天皇の生母となった時に皇太后、祖母となった時に太皇太后と称され、これらを合わせて皇后とも称される。
天皇の嫡妻。上古には天皇の妻室である后妃をキサキといい,その最上位者を〈大后〉すなわちオオキサキと称したが,中国の制に倣ってからこれを皇后と称した。《令義解》は皇后に〈天皇之嫡妻〉と注しているが,のちには天皇と配偶関係のない皇后が置かれたこともある。長秋宮,秋の宮,椒房(しようぼう),椒庭(しようてい)などは皇后の別称である。
令制によると,皇后は内親王から選定するとあるが,聖武天皇が藤原不比等の女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を皇后に立てて以来,内親王以外からも皇后に立てる例が開かれた。奈良時代の安宿媛以来江戸時代末に至る皇后63人の出自をみると内親王は21人で,藤原氏出身者は37人と過半数を占め,その他は5人である。なお1889年制定の皇室典範では,皇后は皇族または特定の華族の女子を充てると定めたが,現制ではとくに制限はない。
皇后は古来〈某を皇后と定め賜う〉旨の詔によって冊立されるのが例で,江戸時代末までは,天皇が即位する以前すでに嫡妻となっていても,皇后となるには冊立の儀を要した。平安時代中期以降の事例によると,冊立の儀は,まず女御(にようご)として入内ののちに行われたが,南北朝時代以降,冊立の儀が中絶し,したがって皇后が置かれなくなった。その後,江戸時代の初頭,徳川秀忠の女和子が後水尾天皇の女御として入内し,ついで立后の儀が行われて冊立の制が再興され,幕末に及んだ。しかし明治の皇室典範の制定後は,皇太子が皇位を継承すると同時に皇太子妃は皇后となり,天皇の結婚である大婚にのみ立后の儀が行われ,詔書が発布されることになった。
令制によると元日の朝儀には天皇と同じく皇太子以下群臣の拝賀を受け,皇后の死去は崩御といい,山陵,国忌を設けるなど,天皇に准じている。しかし班位は,太皇太后,皇太后の下,皇太子の上におかれた。なお明治の皇室典範以降においては,皇后は皇太后,太皇太后,皇太子の上と定められた。言辞は令旨,臣下より皇后に申すのは啓,出行は行啓,敬称は殿下(明治以降は陛下)と称するなど,皇太子の待遇に通じるものもある。
令制によると,皇后は太皇太后,皇太后とともに付属職司として中宮職(しき)を充てられ,大夫以下の官人が奉仕すると定めている。しかし聖武天皇の生母で皇太夫人藤原宮子に中宮職を付属させ,安宿媛の立后に当たって,新たに皇后宮職を設けて以来,平安時代中期までは皇太夫人に中宮職を,皇后には皇后宮職を付属させた。一時醍醐天皇の皇后藤原穏子に中宮職を付属させて令制に戻したが,一条天皇のとき藤原定子,同彰子を相ついで皇后に立て,皇后が並立するに及び定子に皇后宮職を,彰子に中宮職を付属させた。こののち新立の皇后に中宮職を,先立の皇后に皇后宮職を付置するのを例とし,それぞれ中宮,皇后宮と称して区別したが,身位はともに皇后である。なお平安時代末から鎌倉時代にかけて,内親王の優遇策として天皇と配偶関係のないものを皇后に冊立した例が11例あるが,初例の白河天皇の皇女媞子内親王に中宮職を付置したほかは,すべて皇后宮職を充てている。なお現制では皇后宮職はおかない。
執筆者:米田 雄介
皇帝の正妻の称号。后には〈きみ〉と〈のち〉の二つの意味があり,皇后にも至尊の地位を表すとする説,天子の後に従うことをいうとする説がある。周王の正妻は王后と呼ばれ,皇后の名称が行われるのは,皇帝号の始まった秦の始皇帝以後である。皇后の別称である椒房は,その宮殿を土と椒を交ぜ合わせたもので塗り,温かく香ばしく実の多いことをねがったことによる。また漢代に建てられた長秋宮の名から長秋とも呼ぶ。皇帝は皇后のほかさまざまの名称をもつ妃嬪(ひひん)を抱えており,それらの定員は複数で,それぞれ位階がある。たとえば唐制では妃3人正一品,六儀6人正二品,美人4人正三品,才人7人正四品であるが,皇后は1人に限られ,また位階を越えた存在である。しかし古の帝嚳(ていこう)の時代には四つの星にたとえられる四妃があり,そのうち最も明るい星が后となったという説がある。漢以後においても,前趙の劉聡,北周の宣帝のように複数の皇后を立てた例があり,これらは北方民族の風習との関連で考えるべきであろう。
皇后の任務は妃嬪たちを率いて皇帝の家庭生活を正しく運営し,それによって天下に範を垂れることである。皇帝と皇后および妃嬪たちによって営まれる家庭生活は,国政一般に対しては私生活であるが,帝王の家庭として特別の意味をもつ。たとえば皇帝が毎春行う籍田の礼は天下の民に対して勧農の意味をもつが,皇后もこれに対応して毎春親蚕(桑つみと養蚕の儀礼)を行った。皇后のこのような位置と役割は多分に家族道徳を重んずる儒家思想によるもので,皇后は婦徳にすぐれ才色兼備たることを要求された。また政治に介入することを厳しく禁じたが,皇帝が幼少,病弱な場合など朝政に干渉した例はまれでなく,西晋恵帝の賈后,唐高宗の則天武后,中宗の韋后などはそこから政治の混乱を招いた。皇后・妃嬪の伝記としては歴代の正史に后妃伝が立てられている。
執筆者:谷川 道雄
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天皇の嫡妻。『古事記』などによれば、上代は大后(おおきさき)と書き、天皇の后妃すなわち后のうちの最上位の者を称したが、中国の制度を採用してから、これに皇后の称をあてた。『令義解(りょうのぎげ)』には、「皇后」の語に「天子之嫡妻」をいうと説明している。令制では皇族から選定するのを原則としたが、藤原不比等(ふひと)の娘光明子(こうみょうし)が聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)の皇后となってからは、藤原氏の女子が圧倒的に多い。光明子以降江戸時代末までの皇后52人のうち、皇族は11人、源(みなもと)、平(たいら)、橘(たちばな)各氏および不明が各1人に対し、藤原氏は37人を数える。明治の皇室典範制定(1889)後は、皇族または五摂家(ごせっけ)など特定の華族の女子と定められたが、現制ではその制限もなくなった。なお、上記52人のほか、天皇と配偶関係のない内親王を皇后と尊称した例が、平安末期から鎌倉時代にかけて11例あり、これを尊称皇后と名づけて妻后と区別することも行われている。
皇后を立てるには、古来「某を皇后と定め賜ふ」(『儀式』)旨の詔(みことのり)を宣示する立后(りっこう)の儀式が行われたが、明治の皇室典範では立后は大婚(たいこん)(天皇の結婚)の場合に限られたため、大婚の儀式が中心となり、大婚当日に立后の詔書が公布されるだけとなった。また皇太子妃は、皇太子の皇位継承と同時に皇后となり、立后の詔を必要としないのも古制と異なる点である。
令制では、皇后は元日などの朝儀に天皇と同じく皇太子以下群臣の拝賀を受け、崩御ののちは山陵、国忌(こき)を設けるなど、天皇に准ずる待遇を与えられたが、そのことばを令旨(りょうじ)といい、敬称を殿下といい、出行を行啓(ぎょうけい)というなど、皇太子の待遇に近い面もあった。現制では敬称を陛下という。また皇后には中宮職(ちゅうぐうしき)が付属し、大夫以下の職員が奉事すると大宝令(たいほうりょう)に定められたが、藤原光明子が立后した際、皇太夫人(こうたいふじん)藤原宮子(みやこ)(聖武(しょうむ)天皇生母)に付属していた中宮職とは別に、令制にない皇后宮職が設置され、以後平安時代なかばまでこの例が続いた。しかし醍醐(だいご)天皇の皇后藤原穏子(おんし)の立后のとき、皇太夫人の廃絶の後を受けて、中宮職が初めて皇后に付置され、さらに一条(いちじょう)天皇のとき2人の皇后が並立する例が開かれてからは、おおむね新立の皇后に中宮職、先立の皇后に皇后宮職を付属し、前者を中宮、後者を皇后宮(略して皇后)とよんで区別した。なお尊称皇后には、1例を除いてみな皇后宮職が付置されたが、明治以後は中宮職が廃止されて皇后宮職が置かれ、したがって中宮の称も消滅した。1945年(昭和20)皇后宮職は廃され、その庶務は侍従職の所管に移った。
[橋本義彦]
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天皇の嫡妻。以前から嫡妻的なキサキである大后(たいこう)はいたが,皇后の称号が定着したのは天武朝と考えられ,大后と共通する面をもつが,まったく同一かどうかは未詳。大宝律令では,文書は令旨・啓,敬称は殿下と称されて平出(へいしゅつ)の扱いをうけ,また中宮職(名称は皇后宮職)の設置,天皇に関する条項の準用が規定されている。出自規定はないが,光明皇后以前は皇族が大半を占め,逆に以後は,諸臣とくに藤原氏出身がほとんどである。一条天皇のときから2后がたち,皇后宮職・中宮職が設置された。なお贈皇后が3人おり,また媞子(ていし)内親王から天皇の姉や伯叔母が准母として立后される例が開かれた。明治期には「皇室典範」で出自を皇族や特定の華族に限ったが,現在そのような制限はない。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…それ以前では,《三国志》魏志倭人伝に,2世紀末から3世紀後半まで女王卑弥呼(ひみこ)と台(壱)与(とよ)とが倭の邪馬台国を支配したとある。《日本書紀》では神功皇后が仲哀天皇の死後69年間摂政したとするが,史実かどうか疑わしい。6世紀の初め,市辺押磐王の女(妹ともいう)飯豊青(いいとよあお)皇女が,清寧天皇の没後皇位につく人がなかったので,約1年間政治をとったといい,《扶桑略記》はこれを飯豊天皇とする。…
…天皇の結婚。大宝・養老令制によると,後宮には嫡妻である皇后のほかに,妃・夫人・嬪(ひん)がおかれ,皇后は内親王に限り,その他は貴族出身の女子としたが,大婚の儀制は制度的にも実際的にも明らかではない。ついで奈良時代中期に夫人から皇后に昇る例が開かれ,さらに平安時代に入ると,妃・夫人・嬪の制がしだいにすたれ,代わって女御・更衣がおかれ,なかんずく皇族や摂関家などの上級貴族の女が女御となり,やがて女御から皇后に昇るのが常例になって女御の地位が高まると,女御入内が大婚に相当するようになり,盛大な儀式が行われた。…
…平安時代の令の注釈書《令義解》は皇后の居所である皇后宮の別称であるとし,したがって太皇太后宮,皇太后宮もまた中宮と称したのだとする。このことから中宮は皇后,皇太后,太皇太后の別称ともみられるが,公式令では皇后などが平出(へいしゆつ)すべき称であるのに対して,中宮は闕字(けつじ)すべき称であり,それだけ略称的な呼称であったかもしれない。…
…古代の皇后あるいは女帝を指す語。仲天皇とも書く。…
…女御には位階や定員についての規定もなく,比較的自由な任命が可能であった。淳和朝以降,妃,夫人,嬪などがほとんど置かれなくなり,ときとして皇后すら置かれなかったこともあったから,後宮における女御の地位は徐々に高まった。10世紀に入ると皇后も女御から昇進するようになり,位階も,やがて入内と同時に従三位に叙せられるようになった。…
…皇后の位につくこと。皇后冊立ともいう。…
※「皇后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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