精選版 日本国語大辞典 「戦国時代」の意味・読み・例文・類語
せんごく‐じだい【戦国時代】
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通常,応仁の乱の始まった1467年(応仁1)から,織田信長が足利義昭を奉じて入京した1568年(永禄11)までをさす。しかしこれには始期・終期ともに異説がある。すなわち始期については伊勢長氏(北条早雲)が伊豆堀越公方足利茶々丸を追った1491年(延徳3)とする意見があり,近年は将軍足利義尚の時期はまだ室町幕府の力が相当に残っていたことに注目して,93年(明応2)細川政元が将軍義稙(よしたね)を追放したときをもって始期とする説も出されている。また終期については信長が義昭を追放した1573年(天正1)を妥当とする説が有力であり,さらに76年の信長の安土移転を画期とする説も出されている。幕府の存在を基準とする時代区分からすれば,戦国時代という区分は室町時代後期と一致するわけで,それを時代の特徴に応じてとくに戦国時代としているのであるから,その点からすれば73年を終期とすることが穏当であるともいえる。しかし戦国時代に続く安土桃山時代の始期を信長の安土移転からとすれば76年説が浮上することにもなる。信長権力の歴史的性格について,伝統的な見解では,これを豊臣秀吉権力と一体的にとらえて戦国大名と区別する見方が強かったため,戦国時代の終期は68年とする説が有力であったが,近年では信長権力はなお諸他の戦国大名と異なるものではないとする説が有力なため,68年説よりも73年もしくは76年説が重視されているのである。
このように戦国時代の始期・終期については見解が分かれるが,いずれにせよこの時代はほぼ1世紀にわたる激動期であり,それはさらに前後の2時期に区分されよう。その画期の求め方にも異説はあるが,1543年(天文12)の鉄砲伝来の年を中心に前後に区分するのが妥当と思われる。鉄砲の伝来とその普及が戦術の変化ばかりでなく,大名間の優勝劣敗をうながし,統一政権成立への道を開くことになるため,それ以前とは社会動向は急速に変わってくるのである。また主要な戦国大名のうち,北条早雲・氏綱,今川氏親,大内義隆,斎藤道三などは前期の人であり,北条氏康,毛利元就,武田信玄,浅井長政,朝倉義景,大友宗麟,長宗我部元親などは後期の人である。後者の時期に戦国時代の社会構造,権力形態を総括的に特徴づける大名領国制が本格的展開を見たことをもってしても,この区分の妥当性は首肯されるであろう。
戦国時代は,今日もっとも広く用いられている時代区分である〈中世〉の末期に位置づけられ,〈近世〉への移行期とされる。たしかにそうした視点から見れば,戦国時代は大きな歴史的転換期であって,そこには転換期とよぶにふさわしい顕著な社会動向が特徴的に現れている。その第1は下剋上と戦国大名の登場である。下剋上の社会動向はすでに15世紀の土一揆の動きに顕著に現れていたが,戦国時代においては民衆の反権力的動きのみならず,国人領主の反守護的動き,守護の反将軍的動きなど,諸階層がそれぞれ自立ないし自治を求めて,上部権力から独立してゆくようになった。そのような下剋上的動向は民衆の反権力・自治的動きを基盤にしつつ,支配階級諸層の中にひろく拡大し,全体として中央集権型の幕府体制を崩壊に導いてゆくのである。戦国大名は,こうした社会動向の中にあって,その系譜が守護・守護代・国人領主のいずれに発するにせよ,室町幕府体制から離脱して独自の地域権力を創出した点において,下剋上の旗手であったが,他面彼らは地域権力として国人領主や民衆諸層の下剋上的動きと対決することを課題とした権力でもあった。いずれにせよ戦国大名は下剋上動向の中から生まれ,下剋上動向を止揚することを歴史的課題とした権力であるということができる。戦国大名の領国支配体制の基本的特徴は,その課題にいかに対応するかという点におかれていた。
戦国期の時代動向の第2の特徴は,顕著な経済発展とそれをふまえた都市の発達である。農業生産の面では,領国経済力の強化をめざす戦国大名の新開(しんがい)の奨励,治水灌漑事業の推進によって新田畠の増加が顕著になるとともに,木綿栽培が開始され,その需要が急速に拡大した。鉱工業面では,これも大名の富国強兵策とのかかわりで金銀山の開発が各地で進められるとともに,中国地方を中心とした砂鉄=たたら生産が飛躍をとげた。またそれと不可分の関係で,武器生産を主とする鍛冶・鋳物業も発展した。さらにそうした生産諸力の発展にともない商業も急速な発展をとげ,大名に結びついた特権商人が,軍事物資調達のため中央地帯と領国とのあいだを活発に往復するとともに,堺,尼崎,兵庫,淀,大津,小浜,敦賀,桑名などをはじめとする交通拠点は,大名城下とともに都市として発展し,隔地間取引を主とする商人群がそこを中心に活動するようになった。
第3の特徴は,民衆のさまざまな形をとった反権力的動向の活発化である。これも下剋上的社会動向の一面にほかならないが,とりわけ一向一揆に代表される民衆の動向は,大名権力の存亡にかかわるほどに巨大な力をもち,その鎮圧・解体が織豊統一政権成立の基本的条件であった。したがってそれは単なる下剋上的風潮の問題というより,激しい階級闘争の展開として注目する必要があろう。通常一向一揆は1488年(長享2)の加賀門徒による守護富樫政親打倒に注目する傾向が強いが,16世紀に入るとその中心はしだいに畿内とその周辺地域に収斂する傾向が明らかとなる。戦国後期には,石山本願寺を頂点とする門徒勢力は,摂津や近江,あるいは伊勢長島,紀伊雑賀などをはじめとする各地の一向一揆をひろい戦略的視野から系統的に動かし,毛利,浅井,朝倉などの大名とも連係をとりつつ信長の中央進出に対抗するに至っている。この時代,九州にはキリシタンが伝えられてキリシタン信徒もしだいにその数を増すが,反権力的性格の面では,一向門徒がきわだった強さを示し,農民・商工業者を中心に,地侍・国人などをも含む地域的民衆権力としての性格を強め,畿内では河内の富田林に代表されるような寺内町を結集拠点とする形も見られた。
戦国時代の政治・軍事過程は,戦国大名による地域権力の形成とその相互間の抗争という形をとって展開した。中央地帯では,細川政元の将軍義稙追放以後,細川家も分裂し,一時細川高国と大内義興の連合権力が中央をおさえるが,やがて政元の養子澄元の子であった晴元が京都を支配する。しかし1550年三好長慶が入京して晴元と戦い,畿内国人を組織しつつ京都・堺をおさえた。60年(永禄3)前後に長慶は全盛期を迎えるが,これもまもなく将軍義輝を殺害した松永久秀にとって代わられるという形で,幕府の衰退と権力交替がめまぐるしく進行した。この間,東国方面では小田原を拠点とした後北条氏が,早雲,氏綱,氏康と漸次力をのばし,武蔵の上杉氏を追って伊豆・相模・武蔵にわたる大領国を形成,関東管領上杉の名跡を継承した越後の上杉謙信および甲斐の武田信玄と三つどもえの争いを展開した。東海方面では駿河の今川,三河の松平(徳川),尾張の織田,美濃の斎藤氏がそれぞれ勢力をのばしたが,今川,斎藤を滅ぼした信長が67年岐阜に進出した。中国地方では,戦国初期以来尼子氏が山陰に力をのばし,防長2国からさらに勢力拡大をはかる大内氏および安芸の国人領主から戦国大名化した毛利元就と争覇戦をくりかえしたが,元就が勝利を握り,中国地方,瀬戸内海にわたる一大勢力を確立した。四国では守護大名細川氏の衰退に代わって,土佐で長宗我部氏が強大化し,九州では大友,島津の守護系二大勢力とともに,佐賀の竜造寺氏など新興大名も登場した。
こうして各地域ごとに新旧勢力の交替や大名間の優勝劣敗が進む間に,信長は73年将軍義昭を追い,越前の朝倉義景,近江の浅井長政を倒すとともに,その翌年には頑強に抵抗を続け,信長もそれまでしばしば敗北を喫していた伊勢長島一揆の鎮圧に成功した。ついで75年信長は家康と連合して三河長篠で武田勝頼を破って背後の不安を絶つと,76年には近江安土に城を築き,ここに進出した。安土進出の意図は,なお摂津の石山本願寺を頂点として大きな力をもつ畿内一向一揆と対決するとともに,これと結ぶ中国地方の最大の勢力毛利氏を制圧しようとするところにあった。信長はこの目標に従って80年石山本願寺を屈服させたものの,毛利制圧を実現しえないまま,82年本能寺の変に倒れた。義昭追放によって室町幕府が名実ともに消滅してから信長の死に至る10年間は,安土時代というべき時期であるが,実質的にはなお戦国争乱期の延長線上にあった。
戦国時代は一面では戦乱連続の世であるが,半面では諸大名がそれぞれ公的立場を強め,領国支配体制を発展させることにつとめたため,多くの大名が分国法を作成したり,中央から儒学者,禅僧,芸能者などを招いたりして領国文化の繁栄をはかり,それを通じて大名権威の強化をはかった。大内氏の城下山口,今川氏の駿府,朝倉氏の一乗谷をはじめとする城下で都市的・貴族的文化が栄えたのはその代表例であり,豊後の大友氏や信長は,新しく伝えられたキリシタン信仰や同文化にも強い関心を示した。また西欧人の渡来によって伝えられた鉄砲と不可分の火薬の調合法もきわめて大きな社会的意義をもち,築城と結びついて発達した土木技術とともに,この時代の物質文化を代表するものといえる。
→中世社会
執筆者:永原 慶二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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通常,韓,魏,趙(ちょう)の3国が諸侯に列せられた前403年から,秦が6国を併呑した前221年までの約200年間をいう。春秋時代以来変貌をとげた社会のうえに中国統一が形成される過程期である。周の権威はまったく失墜して有力諸侯(戦国の七雄)は王を称した。彼らは互いに領土を広げ,土地改革を行い,直轄地区を増し,集権的富国強兵策をとって争覇した。各国とも有為の士を登用したから,経世致用の学(諸子百家)が勃興し,思想界は盛況を呈した。7国のうちの最強はいち早く国内の集権化に成功した西方の秦で,6国の対抗を退けてついに天下を統一した。政治的統一過程と表裏して社会経済は著しい発展を示した。鉄製農具,牛耕,灌漑工事などが普及して生産力が増大し,土地の私有制が起こった。また,商業が発達し,貨幣(布銭,刀銭など)が各地の都市で流通した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
1室町後期にあたり,応仁・文明の乱がおこった1467年(応仁元)から,室町幕府が織田信長により滅ぼされた1573年(天正元)までのほぼ1世紀をさすことが多い。京都にある幕府の勢力が衰え,各地に戦国大名が割拠し武力抗争をくり返したので,この呼称がある。
2中国史の時期区分。紀元前403年の晋の滅亡(韓・魏・趙の成立)から,紀元前221年の秦の始皇帝による統一までをさす。東周の後半にあたり,諸国の抗争のなかで郡県制的な秩序がしだいに形成されていった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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