デジタル大辞泉 「太政大臣」の意味・読み・例文・類語
だいじょう‐だいじん〔ダイジヤウ‐〕【▽太政大臣】
2 ⇒だじょうだいじん(太政大臣)2
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令制における太政官(だいじようかん)の最高の官職で,日本固有の職。和訓では〈おおまつりごとのおおまえつぎみ〉といい,唐名では(大)相国。令では唐の三師(太師,太傅,太保),三公(太尉,司徒,司空)を兼ねる重職と位置づけられ,適任者のない場合には欠員とされ,〈則闕(そつけつ)の官〉ともいわれた。その具体的な職掌は令文にも記されておらず,〈非分掌之職〉であった。初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉職的な要素が強く,贈官が原則であった。857年(天安1)2月に藤原良房が人臣最初の太政大臣に任ぜられたのち,884年(元慶8)5月に光孝天皇はその職掌等について諸道博士等に諮問し,若干の意見の相違もあったが,基本点では格別に職掌とすべきもののない官という理解が多数をしめた。したがって以降も関白,摂政,内覧(ないらん)などの宣旨を別にうけないかぎり,太政大臣そのものでは実権のない官職として生きつづけた。
明治時代に入って設置された太政官(だじようかん)においては,1871年(明治4)の官制改革で三条実美が太政大臣(だじようだいじん)となったが,85年に内閣制度ができて,太政大臣は廃された。
執筆者:佐藤 宗諄
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太政官の最高の官職で、日本独自の官。和訓ではオオマツリゴトノオオマエツギミといい、唐名では(大)相国(しょうこく)。令(りょう)では唐の三師(太師、太傅(たいふ)、太保)、三公(太尉(たいい)、司徒、司空)を兼ねる重職とされ、適任者のない場合には欠員とされ、「則闕(そっけつ)の官」といわれた。令文には「天子の道徳の師、四海の民の規範」などと記され具体的な職務が明記されておらず、「非分掌の職」と理解された。その初見は『日本書紀』天智(てんじ)天皇10年(671)正月条で、大友皇子が任ぜられたことがみえるが、これは「百揆(ひゃっき)を統(す)べ、万機を親くす」る、いわゆる摂政(せっしょう)に比すべき地位で、皇位継承予定者の地位をも示し、令制のそれとは大きく異なる。奈良時代には一時期太師(たいし)と改称されたり、藤原仲麻呂(なかまろ)や道鏡がこれに任ぜられたが、一般には名誉的な色彩が濃く、死後に与えられる贈官が原則であった。しかし857年(天安1)2月に藤原良房(よしふさ)が任ぜられた例は、実質上は摂政ともいうべき地位であり、令前の観念が生き続けていたらしい。藤原基経(もとつね)の太政大臣任命に関連して884年(元慶8)5月に諸道博士らに諮問されたが、特筆すべき職掌のない「非分掌の職」という理解が多かった。したがって以降、関白・摂政・内覧などの宣旨を別に受けない限り、太政大臣そのものは名誉職的な官職として生き続け、幕末に至った。維新期には1871年(明治4)に復活し、85年まで存続した。
[佐藤宗諄]
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「だじょうだいじん」とも。律令制での太政官の最高の官。天智朝期に,左右大臣・御史大夫とともに,大友皇子が任じられたのが初例。前代の皇太子の執政者的性格がみられ,持統朝で高市(たけち)皇子も任じられた。大宝令では唐の三師・三公にならい,天皇の訓導の官で,適任者がいなければ欠員でよいという則闕(そっけつ)の官とされる一方で,太政官の首席大臣として詔書・論奏や勅授位記に署名すると規定された。定員1人,一品・正従一位相当。当初は贈官のみで任官はなく,特殊な例として,藤原仲麻呂の大師(たいし)と道鏡の太政大臣禅師(ぜんじ)がある。任官の初例は文徳朝の藤原良房で,光孝朝の藤原基経に至って,あらためて太政官の首班として国政を統轄する地位と定められた。摂関政治の成立当初は,とくに関白の地位は太政大臣の職掌と密接にかかわるものであったが,10世紀以後,摂政・関白は太政大臣から離れた独自の地位となり,太政大臣は名誉職的な存在となった。
2明治前期の太政官制において天皇を補佐する最高の官職。1871年(明治4)7月,太政官職制の制定により設置。職務は天皇を輔弼(ほひつ)し万機を統理するものと定められた。三条実美(さねとみ)が太政大臣に就任したが,現実には藩閥政治家の実力者が参議として実権を握った。85年12月,太政官制にかわる内閣制度の確立により廃止。
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…初見は《日本書紀》天智10年(671)正月条に大友皇子を任じた記事であるが,これは〈百揆を総べ〉〈万機を親くす〉る,いわば摂政にも比すべき国政の総理者であり,令制のそれとは異なる存在である。ついで持統4年(690)7月条には,飛鳥浄御原令官制の実施にともない高市皇子が任ぜられているが,これは令制の太政大臣に近い形態であるらしい。奈良時代には藤原仲麻呂がこれを大師と改称し,みずから就任した例や,道鏡の太政大臣禅師就任などの例もあるが,その職掌が不分明であるためか,名誉職的な要素が強く,贈官が原則であった。…
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