日本歴史地名大系 「二条柳町」の解説 二条柳町にじようやなぎまち 京都市:中京区富有学区六丁目二条柳町近世初頭の遊里で、公許の遊里の始まりといわれる。天正一七年(一五八九)原三郎右衛門と林与次兵衛が豊臣秀吉の認可を得て二条柳馬場(にじようやなぎのばんば)(現六丁目付近)に開いたと伝えられるが、その地域は京極西、万里小路東、冷泉小路南、押小路北の方二町に及んだという。これは現布袋屋(ほていや)町・鍛冶屋(かじや)町・晴明(せいめい)町・丁子屋(ちようじや)町・俵屋(たわらや)町・尾張(おわり)町の全域と、六丁目(ろくちようめ)・等持寺(とうじじ)町・山本(やまもと)町・達磨(だるま)町の一部にあたる。慶長七年(一六〇二)幕府が二条城造営を機に行った風紀取締りによって、二条柳町遊郭は閉鎖、その地を五条魚棚(ごじよううおのたな)・室町西洞院(むろまちにしのとういん)間に移転され(義演准后日記)俗に六条三筋町とか六条柳町(跡地現下京区)とよばれた遊里が成立した。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by