達磨(読み)ダルマ

デジタル大辞泉 「達磨」の意味・読み・例文・類語

だるま【達磨】

《〈梵〉Bodhidharmaの音写、菩提ぼだい達磨の略》
中国禅宗始祖。インドのバラモンの出身と伝え、6世紀初め中国に渡り、各地で禅を教えた。嵩山すうざん少林寺面壁九年座禅を行ったという。達磨大師円覚大師生没年未詳。→達磨忌

達磨大師の座禅の姿にまねた張り子の人形。手足がなく、紅衣をまとった僧の形で、底を重くして、倒してもすぐ起き上がるように作る。商売繁盛・開運出世などの縁起物とされ、最初に片目だけ入れておき、願いごとのかなった時、もう一方の目をかきこむ風習がある。
丸いもの、赤いものなど1の形に似たものの称。「雪達磨」「火達磨
売春婦。寝ては起き寝ては起きするところからいう。「達磨茶屋」

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精選版 日本国語大辞典 「達磨」の意味・読み・例文・類語

だるま【達磨】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙 ( [梵語] dharma の音訳。「法」と意訳 )
    1. 仏語。規範・真理・法則・性質教説・事物などの意。
      1. [初出の実例]「達磨の妙宝を筏とし」(出典:性霊集‐六(835頃)藤大使為亡児設斎願文)
    2. [ 二 ]の坐像にまねて作り、普通、顔面以外を赤く塗った張り子。底を重くして倒してもすぐ起きるように作る。商売繁盛・開運出世の縁起物で、最初片目だけを入れておき、願いごとがかなった際もう一つの目を入れて両眼をあけるならわしがある。
      1. 達磨<b>[ 一 ]</b><b>②</b>〈山梨県甲府〉
        達磨[ 一 ]〈山梨県甲府〉
      2. [初出の実例]「掛乞は皮財布を膝に敷きて、達磨(ダルマ)のやうな目をむき出し」(出典:談義本・風流志道軒伝(1763)二)
    3. に似たまるい形のもの。
    4. 売春婦。すぐにころぶところからいう。達磨女。
      1. [初出の実例]「兄弟か居ぬとだるまも無一物」(出典:雑俳・柳多留‐二四(1791))
    5. 僧侶をいう。
      1. [初出の実例]「をとたかき鯉で食喰ふ達磨衆」(出典:雑俳・住吉御田植(1700))
    6. 羽織。腰から下がないのでいう。
      1. [初出の実例]「古手屋中の上げもの(トかけて)順慶町の座禅豆(トとく心は)達磨がたんとある」(出典:当年見聞謎づくし(1819))
    7. 自転車で、前輪が大きく後輪が小さいもの。
      1. [初出の実例]「達摩と称する、一輪はずっと大きく後輪は小さいこれも二輪車」(出典:明治世相百話(1936)〈山本笑月〉秋葉の原昔話)
    8. 菓子の一種。
      1. [初出の実例]「其外駄菓子はお市、微塵棒、達磨、狸の糞抔(など)で」(出典:塩原多助一代記(1885)〈三遊亭円朝〉一五)
    9. ゆきだるま(雪達磨)」の略。
      1. [初出の実例]「大道へ達广の出来る寒ひ事」(出典:雑俳・柳多留‐四一(1808))
    10. 隠語。盗人・てきや仲間で殺人をいう。〔隠語輯覧(1915)〕
      1. [初出の実例]「ダルマ(殺し)は俺は大好きだが」(出典:いやな感じ(1960‐63)〈高見順〉四)
  2. [ 2 ] 中国の禅宗の始祖。菩提達磨。諡号は円覚大師。南インド香至国の王子で、六世紀のはじめ中国に渡り、嵩山の少林寺で面壁坐禅して悟りを得たという。梁の武帝との対論、没後のインド帰国など、多くの有名な伝説がある。古くは「達摩」と書いた。達磨大師。生没年不詳。

達磨の語誌

梵語音に従った「ダルマ」が本来の読み方であるが、後に漢字音によって「ダツマ」「タツバ」とも読まれた。「タツバ」の読み方は既に慈覚大師円仁(七九四‐八六四)の読み方を伝えるという醍醐寺蔵「法華経陁羅尼集」などにも見られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「達磨」の意味・わかりやすい解説

達磨(禅宗の開祖)
だるま

生没年不詳。禅宗の開祖。インド名はボーディダルマBoddhi-dharma。詳しくは菩提(ぼだい)達磨であり、達摩とも書く。6世紀の初め、西域(さいいき)より華北に渡来し、洛陽(らくよう)を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡(おくりな)される。従来、11世紀にまとめられる伝承説話以外に、伝記も思想も不明であったが、20世紀に入って敦煌(とんこう)で発見された語録によって、壁観(へきかん)とよばれる独自の禅法と、弟子たちとの問答が確認され、その実像が明らかとなる。同時代の仏教が煩瑣(はんさ)な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せ付けぬように、本来清浄な自性に目覚め、ずばり成仏せよと説く、平易な口語の宗教運動家であった。あたかも8世紀より9世紀にかけて、急激な社会変革の時代に、人々は新仏教の理想を達磨に求め、不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)(文字や言語、経典によって伝えられるものでなく、師弟の心から心に直接伝えられる)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)(ずばりと、自己の心をつかむことによって、自己が本来は仏であると気づくこと)の四句に、その教義と歴史をまとめる。達磨は仏陀(ぶっだ)より28代の祖師で、正法を伝えるために中国に渡来する。南海を経て南朝の梁(りょう)に至り、仏教学の最高峰武帝(蕭衍(しょうえん))と問答するが、正法を伝えるに足らずとし、ひそかに北魏(ほくぎ)の嵩山(すうざん)の少林寺で、のちに第二祖となる慧可(えか)に会ったともいう。慧可が達磨に入門を求めて顧みられず、一臂(いっぴ)を断って誠を示した説話や、「私は心が落ち着きません、どうか私の心を落ち着かせてください。君の落ち着かぬ心を、ひとつ俺(おれ)にみせてくれ、そうすれば落ち着かせてやる。それはどこを探しても、みつけることができません。俺はいま、君の心を落ち着かせ終わった」という、慧可との安心問答は有名である。達磨の禅の特色は、そうした対話の語気にあり、やがて人々は、祖師西来意(達磨は中国に何をもたらしたか)を問うようになる。この問いに答えることが禅宗のすべてである。

 達磨はさらに日本にきて、聖徳太子と問答したとされ、平安末期に達磨宗がおこって、鎌倉新仏教の先駆けとなる。禅宗史の発展が達磨の人と思想を理想化し、新しい祖師像を生むのである。近世日本で、頭から全身に紅衣をかぶり坐禅(ざぜん)する起きあがり小法師(こぼし)の人形で知られる福(ふく)達磨の民俗信仰がおこり、宗派を超えて広く日常化する。祖師達磨の新しい理想化の一つである。

[柳田聖山 2017年3月21日]

『松本文三郎著『達磨』(1911・図書刊行会)』『関口真大著『達磨の研究』(1967・岩波書店)』『柳田聖山著『ダルマ』(『人類の知的遺産16』1981・講談社)』


達磨(玩具)
だるま

禅宗の始祖、達磨大師の坐禅(ざぜん)姿をうつした縁起物玩具(がんぐ)。赤塗りで、座におもりをつけ、倒してもすぐ立つようにつくった張り子製の起きあがり物が、全国各地でつくられている。ほかに土焼き、練り物、木製などがあり、種類が多い。

 室町時代には、起きあがり達磨の祖型である起きあがり小法師(こぼし)がまずつくられた。張り子製の起きあがり達磨が登場してきたのは、起きあがり小法師玩具が上方(かみがた)から江戸に伝えられてからのちで、享保(きょうほう)年間(1716~36)以降のことらしい。江戸では七福神などの起きあがり人形もつくられたが、達磨の形をしたものがもっとも人気を集めて代表的な作品となり、一般に張り子製の達磨のことを「起きあがり」とよぶようになった。ことに養蚕が盛んな関東地方では、蚕の上簇(あがり)にちなんで、起きあがり達磨が縁起物に求められた。この習俗は現在もみられ、歳末から3月ころには各地で達磨市が開かれ、農家や商家筋の商売繁盛、招福開運の縁起物として、市(いち)でにぎやかに売買されている。

 愛知県をまたほぼ境にして、東日本では関東地方を中心に白目のままの目無し達磨、西日本には黒目の鉢巻き達磨が多くみられる。目無し達磨は、これを求めて祈願をかけ、成就の際に黒目を入れる。現在でも入試合格や当選などの際に行われる。また、達磨の赤衣に模した赤塗りの達磨玩具が、疱瘡除(ほうそうよ)けに病児の枕元(まくらもと)に飾られたりした。疱瘡が赤色を嫌うという俗信からである。種類には、普通の鬚(ひげ)達磨以外に、女達磨、童女型などが、郷土玩具として全国に広く分布している。

[斎藤良輔]

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改訂新版 世界大百科事典 「達磨」の意味・わかりやすい解説

達磨 (だるま)
Dá mó
生没年:?-532?

禅宗の初祖。達磨はダルマDharmaの音訳。菩提達磨と呼ぶのが正しく,古くは達摩と書き,円覚大師,聖胄大師と諡(おくりな)される。南インド香至国王第3子。幼名は菩提多羅で,仏陀の正法眼蔵を伝える第27祖般若多羅について出家,印可をうけて第28祖菩提達磨多羅となる。あたかも南北朝の中期,中国仏教が,教学に傾くのを正すため,遠く伝法を試み,海路3年ののち,広州につく。梁の武帝に会って契(あ)わず,ひそかに北上して魏の嵩山(すうざん)少林寺に入る。弟子慧可(えか)を得て正法眼蔵を伝え,中国禅宗の祖となるが,洛陽教学の大勢を占める他派の学徒に毒殺され,呉坂の熊耳に葬られた。やがてインドに西帰,あるいは日本に来化したという伝説がつくられた。とりわけ日本来化の伝説は,最澄の菩薩戒独立運動と関係し,南岳恵思が日本に聖徳太子として再生するという,より古い伝説と結合し,日本では天台宗より分立する達磨宗の運動や,その祖師像の製作をめぐって,近世における福達磨の流行にまで発展する。

 もともと,達磨が伝える正法眼蔵の本質は,自覚聖智,自性清浄心のこととして,これを古くより伝承する《楞伽(りようが)経》に求めるものと,梁の武帝や弟子慧可との問答に求めて,そこに般若皆空の理を重視するもの,あるいは経典いっさいを捨てて,以心伝心を主張するものなど,後代になるほど多数の異説を生んだ。そこに禅の理想化が加わって,原史実の所在を覆う結果となるが,今世紀初頭以来の敦煌文書の発見によって,初期禅宗史の実態が明らかになるにつれて,達磨の伝と思想もまた,ほぼその正体を明らかにするに至る。すなわち,従来は低く評価された《二入四行論》とその編者曇林がまとめた序が原型で,これによると,達磨は西域を経て直接に北魏に来た遊化僧の一人で,その説は《楞伽経》よりも,むしろ《維摩(ゆいま)経》や三論の思想など,クマーラジーバの大乗仏教を,中国民族の実践にふさわしい壁観の説として具体化したことにあったようである。
執筆者:


達磨 (だるま)

中国禅宗の始祖達磨が嵩山(すうざん)少林寺にあって,壁に向かって9年間座して悟りをひらいたという,いわゆる〈面壁九年〉の故事にちなみ,その座禅姿をうつした人形。赤い衣姿で手足がなく,底を重くして倒れてもすぐ起き上がるようにしくんだ起上り玩具の一種。起上り玩具としては,室町時代に〈起上り小法師〉と称するものが流行したが,江戸時代中期から達磨が起上り玩具を代表するようになり,倒れてもすぐ起き上がるというところから〈七転八起〉のたとえ言葉とともに縁起物として全国に流布した。歳暮,年始,節供その他社寺の縁日などにとくに多く売り出され,なかには盛大な達磨市がたち,年中行事の一つともなった。達磨市は関東に多いが,1月6日の高崎市の達磨寺の達磨市が最大のもので,1月28日の川崎市不動院の達磨市,3月3日の東京都深大寺の達磨市なども有名である。

 達磨はまたいろいろの俗信仰を生み出したが,その一つに目なし達磨がある。江戸時代末期に疱瘡が流行したとき達磨がその呪物とされ,疱瘡にはとくに目をたいせつにせねばならないところから,目無し達磨が売り出された。客の求めに応じてその場で目を入れる風が,仏の魂を入れる開眼の古俗とも結びついてひろまり,大願成就したとき目なし達磨に目を入れる風が今日にも伝わった。達磨はまた起き上がるというところから性神としても信仰され,男性器を連想させる形のものや,女性器を表象する模様があしらわれ,ここから姫達磨という女性の達磨もあらわれた。また蚕のことを〈お子様〉と呼ぶ風のあるところから,お子様を殖やす願いが性神としての達磨の信仰と結びつき,達磨が養蚕の縁起物となり,長野県の養蚕地帯では達磨を寺から借りうけてお子様繁昌を祈り,御礼には達磨を二つにして寺に奉納する風習も生まれた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「達磨」の意味・わかりやすい解説

達磨
だるま

[生]?
[没]大通2 (528)
禅宗の初祖。6世紀初頭にインドから中国に渡り,『楞伽経(りょうがきょう)』を広めた菩提達摩 Bodhidharmaと同一人物とされているが,伝記中の事跡はかなり潤色,神秘化され,その実在すら疑われている。しかし現代では敦煌出土(→敦煌莫高窟)の資料から『二入四行論』ほかを説いたことなどが明らかにされている。『続高僧伝』によれば,達磨は南インドのバラモンの家に生まれ,大乗仏教に志し,海路から中国に渡り,北方の魏に行った。武帝に召されて金陵に赴き,禅を教えたが,機縁がまだ熟していないのを知ってただちに去り,洛陽東方の嵩山の少林寺に入り,壁に向かって坐禅した(壁観)。慧可が来て教えを求め,腕を切り取ってその誠を示したので,ついに一宗の心印を授けたという伝説がある。壁観の面壁九年の伝説から,後世日本では手足のないだるま像がつくられ,七転び八起きの諺となった。

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百科事典マイペディア 「達磨」の意味・わかりやすい解説

達磨【だるま】

中国禅宗の祖とされる僧。菩提(ぼだい)達磨Bodhidharma。インド生れ。470年ごろ(異説が多い),海路南中国に入り,嵩山(すうざん)少林寺で面壁9年,法を慧可(えか)に伝えた。伝記には不明な点が多く,著書も《少室六門集》などが伝えられるが,疑わしい。
→関連項目拳法座禅少林寺禅宗達磨道釈画仏教

達磨【だるま】

達磨の座禅にちなみ,手足のない赤い衣をまとった僧の姿の人形。底を重くして倒れてもひとりでに起きる起上り小法師(こぼし)の一つ。商売繁盛,開運出世の縁起物として喜ばれ,目のない達磨に満願のとき目を書く風習がある。郷土玩具(がんぐ)として張り子製のものが各地で作られ,達磨市の立つ地方が多い。松川達磨(仙台),目無し達磨(群馬県豊岡,現・高崎),子持達磨(甲府),姫達磨(松山)などが著名。

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旺文社世界史事典 三訂版 「達磨」の解説

達磨
だるま

生没年不詳
中国禅宗の始祖。正しくは菩提 (ぼだい) 達磨という
南インドの人。6世紀初め海路中国に渡り,梁の武帝の尊敬を受けた。河南省嵩山 (すうざん) の少林寺にはいり,禅の実践による仏教真理の体験を主張。その教えは唐代に確立した。

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世界大百科事典(旧版)内の達磨の言及

【法】より

…サンスクリットのダルマdharmaの訳で,その音から〈達磨(摩)(だつま)〉〈曇摩(どんま)〉などとも記される。原語は〈保つ〉の意味から生じた語で,秩序を保つもの・法則慣習などを意味した。…

【慧可】より

…のちに中国禅宗の二祖として,大祖禅師の諡号(しごう)をうける。洛陽虎牢の人,姓は姫,はじめ神光と名のり,老荘と伝統仏教を習うが,インドより来た菩提達磨の禅をうけ,洛陽と河北の地方で,新仏教を広める。のちに二祖調心とよばれて,一般市民とともに,苦行労働に従ったこと,とくに最後に対立者側の告訴で非業の死をとげるなど,生没年その他,伝説的な傾向が強い。…

【拳法】より

…広義には世界各地にある徒手の武術を含めて考えられるが,一般的には,中国で体系化され発展した武術をさす。中国武術の歴史は非常に古く,史実かどうか疑わしい俗説や伝説も多いが,拳法を中国に伝えたのは達磨(だるま)大師であるという説が最も有名である。520年ころ,インドから嵩山(すうざん)少林寺に来た達磨大師はここで面壁(めんぺき)し,仏法を説くかたわら,修行僧に《洗髄経》《易筋経》の2経を与え,心身鍛練の秘法を授けたといわれる。…

【人相学】より

…その後,晋の時代にも相術は発展し続けたが,門外不出の仙術だった。南北朝時代には,梁の武帝のときインドから達磨(だるま)が来て仏教を伝えたが,相術が示す現世の運勢を重視する風潮には争いがたく,禅宗の始祖も9年間面壁の修業を余儀なくされた。この間に達磨は相術も研究し,後に仏教を広める際の手段としてこれを用いた。…

【達磨】より

…禅宗の初祖。達磨はダルマDharmaの音訳。菩提達磨と呼ぶのが正しく,古くは達摩と書き,円覚大師,聖胄大師と諡(おくりな)される。…

※「達磨」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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