朝日日本歴史人物事典 「井上通女」の解説
井上通女
生年:万治3.6.11(1660.7.18)
江戸前期の歌人。名は振,玉,感通。讃岐国(香川県)丸亀生まれ。父は儒学者井上本固,母は渡辺孫左衛門の娘栄のちに栄林尼。幼少から女訓書,和歌,物語,漢学を学び,16歳で詩文「処女賦」を作る。天和1(1681)年,22歳で丸亀藩主京極高豊の母養性院に召され,江戸に下る。このとき『東海紀行』が成る。江戸では雨森芳洲,林鳳岡ら著名な学者文人と交わり,その才媛ぶりを聞いて彼女を招請しようとする諸侯も少なくなかった。なお江戸滞在中の日記に『江戸日記』がある。元禄2(1689)年,30歳のときに養性院が没し,丸亀に帰る。このとき『帰家日記』が成る。同年,同藩士三田茂左衛門宗寿と結婚する。以後弟益本の切腹で井上家断絶などの事件に遭うが,堅実な主婦生活を続ける。宝永7(1710)年,51歳のとき,夫に先立たれ隠遁,文芸に親しむ晩年を送った。<参考文献>近石泰秋「井上通女小伝並に年譜」(『井上通女全集』)
(飯倉洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報