太政大臣)1
明治新政府の職名。明治4年(1871)設置。太政官の長官で、国政を総轄し、陸・海軍を統帥した。同15年廃止。

おおいまつりごと‐の‐おおまえつぎみ〔おほいまつりごと‐おほまへつぎみ〕【太臣】

だいじょうだいじん(太政大臣)1」に同じ。

おおき‐おおいどの〔おほきおほいどの〕【太臣】

だいじょうだいじん(太政大臣)1」に同じ。

おおき‐おおいもうちぎみ〔おほきおほいまうちぎみ〕【太臣】

だいじょうだいじん(太政大臣)1」に同じ。

おおき‐おとど〔おほき‐〕【太臣】

だいじょうだいじん(太政大臣)1」に同じ。

おおまつりごと‐の‐おおまつぎみ〔おほまつりごと‐おほまつぎみ〕【太政大臣】

だいじょうだいじん(太政大臣)1」に同じ。

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精選版 日本国語大辞典 「太政大臣」の意味・読み・例文・類語

だいじょう‐だいじんダイジャウ‥【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 令制で、国政の最高機関である太政官の最高の官。国政を総裁する。左右大臣の上に位置するが、適任者がなければ則(すなわち)(か)くとされるので、これを則闕(そっけつ)の官という。おおきおとど。おおきおおとの。おおきまつりごとのおおまちぎみ。おおきおおいもうちぎみ。
    1. [初出の実例]「太政大臣一人 右師範一人。儀形四海。経邦論道。燮理陰陽。无其人則闕」(出典:令義解(718)職員)
    2. 「六波羅の入道前太政大臣(ダイジャウだいジン)(高良本ルビ)平朝臣清盛公と申し人のありさま」(出典:平家物語(13C前)一)
  3. だじょうだいじん(太政大臣)

おおき‐おおいもうちぎみおほきおほいまうちぎみ【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙 令制における太政官の最高の官。職員令によれば、「師範一人形四海」、すなわち天皇にとっても、天下にとっても範となるような人を任ずるもので、適当な人がなければ欠員とした。これを則闕(そっけつ)の官という。おおきおとど。おおきおおとの。おおいまつりごとのつかさ。おおきまつりごとのおおまちぎみ。だいじょうだいじん。
    1. [初出の実例]「おほきおほいまうちぎみときこゆるおはしけり」(出典:伊勢物語(10C前)九八)

だじょう‐だいじんダジャウ‥【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙
  2. だいじょうだいじん(太政大臣)
    1. [初出の実例]「太政官 駄譲願〈略〉太政大臣之太政之訓、尤同唱也」(出典:中家実録(1285頃か)一)
  3. 天皇の政務をとる正院にあって、天皇を補佐し、あらゆる政務を総括する最高責任者。明治四年(一八七一)七月、太政官の改組によって置かれた。現在の内閣総理大臣にあたる。勅任官。同一八年、内閣制度への移行により廃止。

おおき‐おおいどのおほきおほいどの【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)
    1. [初出の実例]「おほきおほいどのの君たち、頭弁・兵衛佐・大夫の君など」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜上)

おおき‐おとどおほき‥【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)
    1. [初出の実例]「おほきおとどの栄花のさかりにみまそかりて」(出典:伊勢物語(10C前)一〇一)

おおまつりごと‐の‐おおまえつぎみおほまつりごとおほまへつぎみ【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)〔観智院本名義抄(1241)〕

おおまつりごと‐の‐おおまつぎみおほまつりごとおほまつぎみ【太政大臣】

  1. 〘 名詞 〙おおきおおいもうちぎみ(太政大臣)〔二十巻本和名抄(934頃)〕

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百科事典マイペディア 「太政大臣」の意味・わかりやすい解説

太政大臣【だいじょうだいじん】

古代では律令官制の最高官で,太政官の筆頭長官。〈だじょうだいじん〉とも。職掌はなく,人徳によって天皇の師範となり治安が維持される。適任者がなければ設置する必要のない則闕(そっけつ)の官。7世紀末に大友皇子高市(たけち)皇子が,8世紀後半に藤原仲麻呂道鏡らが臨時に任じ,857年藤原良房以後はほぼ常置。明治時代の太政官(だじょうかん)制では天皇を補佐する最高官職。1885年廃止。
→関連項目右大臣園太暦近江朝廷久我家後法興院記西園寺公経左大臣平清盛貞信公記殿暦豊臣秀吉藤原氏藤原兼通藤原師実平治の乱

太政大臣【だじょうだいじん】

太政大臣(だいじょうだいじん)

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改訂新版 世界大百科事典 「太政大臣」の意味・わかりやすい解説

太政大臣 (だいじょうだいじん)

令制における太政官(だいじようかん)の最高の官職で,日本固有の職。和訓では〈おおまつりごとのおおまえつぎみ〉といい,唐名では(大)相国。令では唐の三師(太師,太傅,太保),三公(太尉,司徒,司空)を兼ねる重職と位置づけられ,適任者のない場合には欠員とされ,〈則闕(そつけつ)の官〉ともいわれた。その具体的な職掌は令文にも記されておらず,〈非分掌之職〉であった。初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉職的な要素が強く,贈官が原則であった。857年(天安1)2月に藤原良房が人臣最初の太政大臣に任ぜられたのち,884年(元慶8)5月に光孝天皇はその職掌等について諸道博士等に諮問し,若干の意見の相違もあったが,基本点では格別に職掌とすべきもののない官という理解が多数をしめた。したがって以降も関白,摂政,内覧(ないらん)などの宣旨を別にうけないかぎり,太政大臣そのものでは実権のない官職として生きつづけた。

 明治時代に入って設置された太政官(だじようかん)においては,1871年(明治4)の官制改革で三条実美が太政大臣(だじようだいじん)となったが,85年に内閣制度ができて,太政大臣は廃された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「太政大臣」の意味・わかりやすい解説

太政大臣(だいじょうだいじん)
だいじょうだいじん

太政官の最高の官職で、日本独自の官。和訓ではオオマツリゴトノオオマエツギミといい、唐名では(大)相国(しょうこく)。令(りょう)では唐の三師(太師、太傅(たいふ)、太保)、三公(太尉(たいい)、司徒、司空)を兼ねる重職とされ、適任者のない場合には欠員とされ、「則闕(そっけつ)の官」といわれた。令文には「天子の道徳の師、四海の民の規範」などと記され具体的な職務が明記されておらず、「非分掌の職」と理解された。その初見は『日本書紀』天智(てんじ)天皇10年(671)正月条で、大友皇子が任ぜられたことがみえるが、これは「百揆(ひゃっき)を統(す)べ、万機を親くす」る、いわゆる摂政(せっしょう)に比すべき地位で、皇位継承予定者の地位をも示し、令制のそれとは大きく異なる。奈良時代には一時期太師(たいし)と改称されたり、藤原仲麻呂(なかまろ)や道鏡がこれに任ぜられたが、一般には名誉的な色彩が濃く、死後に与えられる贈官が原則であった。しかし857年(天安1)2月に藤原良房(よしふさ)が任ぜられた例は、実質上は摂政ともいうべき地位であり、令前の観念が生き続けていたらしい。藤原基経(もとつね)の太政大臣任命に関連して884年(元慶8)5月に諸道博士らに諮問されたが、特筆すべき職掌のない「非分掌の職」という理解が多かった。したがって以降、関白・摂政・内覧などの宣旨を別に受けない限り、太政大臣そのものは名誉職的な官職として生き続け、幕末に至った。維新期には1871年(明治4)に復活し、85年まで存続した。

[佐藤宗諄]


太政大臣(だじょうだいじん)
だじょうだいじん

太政大臣

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「太政大臣」の意味・わかりやすい解説

太政大臣
だじょうだいじん

(1) 律令官制の最高官で,「だいじょうだいじん」と読まれた。左右大臣の上に位置する太政官の長官であるが,特に職掌は定められておらず『大宝令』では適任者がなければおかない則闕の官であった。天智 10 (671) 年大友皇子が任命されたのが最初。その後令制の制定によってその制度が明確となった。天平宝字4 (760) 年に藤原仲麻呂が大師と名称を改め任命され,天平神護1 (765) 年に道鏡が太政大臣禅師として任命された。天安1 (857) 年藤原良房が任じられてからは藤原氏や源氏が相次いで任命されている。一位相当官で,封戸職田年給などの俸禄も最高であった。

(2) 明治4 (1871) 年7月 29日の官制改革により,政治の最高機関となった正院を司るために設けられた官職。太政大臣は,天皇を輔翼,庶政を総判,祭祀,外交,宣戦講和,立約の権,海陸軍の統治および宮中軍務を任とした。 1877年1月 18日正院廃止ののちも,85年 12月 22日太政官達 69号にその職制が廃されるまで,明治初期政治の中枢に位置し国事を掌握した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「太政大臣」の解説

太政大臣
だいじょうだいじん

「だじょうだいじん」とも。律令制での太政官の最高の官。天智朝期に,左右大臣・御史大夫とともに,大友皇子が任じられたのが初例。前代の皇太子の執政者的性格がみられ,持統朝で高市(たけち)皇子も任じられた。大宝令では唐の三師・三公にならい,天皇の訓導の官で,適任者がいなければ欠員でよいという則闕(そっけつ)の官とされる一方で,太政官の首席大臣として詔書・論奏や勅授位記に署名すると規定された。定員1人,一品・正従一位相当。当初は贈官のみで任官はなく,特殊な例として,藤原仲麻呂の大師(たいし)と道鏡の太政大臣禅師(ぜんじ)がある。任官の初例は文徳朝の藤原良房で,光孝朝の藤原基経に至って,あらためて太政官の首班として国政を統轄する地位と定められた。摂関政治の成立当初は,とくに関白の地位は太政大臣の職掌と密接にかかわるものであったが,10世紀以後,摂政・関白は太政大臣から離れた独自の地位となり,太政大臣は名誉職的な存在となった。


太政大臣
だじょうだいじん

1太政大臣(だいじょうだいじん)

2明治前期の太政官制において天皇を補佐する最高の官職。1871年(明治4)7月,太政官職制の制定により設置。職務は天皇を輔弼(ほひつ)し万機を統理するものと定められた。三条実美(さねとみ)が太政大臣に就任したが,現実には藩閥政治家の実力者が参議として実権を握った。85年12月,太政官制にかわる内閣制度の確立により廃止。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「太政大臣」の解説

太政大臣
だいじょうだいじん

太政官の長官
①律令制の最高官で大宝令で制度化され,「則闕 (そつけつ) の官」と称し,適任者のいないときは置かなかった。律令制以前に大友皇子が任じられている。人臣では藤原仲麻呂が太政大臣に相当する大師となったのが初め。平安時代,藤原良房以後藤原氏が多く任ぜられた。
②「だじょうだいじん」と読む。明治時代の太政官制で,1871年に三条実美が任ぜられ,'85年の内閣制度実施まで続いた。

太政大臣
だじょうだいじん

だいじょうだいじん

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世界大百科事典(旧版)内の太政大臣の言及

【太政大臣】より

…初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉職的な要素が強く,贈官が原則であった。…

※「太政大臣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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