チャールズ(英語表記)Charles

翻訳|Charles

デジタル大辞泉 「チャールズ」の意味・読み・例文・類語

チャールズ(Charles)

英国王。
[1600~1649](1世)在位1625~1649。ジェームズ1世の子。1628年権利請願を承認。のち、議会と対立してピューリタン革命を引き起こし、捕らえられて処刑された。
[1630~1685](2世)在位1660~1685。の次男。ピューリタン革命中はフランスに亡命、1660年王政復古とともに即位したが、国民との約束を破り議会と対立。ロイヤルソサエティーの創立者。
[1948~ ](3世)在位2022~。エリザベス2世の長子。1952年、母の即位に伴い王位継承順位1位となり、1958年、プリンスオブウェールズに叙爵。英海軍などで軍務に就く。1981年にダイアナと結婚するも1996年に離婚。2005年、カミラと再婚。2022年に即位。

チャールズ(Ray Charles Robbinson)

[1930~2004]米国の歌手・ピアニストブルースゴスペルやジャズの要素を取り入れた音楽で人気を獲得。ソウルミュージックの先駆者として活躍した。代表曲は「わが心のジョージア」など。レイ=チャールズ。

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精選版 日本国語大辞典 「チャールズ」の意味・読み・例文・類語

チャールズ

  1. ( Charles ) イギリス王の名。
  2. [ 一 ] ( 一世 ) スチュアート朝の王(在位一六二五‐四九)。ジェームズ一世の子。王権神授説を奉じて専制政治を布く。一六四〇年に短期議会を、ついで長期議会を召集したが、ピューリタン革命をひきおこし、四九年に処刑された。(一六〇〇‐四九
  3. [ 二 ] ( 二世 ) スチュアート朝の王(在位一六六〇‐八五)。チャールズ一世の子。ピューリタン革命中はフランスに亡命。王政復古後即位し、スチュアート朝を復活。審査律・人身保護令により王権は制限された。(一六三〇‐八五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チャールズ」の意味・わかりやすい解説

チャールズ
ちゃーるず
Ray Charles
(1930―2004)

アメリカの歌手、ピアノ奏者、アルトサックス奏者、ソングライター。本名レイ・チャールズ・ロビンソンRay Charles Robinson。ジョージア州オルバニーに生まれ、フロリダで育った。病気のため7歳のときに失明し、1937年から1945年まで盲目児童のための州立学校でクラシックのピアノとクラリネットを学ぶ。1947年からいくつかの楽団に参加した後、1948年シアトルに移住。ナット・キング・コール・トリオを範としてマクソン・トリオMcSon Trioを結成、ジャズとブルースで注目され、1949年からレコード録音を始める。1954年に自身の楽団を結成。『アイ・ガット・ア・ウーマン』(1955)、『ハレルヤ、アイ・ラブ・ハー・ソー』(1956)などを皮切りにヒットを連発、『ホワッド・アイ・セイ』(1959)が初のミリオンセラーとなる。『わが心のジョージア』で1960年度グラミー賞最優秀シングル男性歌唱賞を受賞、その後1993年の『ア・ソング・フォー・ユー』などグラミー賞を生前に計12回受賞、2005年には遺作となったアルバム『ジーニアス・ラヴ』で同賞最優秀アルバム賞、ノラ・ジョーンズとのデュエット曲「ヒア・ウィ・ゴー・アゲイン」で最優秀レコード賞など計8部門で受賞した。ブルースの精神を広く現代人に再認識させた功績は大きく、「ジニアス」(天才)と称され、敬愛された。1989年(平成1)にサザンオールスターズの桑田佳祐作『いとしのエリー』の英語詞版『エリー・マイ・ラブ』が日本で発売されて大ヒットした。

[青木 啓]

『ティモシー・ホワイト著、石岡公夫・月村澄江訳『ロック伝説上巻 プロフィールとインタビュー36』(1995・音楽之友社)』『Ray Charles, David Ritz:Brother Ray;Ray Charles' Own Story(1992, Da Capo Press)』


チャールズ(3世)
ちゃーるず
Charles Ⅲ
(1948― )

イギリスの国王(在位2022~ )。11月14日生まれ。イギリス女王エリザベス2世の長男で、父はエジンバラ公フィリップ。1958年7月に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えられる。2022年9月、エリザベスの死去により国王に即位した。ケンブリッジ大学卒業後、1971年から1976年まで海軍で軍務に従事。1981年7月に、スペンサー伯爵家の令嬢ダイアナと結婚。翌1982年、長男ウィリアム、1984年に次男ヘンリーが生まれる。

 しかし、結婚前からの知人の女性カミラ・パーカー・ボウルズ(1947― )との交際が妻ダイアナの不信を招き、夫婦仲が悪化した。1992年ダイアナと別居、1996年8月にはついに離婚した。1997年のダイアナの事故死以後、カミラとの関係は公然化し、2005年4月に正式に結婚した。妻となったカミラは、皇太子妃ではなく、コーンウォール公妃と称することになった(チャールズの国王即位後は王妃)。ダイアナをめぐるスキャンダルの後遺症で、チャールズの国民の人気は低迷している。

[土生修一]

『ジョナサン・ディンブルビ著、仙名紀訳『チャールズ皇太子の人生修業』上下(1995・朝日新聞社)』


チャールズ(1世)
ちゃーるず
Charles Ⅰ
(1600―1649)

スチュアート朝第2代のイギリス王(在位1625~49)。ジェームズ1世とデンマーク王女アンとの間に生まれる。1612年、兄ヘンリーの死により皇太子となり、1625年、王位を継承し、同年フランス王女アンリエッタ・マリアと結婚した。彼の治世は、側近で親友でもあったバッキンガム公が弾劾されるなど最初から議会との衝突が絶えなかったが、ことに国王の課税権をめぐる争いは国制に関する論争にまで発展し、1628年「権利請願」を裁可しなければならない事態に立ち至った。そこでチャールズ1世は、1629年議会を解散し、以後11年間、議会を開かずに自ら政治を執り行った。しかし大主教ロードとストラッフォード伯に支えられたこの統治も、1637年、スコットランドに国教会祈祷(きとう)書を強制したことをきっかけとして崩壊する。祈祷書の強制に怒ったスコットランド人は反乱を起こし(1638)、1640年チャールズ1世は戦いに敗れた。スコットランドとの和約に必要な経費を得るために招集した長期議会は、チャールズ1世の政策を批判し、側近の処刑を要求して、さまざまな国政改革を行った。当初、議会の要求を受け入れていたチャールズ1世も、1642年、自ら兵を率いて議会に乗り込み、結局、内戦の引き金を引くことになった。しかし戦いは国王側に不利に進み、スコットランド軍に投降したチャールズ1世は、議会に引き渡され、1649年1月30日、処刑された。イギリス史上初めて「人民の名において」処刑されたこの国王は、政治的判断に誤りを犯したことは否定できないが、チューダー朝以来山積してきた国家的諸矛盾が、彼の治世に噴き出してしまったという点では不運な国王であったともいえよう。(書籍版 1987年)
[小泉 徹]


チャールズ(2世)
ちゃーるず
Charles Ⅱ
(1630―1685)

スチュアート朝第3代のイギリス王(在位1660~85)。チャールズ1世の子。ピューリタン革命の難を逃れて1645年大陸に逃亡し、父王の処刑後も幾度か革命政府に対し武力抵抗を試みたがいずれも失敗し、困窮した亡命生活を余儀なくされた。しかしクロムウェルの死後の極度の政治的混乱のゆえに、60年議会と交渉のすえブレダ宣言を提示したうえ帰国して、王政復古を実現した。即位後は、亡命時代以来の側近クラレンドン伯を重用して革命の傷跡の修復に努めたものの、議会はピューリタンに対する復讐(ふくしゅう)心に燃え、一連の弾圧立法を通過させた。外交上はオランダと二度にわたり戦争を行い、また1670年にはフランス王ルイ14世とドーバー条約を結んで親仏、親カトリックに傾斜、国内では信仰自由宣言Declaration of Indulgenceを発してカトリック保護策をとったため、議会と衝突し、しだいに反動的な姿勢を強めた。若いころの父の処刑や亡命体験ゆえに融通むげな性格であったといわれ、科学に関心を示し、王立協会を創立して自らパトロンとなる一方で、議会の激しい抵抗を退けてカトリックたる弟ヨーク公ジェームズを次期王位継承者として譲らぬなど、頑強な一面ものぞかせた。ロンドンの大火とペスト大流行、教皇主義者陰謀事件など、彼の治世を通じて社会不安が続き、国王大権を行使してのそのカトリック化政策、議会との確執は、名誉革命の遠因となった。

[大久保桂子]

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百科事典マイペディア 「チャールズ」の意味・わかりやすい解説

チャールズ[1世]【チャールズ】

スチュアート朝イングランドの国王(在位1625年―1649年)。ジェームズ1世の次男。1625年フランス王女と結婚。寵臣(ちょうしん)バッキンガム公の失政と戦費増大で窮乏した国庫財政救済のため増税政策をとり,議会の激しい反対を受けて権利請願を突き付けられ,1629年議会を解散。以後11年間議会を召集せずロードストラフォードの2人を側近として〈徹底政策〉とよばれる専制政治を行った。スコットランドに国教を強制しようとして反抗を受け,1640年短期・長期両議会を召集。これがピューリタン革命の契機となり,1649年処刑された。
→関連項目チャールズ[2世]ノッティンガムハリントンルパート

チャールズ

米国のソウル歌手,ピアノ奏者。本名Ray Charles Robinson。幼いころに視力を失いながらも音楽を学び,N.K.コールの影響を基盤に独自のスタイルを生み出した。1952年,ソロ歌手としてデビュー。《I've Got A Woman》(1955年)や《Hallelujah I Love Her So》(1956年)などのヒットを放って注目を集めた。ジャズリズム・アンド・ブルースゴスペル・ソングの要素を取り入れた歌唱法は,ソウルの原型といわれる。1960年代以降も《わが心のジョージアGeorgia On My Mind》などを発表し成功を収めた。
→関連項目ソウル・ミュージック

チャールズ[2世]【チャールズ】

スチュアート朝イングランドの国王(在位1660年―1685年)。ピューリタン革命で1646年大陸に亡命。父チャールズ1世が処刑されたのちスコットランドで国王と宣言されたのに応えて同地におもむいたが,議会軍に撃破され再び亡命生活を送る。1660年王政復古により帰国して即位。クラレンドンを側近として次第に反動化し,1670年フランス国王ルイ14世と密約を結んで旧教の復活を策し,議会との対立を深め,名誉革命の原因をつくった。
→関連項目ダンビー伯モンマス公

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チャールズ」の意味・わかりやすい解説

チャールズ
Charles, Ray

[生]1930.9.23. ジョージア,オールバニ
[没]2004.6.10. カリフォルニア,ビバリーヒルズ
アメリカ合衆国のミュージシャン。本名 Ray Charles Robinson。しゃがれ声の独創的で情感あふれる歌い方を得意とする,20世紀のポピュラー音楽界を代表する巨匠。ソウル・ミュージックの発展に貢献した。貧しい母子家庭に育つが幼い頃にピアノを始めた。7歳までに完全失明したが,10代でブルース・バンドのピアニストとしてツアーに参加,1950年にはブルースを歌い始める。1950年代後半には徐々に独自のスタイルを確立し,サクソフォーン奏者のデビッド・ニューマンやハンク・クローフォードらとバンドを組んで『トーキング・アバウト・ユー』『ロンリー・アベニュー』などゴスペル・ソングを土台にしたリズム・アンド・ブルースをヒットさせた。『ホワッド・アイ・セイ』(1959)は初のミリオンセラー,『旅立てジャック』(1961)も大ヒット。『わが心のジョージア』(1960)や『愛さずにいられない』(1962)ではストリングオーケストラをバックにし,一方ビッグ・バンド・ジャズでピアノとアルト・サクソフォーンの両方を担当した。10人以上子供をもうけ,20年近く麻薬におぼれるなど私生活は波乱に富んでいた。グラミー賞を 13回受賞。1978年に自伝『ブラザー・レイ』Brother Ray, Ray Charles' Own Storyを出版。

チャールズ
Charles, Robert Henry

[生]1855.8.6.
[没]1931.1.30.
イギリスの聖書学者。ロンドンで牧会ののち,ダブリンで 1898年から聖書ギリシア語教授,オックスフォード大学神学教授 (1906) となり,また 1913年からはウェストミンスターの参事,19年からはウェストミンスターの大執事をつとめた。ユダヤ教偽書や黙示文学の研究に貢献した。"The Apocrypha and Pseudepigrapha of the Old Testament" (1913) の編集者。主著"Religious Development between the Old and the New Testaments" (14) ,"Revelation,ICC" (2巻,20) ,"The Book of Daniel" (29)。

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改訂新版 世界大百科事典 「チャールズ」の意味・わかりやすい解説

チャールズ
Ray Charles
生没年:1930-2004

アメリカの黒人歌手,ピアニスト,作曲家。1932年生れともいわれる。7歳のとき病気で視力を失い,盲学校でピアノを学んで卒業後すぐにプロ・ミュージシャンとなる。さまざまな試みの後,1954年,リズム・アンド・ブルースにゴスペルやジャズの要素を取り入れた独自の音楽を作り上げ,それがソウル・ミュージックを生む基盤となった。《ホワッド・アイ・セイWhat'd I Say?》《わが心のジョージアGeorgia On My Mind》《愛さずにはいられないI Can't Stop Loving You》など日本でも親しまれているヒット曲が多い。
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旺文社世界史事典 三訂版 「チャールズ」の解説

チャールズ(2世)
Charles Ⅱ

1630〜85
イギリス国王(在位1660〜85)
チャールズ1世の子。ピューリタン革命中,フランスに亡命。1660年ブレダ宣言を発して議会に迎えられ,王政復古によりステュアート朝を再興,クラレンドン法典による国教主義,第2次と第3次の英蘭(イギリス−オランダ)戦争などで議会と協調した。のちフランスとドーヴァーの密約を結び,カトリック勢力の増大と王権の強化につとめたため,審査法・人身保護法により議会から抵抗を受けた。

チャールズ(1世)
Charles Ⅰ

1600〜49
イギリス国王(在位1625〜49)
父王ジェームズ1世のあとを継ぎ,王権神授説を奉じて専制政治を行い,ピューリタンを抑圧した。1628年,議会と衝突して「権利の請願」を承認したが,翌29年より11年間も議会を開かず,国教を強いたことに対するスコットランドの反乱を機に1640年議会を召集したが,これがピューリタン革命の導火線となった。敗れて1649年に人民の公敵として処刑された。

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世界大百科事典(旧版)内のチャールズの言及

【エリザベス[2世]】より

…国民の王室に対する期待が,大英帝国の頃とは著しく変化してきている現在,女王はイギリスおよびイギリス連邦の首長として,忠実にその象徴的任務に従い,国事に参加してスピーチを行うほか,世界各国を親善訪問し,75年には公式に日本を訪れている。夫君との間にはチャールズ,アンドルー,エドワードの3王子とアン王女がある。長男の皇太子チャールズCharles Philip Arthur George(1948‐ )は,81年ダイアナ妃と結婚し,77年の女王即位25周年祝典に続いて,国民の祝福を受けた(96年離婚,97年ダイアナ事故死)。…

【ソウル・ミュージック】より

…〈ソウル〉はスラングとして,アメリカ黒人間の共通意識,特有の資質などを感覚的に表し,ソウル・ミュージックも〈魂の音楽〉という意味に解するよりも,アメリカ黒人の自己確認のための音楽といった含みでとらえるべきであろう。 強烈なビートとステージ・アクションで聴衆を引きつけていたリズム・アンド・ブルースがソウル・ミュージックへ転換する先駆をなしたのは,歌手でピアニストのレイ・チャールズと歌手のサム・クックSam Cooke(1935‐64)である。ともに50年代後半に,ゴスペルの要素をリズム・アンド・ブルースに持ち込んだ曲をヒットさせた。…

※「チャールズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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