金属を打ち鍛え,諸種の器具をつくることを仕事とする人。鍛冶屋の製作する農具や武器は,いつの時代にも人間の生活にとって欠かせない重要な役割を果たしてきた。しかし,鍛冶技術は習得するのが容易でなく,古来,この技術は鍛冶屋が独占的に担ってきた。そのため鍛冶屋は,神秘的な技術を占有する特殊な人々であると考えられた。鍛冶屋にまつわる神話や伝説も,世界の諸民族の間で広くみられ,その中に登場する鍛冶屋は,神々のために不思議な力を発揮する道具や武器を作ったり,また,鍛冶技術と共に,農耕や動物の家畜化の方法を地上の人間に初めてもたらしたりしている。
鍛冶屋の作業には儀礼やタブーが伴うことが多いが,特に性に関するものが多くみられる。これは鍛冶の中でも金属製錬のプロセスが性行為に見たてられることによるのであろう。金属を溶かす炉を子宮とみなし,炉に風を送る通風管やフイゴを男性の性器とみなし,火で金属が溶け合うことを金属の結婚とみなす考え方はしばしば見いだされるものである。
ところで,鍛冶屋は社会的に特殊な地位にあることが多い。シベリアや東南アジアの民族の間では,鍛冶屋は祭司や魔術師と結びついて,彼らと同等の地位を占める。アフリカでは,民族によって鍛冶屋の処遇に対照的な違いがみられる。ナイル川流域に住む遊牧民のマサイ族は,鍛冶仕事を賤民としてさげすまれている人々に任せている。ハム系狩猟民のドロボ族も同様に鍛冶屋を軽蔑する。逆にコンゴ盆地のソングエ族の間では,鍛冶屋は首長に次ぐ地位にあり,ホロホロ族の間では,鍛冶屋の地位は首長よりは低いが,魔術師よりは高い。アフリカではこのほかにも,鍛冶屋が高位の祭司として尊敬され,秘密結社を創始したり統率したりすることによって,重要な宗教的役割を果たしている例は多い。このようなアフリカにおける鍛冶屋の地位の差について,その分布状態を考えてみると,まず社会的に重視され尊敬を受けているのは,アフリカの鉄器文明を代表するといわれる旧ニグロ農耕文化の領域であり,西アフリカ大西洋岸からコンゴ北部,さらに東アフリカ中部,南部にかけて広がっている。この地域では鍛冶屋は,神話に語られる原古において人間界に農耕をもたらした文化英雄であり,王家の始祖であり,宗教の指導者なのである。一方,鍛冶屋が軽蔑されているのは,農業よりも狩猟や牧畜の優勢な民族においてであって,地域的には,サハラ砂漠南縁と熱帯雨林に挟まれた地帯を通って,東アフリカの大湖地方を経て南に及んでいる。これはハム系民族の広がった地域とも一致する。ハム系の遊牧民や狩猟民が鍛冶屋を軽蔑する理由としては,これらの民族が農耕を行わないこと,鍛冶屋は一般の人々から孤絶した職能集団を形成していること,征服された先住民が鍛冶に携わっていること,鍛冶屋自身は戦闘に加わらないこと等々が考えられる。のみならず,鍛冶屋の作り出す鉄などの金属には,呪術的で危険な力が潜んでいる,とみる観念が,その背景に存在するのである。また鍛冶神を天目一箇(あまのまひとつの)神,ヘファイストスなど,体に障害をもつ神とする観念も諸所にみられる。
執筆者:清水 純
鍛冶屋の起源は世界で最古の鉄器文化を生み出したヒッタイト帝国時代の西アジアに求めることができる。当時は鍛冶の仕事だけを専門に行うカリュベスchalybesと呼ばれる部族集団が帝国内におり,彼らによって鍛冶の技術は秘法として独占されていたらしい。帝国瓦解後,この部族の人々はアナトリアにあったギリシアの植民市などに移住して行き,鍛冶の技術が伝えられていったが,その後も西アジアにおいては特定の部族集団が鍛冶屋として活動することが普通であったようである。このことは現代の西アジア諸地域にその痕跡を残している。たとえばアラビア半島のベドウィンは鍛冶をする者を同じ部族に属する者とは認めず,よそ者とみている。しかし,その技術が有用であるために鍛冶をする者が殺された場合には血の復讐に代わる賠償金の額が通常の時よりも高い。イランでは今でもコウリーKoulīと呼ばれる,地方を遍歴してまわる部族集団がおり,屑鉄を買い集めて農具を作ったりしている。西アジアからの伝播があったのか,独自の文化であったのかは不明であるが,中央アジア,北アジアでも古くは特定の部族に鍛冶が独占されていた。有名なものではモンゴル高原に最初のトルコ系遊牧帝国をうちたてた突厥(とつくつ)の例がある。この支配氏族であった阿史那氏の祖先はアルタイ山脈の南麓にいたとき,柔然に隷属する鍛冶集団であったといわれる。また,モンゴル族も伝説上の原住地であるエルゲネ,クンという峡谷にいたとき鍛冶をしていたといわれ,モンゴル帝国ができた前後の時期には第2の故郷であるブルカン山麓にウリヤンハUryangkhaという鍛冶集団のいたことが確かめられる。以上のように鍛冶の技術は本来的に特定の部族の手にゆだねられていたが,いつとはっきりとは断定できないけれども,一般の人々のあいだにも伝えられていき,もっとも基本的な伝統手工業の一つに数えられるようになった。しかし,西アジアの都市にみられたアスナーフ(ギルド)において鍛冶屋だけが特別視されたり,優遇されたということはない。ただ,イランの一般民衆は《シャー・ナーメ》をよりどころにして鍛冶屋に対して特別の感情をもっている。それは,イスファハーンの鍛冶屋であったカーベKāvehという人物が圧政を行っていたエルサレムの王ザッハークに対して立ち上がり,伝説上のイラン最古の王朝ピーシュダーディー朝を復興したという神話をもっているからである。鍛冶屋のカーベはレジスタンス精神を体現する者として民衆の尊崇を集め,立憲革命期には同名のペルシア語新聞も発刊された。
執筆者:坂本 勉
ヨーロッパの鍛冶職は,近代的機械工業にもたらされた大きな貢献ということで注目されなければならない。鍛冶職は中世手工業のなかでも有力な地位を占めた職種の一つとみなすことができる。その起源は古代ゲルマン人の世界にある。〈鍛冶屋〉を意味するシュミーデSchmiedeという語は,もともと金属加工だけでなく,何かの工作・製作にたずさわる者の総称であった。ゲルマン語では,石工,船大工,靴工なども,それぞれの製作物の名を冠して〈シュミーデ〉と呼ばれた。フィンランド語でも鍛冶屋の意のセッパseppaは工作者の総称であった。
鍛冶屋が金属加工者として専業化を進めたのは,ゲルマン世界におけるキリスト教の普及に伴って,修道院や教会の建築が盛んになってからのことである。これにはビザンティン世界やイスラム世界の技術の伝来も大きな刺激となったし,自給自足を旨とするベネディクト派の改革修道院のなかで修道士が鍛冶の仕事にたずさわったこともなにがしかの影響を及ぼしたにちがいない。こうして,鍛冶屋は鍛冶職として社会的・技術的に独自の存在となった。しかし他の手工業と同様に,鍛冶職についても,遍歴者と領主の直営地の荘園で働く荘民という2様の身分が区別された。当然のことながら,後者は隷従的であったのに対して,前者は自由な境涯にあった。封建制の成熟につれて,荘園のなかで働く鍛冶屋の地位向上もみられたが,遍歴する鍛冶屋は修道院や領主に招かれて,高級な仕事にたずさわるということから,その身分的地位はしだいに遍歴商人に近いものとなった。こうして,鍛冶屋はヨーロッパで市場生産を営む最初の職種となる。
鍛冶職はやがてそれ自体のなかでさまざまな分野に専門化した。これには,封建的権力者間の武力闘争やたび重なる十字軍の出動を背景に騎士階級の活動が盛り上がったこと,国際商業の復活と新しい発展,農業生産の伸長などが関連していた。鍛冶職のなかで最初に専門化したのは,武器鍛冶,道具鍛冶,蹄鉄鍛冶,小物鍛冶である。
11世紀はいわゆる中世都市誕生の世紀となる。それは手工業発達史上の画期でもある。手工業はここで都市手工業として確立され,手工業者は自由な市民的身分を獲得する機会をつかんだ。彼らが,商人と並んで職種ごとのギルド(ドイツではツンフトと呼ばれる)に結集したのはそうしたことの雄弁な表現である。
ドイツでは蹄鉄,犂(すき),鍋(なべ),鎌,刃物,鋏(はさみ),釘(くぎ),鉄器具,匙(さじ)などの分野ごとに鍛冶職のツンフトが作られた。甲冑,刀剣,槍のような武器や防具の製作にたずさわる鍛冶師は,社会的に高い評価を受けた。これは火器が登場する以前の軍事的活動において,騎士の存在を際だたせたからである。武器鍛冶職のツンフトが南ドイツのニュルンベルクにできたのは13世紀末である。ちなみに,火器はまず大砲として登場したから,大砲鋳造職が鉄砲鍛冶職に先行した。後者が鍛冶職の花形となったのは,17世紀になってからのことである。
ニュルンベルクはドイツにおける近代工業の発祥地となり,この地の鍛冶職は早くから〈名門の工業家ein edles Gewerbshaus〉と評価された。14世紀の半ばに,ニュルンベルクの鍛冶職ツンフトは29を数えたという。ニュルンベルクで製作された鎖かたびら,ひげ剃用洗盤,コンパス,鋳貨計量器,時計のような精密機器がヨーロッパ中に輸出されていた。
ドイツにあって,19世紀の前半はツンフト制手工業の解体期,後半はその再編成期となった。手工業者のツンフトは,14世紀のいわゆる〈ツンフト闘争〉に見られるごとく,一時は都市のなかで強大な勢力となったが,その性格は排他的な傾向を強めていた。生産の機械化を阻み,職人のマイスター昇進を抑圧するなどによって自分の存在を解体の危機に追いやった。すでにイギリスでは,18世紀後半に産業革命を通じてギルドは解体されていたが,ドイツでも19世紀に入ると,営業の自由と機械制工場生産は避けがたい勢いとなったのである。しかし,鍛冶職はこの間にあって近代的金属機械工業に技術的・制度的基礎の一端を提供した。鍛冶職のマイスターと職人はツンフト制の解体をきっかけとして,大量に機械製作工場に入り込み,やがて彼らはこのなかで,ツンフトの精神と技能を発揮した。ドイツの労働運動や社会主義運動の初期の指導者もおおむね鍛冶職を身上とするマイスターや職人だった。
執筆者:高木 健次郎
日本では鍛冶のことを古くは〈かぬち〉といった。これは〈金打ち〉の約音であると《古事記伝》に説いている。古代では鍛冶はまず部曲(かきべ)の民(鍛冶部(かぬちべ))として現れる。律令制の時代には,こうした部曲は雑工戸・雑戸(ざつこ)として,中央および地方官衙の統轄下におかれた。そうした時代,とくに重用されたものは新来の朝鮮系の鍛冶であったらしく,《古事記》応神天皇の条に〈韓鍛卓素〉の名が見えるのをはじめ,奈良時代の《続日本紀》などには,この韓鍛冶の語がしばしば出てくる。平安時代になると,鍛冶も多くは地方へ四散し,荘園領主の庇護を受けるようになる。10世紀の《宇津保物語》吹上の巻に,紀伊の国の土豪の館で,大勢の鍛冶が小屋を設けて働いているようすが記されている。そして,中世には武器をはじめ日常の利器をまず武士のために作らされるようになる。武器として最もたいせつなものはいうまでもなく刀剣である。この時期から刀剣の鍛造技術が急速に発達し,やがて〈五箇伝〉といわれる,大和・山城・備前・美濃・相模といった,刀鍛冶の集中地,すぐれた刀剣の生産地を生ずるようにもなる。次いで戦国時代になると,鉄砲が作られるようになり,刀鍛冶に対して鉄砲鍛冶という専門職も生ずるようになった。江戸時代になると,城下町にはそれぞれ鍛冶町といわれる彼らの集団居住地ができる。そのころになると,農村でも購買力が向上し,鍛冶は農村部へも進出する。いわゆる郷町(ごうちよう)にも鍛冶町・鍛冶屋小路などができ,また散発的には,より田舎の方にまで鍛冶屋敷をつくるようになる。それとともにその職能も分岐し,鎌鍛冶,鍬(くわ)鍛冶,鋸(のこ)鍛冶,剃(かみそり)鍛冶,庖丁鍛冶,鋏鍛冶,錘(おもり)鍛冶,錨(いかり)鍛冶,釘鍛冶,針鍛冶などいろいろな野鍛冶があらわれる。近代にいたって機械工業が発達すると,これに押されて鍛冶はしだいに姿を消し,今日では容易にこれを見ることができなくなってしまった。
ところで,以上はいわば歴史の表面にあらわれた鍛冶の変遷であるが,これに対して,実際にはまだもっと複雑な動きもあった。戦国時代の作といわれる,近世初期の伊予の《清良記》には,農具を作る鍛冶が村々を巡歴して来ると,これに仕事をたのむ農民は自分で消し炭を集め,みずから向う槌を打つ役も担当したということが記されている。これと同じようなことを飛驒(岐阜県)の白川では,昭和の初めごろまで行っていたという記録がある。また熊本県球磨郡の奥部や長崎県壱岐島などでは,やはりそのころまで,〈請鍛冶(うけかじ)〉といって,鍛冶のいない村では,村としてこれを呼び,小屋や消し炭や食糧までも村で用意した。そして壱岐島の場合はやはり農民が自分で向う槌を打ったという。それほど鍛冶が貴重であった時代が,山奥や離島では久しかったのである。だから近世,さらには中世以前ともなれば,一般農民にとって鍛冶は,いわば遠来の〈まれびと〉であり,常人にはできない神秘な技術を伝承する聖職者でさえあったわけである。事実彼らと農民とのあいだには少なからぬ習慣の違いがあり,信仰の違いもあった。農民が田の神をまつるのに対して,彼らは火の神,鉄の神である〈金屋子神(かなやごがみ)〉をまつるが,この神は清浄をもっぱらとし,血の穢(けが)れを極端に嫌う一方,死の穢れはいとわぬという奇妙な伝承があった。そうしたことから一般農民は鍛冶を一面では気味悪がり,他面では頼りにするという気持ちをもった。鍛冶とは縁組をしないという反面,火が穢れたときには鍛冶屋にたのんで清めてもらうという習慣をもつところも少なくなかった。
→鞴祭(ふいごまつり)
執筆者:石塚 尊俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
打物(うちもの)つまり金属鍛造の職人のこと。鍛冶ともいう。居職(いじょく)である。番匠(ばんしょう)(大工)と並んで、その専業化の早い職種の一例である。技術史的には古代前期の5世紀末の鍛冶部(かぬちべ)や鍛冶戸(かじべ)の系統を受け継ぐものであるし、社会史的にはそうした工人身分から解放されたものもあったであろうが、鍛冶製品の需要の増大によって、農民層から分化したものが主流であった。12世紀の古代末期には職人として成長していた。しかも、そのなかで、処理・加工する金属の種類による分化や生産品の種類による分化もみられる。銀加工の銀(しろがね)鍛冶・銀(ぎん)細工、銅加工の銅細工、鉄加工の鍛冶というように、鍛冶はおもに鉄加工の技術者のこととなってきた。そうした鍛冶のうち、まず12世紀に刀を生産する刀鍛冶、中世後期の15世紀に農具生産の農具鍛冶、近世の17世紀に鉄炮(てっぽう)生産の鉄炮鍛冶と庖丁(ほうちょう)生産の庖丁鍛冶が分化してきた。一般の鍛冶屋は、刀と鉄炮は別にして、農具・工具や庖丁・鋏(はさみ)などの刃物を需要に応じて生産していた。やがて、そうした金物の特産地として、庖丁の堺(さかい)(大阪府)、工具の三木(兵庫県)、鎌(かま)の武生(たけふ)(福井県越前市)、鎌・庖丁の三条(新潟県)などができてきた。製鉄原料の砂鉄は野たたらによって精錬されていた。近世中期の18世紀になってたたら炉による精錬が始まり、鉄製の農工具や生活用具の生産に発展の基礎をつくり、また、鍛冶屋の生産と経営も安定し、特産地を成立させる条件ともなった。一般の鍛冶屋の道具は、鉄製の金槌(かなづち)、金床(かなとこ)(金敷)、金箸(かねばし)(やっとこ)と箱ふいごである。加熱した固体の金属材料(おもに鉄)を金床の上にのせて金箸でつかみながら金槌で打って形をつくる。金槌は向き合った1人か2人で交互に打つこともある。それは徒弟か手伝いで相槌(あいづち)といい、親方が小さい金槌で軽く打つのに対して、大きい金槌で強く打つ。燃料は木炭である。中世・近世を通じて、鍛冶屋の大部分は一般の顧客を相手に、都市や村落で仕事を続けていたが、近代になると、多くの者は鍛冶工として鉄工場の賃金労働者へと転化して自主性を失い、あるいは関連生産部門に転業していった。また、ある程度の機械を設備することによって、大工場の下請けとして仕事を続ける者もあった。一方に、これまでの道具や設備で特定の顧客を対象に職人としての仕事をしている者も都市や村落にいるものの、その社会的・経済的役割は非常に軽いものになっている。
鍛冶屋の職祖神または祖神は、一般的には金屋集団の金屋子神(かなやごがみ)(金山神)である。採鉱と冶金(やきん)が未分化で、各地を遍歴していた時代からのものであろうと考えられる。それとは別に、古代では、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)や八幡(はちまん)信仰に結び付く鍛冶翁(かじのおきな)、中世では稲荷(いなり)信仰に結び付く稲荷明神が、いずれも祖神あるいは守護神として祀(まつ)られた。これは技術の伝来経路によったものであろう。近世になって、都市に定住するようになると、個別に金属加工職人の内祭(うちまつり)として、稲荷神社の火焼きの日の11月8日に鞴祭(ふいごまつり)が行われるようになったが、今日ではみられない。いまでは職人ではなくて金物問屋などの商人が、金山神を祭る鞴祭を行っている。
[遠藤元男]
『旧約聖書』に「鉄の細工人はこれをつくるのに炭の火をもって細工し、鎚をもってこれをつくり、強い腕をもってこれを鍛える」(「イザヤ書」44章12節)とある。ここに描かれた鍛冶屋の姿は、ギリシアの壺絵(つぼえ)、ローマの浮彫りから現代に至るまで変わらない。ギリシアの火と鍛冶の神ヘファイストスは本来小アジアの神だった。ハンマーとふいごを使用する鍛冶屋の歴史も、最初に鉄器を生み出したヒッタイト王国から始まる。そこではすでにカリベス人という鍛冶を専門とする者たちがいた。彼らは初め金銀銅よりも貴重な天からの授かり物隕鉄(いんてつ)で、祭祀(さいし)に使う物と装飾品をつくった。その後さらに人工の鉄を生み出し、農業、軍事などに大きな影響を与えることになる。彼らの受けた尊敬と別格の扱いは、鉄のもつ神秘性・普遍性とともにヨーロッパに受け継がれた。中世では金銀銅など鍛冶屋の分業化が進む。鉄鍛冶の装飾的な仕事は修道院・教会内部の格子や扉の金具にみられる。11世紀の単純なC形金具は、12世紀になると2本の鉄棒で複雑な紋様がつくられるようになり、さらに13世紀に入ると、パリのノートルダム寺院の西側の扉の金具のような高度の技術水準に達する。一方、刀鍛冶はスペインのトレド、ドイツのゾリンゲンのように特定の町で発達し、秘密保持のため、焼入れ師、研ぎ師ともども同業組合(ツンフト)は職人の他国への修業を禁じ、世襲を原則とした。また生産過程の分業化ばかりでなく、仕上げ師のツンフトから販売を担当する商人身分が生まれ、商人の力が強くなった。甲冑(かっちゅう)鍛冶は16世紀に最高のできばえを示すが、この世紀から銃が戦争で重要になり、大きな水車利用のハンマーの発達とともに、鉄砲鍛冶は工場的経営に変わっていく。北ドイツの一都市エムデンで錫(すず)製品をつくる親方のもとにきた徒弟数は、1601年から1650年までが54人、1701年から1750年までが34人、1801年から1850年までが18人と減っていく。鍛冶屋は時代が下るにつれてその仕事を大量生産の工場に吸収され、そこに雇われたり、スウェーデンの報告例のようにつくる者から修理する者になったりする。それでもオーストリアの小村ウンターワルトの統計では、この村に1910年に3人の鍛冶屋がいた。いまでも鍛冶屋は数こそ減っているが、各国の町や村にいる。
鍛冶場は客の注文に応じて風見鶏(かざみどり)、店の看板、長持の金具、鍋(なべ)、釜(かま)から墓の十字架まで多様な物をつくりだしてきた。むろん、犂(すき)、鎌などの農具や馬の蹄鉄(ていてつ)もつくった。そこは何世紀にもわたって男たちが集まっておしゃべりをする場所でもあった。そのためか口承文芸の世界にはしばしば鍛冶屋が登場する。昔話の一つに鍛冶屋が大ぜいの客とか悪魔を席から動けなくしてしまう話があるが、それはヘファイストスが母のヘラを椅子(いす)から動けなくした神話を思い出させる。鍛冶屋には現に口承文芸の語り手である人がいる。イギリスに鍛冶屋が職人の王であることをアルフレッド大王に認めさせる伝説がある。鍛冶屋はそのように古来すべての仕事は自分たちに始まるという誇りをもっていた。16世紀中葉までは親の職業によっては鍛冶職人になれない者がいた。ハンガリーでは鍛冶屋が受けていた大きな尊敬ゆえにその名が地名となって残っており、また数多くの高貴な家が鍛冶屋を先祖としているという。鍛冶屋は蹄鉄を打つばかりでなく、獣医としても知られ、人々の歯痛を止めたりした。鍛冶屋が医者でもあったのは、ヨーロッパ諸国にみられる。オーストリアでは神聖な鉄で牛・羊などの犠牲獣をつくってもらい、教会に納めて無事を祈った。しかしスイスの山村地帯では呪的(じゅてき)世界とかかわる不気味な存在として、鍛冶屋は仕事を重宝がられながら、恐れられ、農民の共同体から締め出されていた。
[飯豊道男]
『L・ベック著、中沢護人訳『鉄の歴史』全5巻17分冊(1974~75・たたら書房)』▽『C・シンガー他編、平田寛他訳『増補新版 技術の歴史』全14巻(1978~81・筑摩書房)』▽『飯田賢一著「製鉄」(『日本科学技術史』所収・1962・朝日新聞社)』▽『山口啓二他著『採鉱と冶金』(『講座・日本技術の社会史 第5巻』1983・日本評論社)』
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…貸主は農鍛冶が大部分であるが,三条・見附地方では陸(おか)鍛冶という鍛冶問屋や金物商がこれにあたることもあり,一軒で3000挺近い貸鍬を持つ場合もまれではなかった。貸鍬の修理はすべて無料で,秋に鍛冶屋が農家をまわり,農閑期の冬のうちに鍬の修理を終え,春先にこれを配る方式がとられた。貸鍬は江戸時代からあったともいわれるが,広く普及したのは明治時代である。…
…だが丁場(ちようば)と呼ばれる石切場で石材採掘をする山石屋のあいだでは山の神をまつる風習があり,11月7日に丁場にぼた餅,神酒を供えてまつり一日仕事を休む。 冶金,鋳金,鍛鉄の業,すなわち鑪師(たたらし)や鋳物師(いもじ),鍛冶屋の神としてその信仰のもっともいちじるしいのは荒神,稲荷神,金屋子神(かなやごがみ)である。荒神は竈荒神,三宝荒神の名があるように一般には竈の神,火の神として信仰され,なかには別種の荒神として地神,地主神あるいは山の神として信仰される場合もあるが,鍛冶屋など火を使う職業の徒がこれを信仰することは,火の神としてまつられる荒神の性格からきたものであり,それには修験者や陰陽師などの関与もあった。…
…近世の都市において手工業技術者である職人の集住する町。近世初頭の城下町建設期に,領主は築城などの土木建築工事や武器武具類の製作修理など,主として軍事上の必要から大工,左官,鍛冶屋をはじめとする手工業者を城下に集住させる必要があった。そのため,御用手工業者の棟梁には領内における営業権など種々の特権を与え,1町ないし数町の土地を拝領させ,国役(くにやく)または公役としてそれぞれに仕事を請け負わせた。…
…石川県白山山麓の山村では,嫁入前の娘たちが京都や大阪へ女中奉公や子守りとして数年間出稼ぎし,ここで結婚のための仕度金をつくり,行儀を見習う習慣があり,これをしないと一人前の娘とみなされなかった。 出稼ぎ職人として有名なのは,会津,筑波,信州などの屋根葺き職人や杜氏,鍛冶屋,石屋,大工などである。杜氏は酒の醸造にたずさわる職人で,雪国や山国の冬期間の出稼ぎ者が多かった。…
…これらから,熊野に奉仕する巫覡(ふげき)の徒は五条天神と交流を持っていて,熊野で成立した弁慶の物語が五条天神を介して流入したのが《義経記》の弁慶譚ではないかと考えられている。 また,熊野新宮地方の伝説には弁慶の母を鍛冶屋の娘とするものがあり,《願書》では弁慶の母がつわりに鉄を食したので,弁慶は色が黒く,全身が鉄でできているが,一ヵ所だけが人肉であるなどとされているなど,弁慶の物語の成立には,山伏とも関係の深い鍛冶の集団もかかわったのではないかと推測されている。《弁慶物語》などでも,弁慶は太刀,飾りの黄金細工,鎧(よろい)などを五条吉内左衛門,七条堀河の四郎左衛門,三条の小鍛冶に作らせていて,炭焼・鍛冶の集団の中で伝承されたとする金売吉次伝説との交流を思わせる。…
…また家の上棟式に餅やミカンをまいたり,小正月に厄年の人が辻や村境でミカンをまいて厄払いする風もある。鍛冶屋では,11月8日の吹子祭にたいせつな火を象徴するミカンをまいて祝う風は広く,これを拾って食べると病気にならないという。一方で,ミカンの実を焼いて食べたり,皮や種子を火にくべると,顔が赤くなるとか貧乏になるといって忌む所が多く,ミカンを根もとから切ったり接木すると,死ぬとか死人が出るという俗信もある。…
※「鍛冶屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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