五十狭茅宿禰(読み)いさちのすくね

朝日日本歴史人物事典 「五十狭茅宿禰」の解説

五十狭茅宿禰

吉士(吉志,吉師とも書く)氏の祖とされる人物。吉士氏は外交,水軍で活躍した氏族で,6~7世紀にかけて朝鮮との外交に名を残した。『日本書紀』によれば,神功皇后新羅を征伐して,穴門の豊浦宮(下関)から瀬戸内海を通って都に凱旋したとき,香坂,忍熊の2王が謀反を企てた。イサチノスクネは2王の側について戦ったが,皇后側の大将武内宿禰の策略にかかって武装を解いたため,琵琶湖の近く,瀬田川に身を投げて死んだという。これは外交に活躍した氏族の祖先らしからぬ伝承で,吉士氏の衰退を暗示している。吉士氏は天武10(681)年に難波連の姓を賜った。

(西條勉)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「五十狭茅宿禰」の解説

五十狭茅宿禰 いさちのすくね

記・紀にみえる武人
朝鮮外交に活躍した吉士(きし)(吉師)氏の祖。神功(じんぐう)皇后に反乱をおこした忍熊(おしくまの)皇子・麛坂(かごさかの)皇子方に,東国の兵をひきいる将軍として参加。敗れて近江(おうみ)で入水した。「古事記」では伊佐比宿禰。

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