17世紀のイギリスで生じた革命(1640-60)。その過程でイギリスは一時,君主政が否定され共和政となった。清教徒革命ともいう。
イギリスではチューダー朝最後の君主エリザベス女王の治世までに,農業,毛織物業,貿易などの分野で近代的な発展が着実に進行した。ことに女王が〈中道〉政策をとって英国国教会を確立させ,また基幹産業である毛織物の市場を確保するためにスペインに対抗する政策をとり,1558年来襲したその無敵艦隊を撃退したことによって,国民の間に自信が高まっていた。しかるに絶対王政とはいうものの王権の側には常備軍ならびに地方統治にあたる有給の官僚組織をもたないという弱点があった。一方,宗教改革への協力を通して議会の庶民院はしだいに発言力を強め,議員の選出母体で治安判事として地方行政を担当していたジェントリー(ジェントルマン)層が貴族に代わって台頭してきた。また国教会に対する批判勢力としてピューリタンの勢力も伸張をみせた。
エリザベスの死後スコットランドから来て即位したスチュアート朝の君主のもとで,国王と議会の対立が深まり,革命の前提条件が整えられた。すなわちジェームズ1世は,王権神授説を信奉して国民の批判を圧殺する姿勢をとり,また〈主教なくして国王なし〉と称して国教会への信従を強制し,ピューリタン聖職者を国教会から追放した。そのうえスペイン,フランスのカトリック勢力に従属的な外交を展開したため,国民の誇りは傷つけられ,カトリックに対する警戒心が強くなった。国王の外交や課税問題における独断専行に対して議会は抵抗を試みたが,国王は議会の解散をもってこれにこたえた。議会を中核とする抵抗運動のよりどころになったのは,ピューリタニズムとならんでコモン・ロー(慣習法)であり,法律家E.クックを中心に〈法の優位〉を主張する声が高まった。かくて議会を中心にジェントリー,コモン・ロー専門家,ピューリタンの3者が共同戦線を組んで,国王と宮廷に挑戦した。
1625年父王を継いだチャールズ1世の治世には,緊張はさらに高まり,28年その第3議会は,クックが中心になって〈権利請願Petition of Right〉を国王に提出した。それは献金の強制,議会の同意なき課税,不法な逮捕・投獄,兵士の無料宿泊,軍法裁判の濫用といった国王の行為は,13世紀の〈マグナ・カルタ〉をはじめとするコモン・ローによって保障されてきたイギリス人の権利と自由を侵すものであることを訴えたものであった。このため議会は翌年解散させられ,以後11年間,議会なしの専制政治が行われた。国王は側近にロード大主教とのちにはストラフォード伯を加え,星室裁判所と高等宗務官裁判所を利用してピューリタンに厳しい弾圧を加えた。また,議会の同意を必要としない財源を求めて,関税の強化,騎士強制金の新設,独占権の濫発,罰金の取立てといった便宜策に頼り,さらにこれまで海港都市だけに課されていた船舶税を内陸部まで広げて徴収した。37年この税を不法として訴えたJ.ハムデンの支払拒否を契機にして,反対運動は広がり,これまで無給で地方行政を担当していたジェントリー層はいっせいに政府に背を向けた。しかも同年国王がスコットランドに国教会の祈禱書と儀式を強制したことに反対して,エジンバラで暴動が起こり,みずから兵を率いて鎮圧に向かった国王は猛烈な抵抗にあって上陸できず引き揚げた。戦費に窮した国王は,40年春議会を開いたが,議会は要求に応ぜず3週間で解散させられた(短期議会)。スコットランド軍は越境して侵入し,国王は賠償金の支払を約して和を結ばざるをえなかった。その財源を求めて40年11月召集されたのが〈長期議会〉である。
長期議会はJ.ピムを指導者にしてただちに改革に着手した。まずストラフォード伯ら国王側近の責任を追及し,ついで専制支配機構を否定してその再現の可能性を除去するための一連の議会立法をつぎつぎに通過させた。議会を開かない専制を不可能にする〈三年議会法〉,議会自身の同意しない解散に反対する法,議会の同意なき関税課税を禁止する法,星室裁判所・高等宗務官裁判所を廃止する法,船舶税の不法を宣言する法などが主要なものである。これらの改革立法は満場一致で議会を通過した。絶対王政の専制支配に歯止めをかけて,国王大権の行使を議会制定法の枠内に制限しようとする改革の基本線には,議員も異論がなかったのであり,王政復古後にも継承されることになる,この革命の国制上の主要な成果は,この段階でほぼ出そろっていた,とみることができる。
しかし内外の情勢は,議会による改革をこの時点で止めるのを許さなかった。1641年秋アイルランドでカトリック教徒の反乱が起こり,イングランド人新教徒が多数虐殺されたとの知らせが伝えられると,国王の反革命的策動を封ずるために,国王のもつ宗教権・軍事権をも議会が握ろうとする主張が強まった。穏健な改革派はここで国王支持に転じて,議会には分裂の兆候が現れた。国王の悪政を列挙して改革の推進を訴えた〈大抗議文〉が,わずか11票差で議会を通過したのが,その現れである。ところが国王は,42年初め5人の主要議員を逮捕しようとする暴挙に出て失敗し,ロンドンを離れてヨークに向かい,戦闘準備にとりかかった。和平交渉は決裂して,8月第1次内乱が始まる。ここに相戦うことになった議会派(円頂党)と国王派(騎士党)の両派は,地域的にみて前者がロンドンを中心とする先進的な東部・南部,後者が遅れた西部・北部を勢力基盤にし,宗教的には前者ではピューリタンが主体となり,後者では国教徒が大半を占め一部にカトリック教徒も加わっていた。また社会層の点では,国王派についたのは貴族およびジェントリーの大部分とそれに従った農民であり,議会派を構成したのは,貴族およびジェントリーの一部,ヨーマン,さらには商工業者であった,とする同時代人の証言もある。しかし,この革命の陣営構成は図式的な把握を許さないほど複雑であった。当時の人々には州や村など自分の住む地域共同体の利害を守ろうとする気持ちが強く,したがって地縁や血縁の関係の及ぼす力も強く,また両派のいずれにも分類できない中立派が幅広く存在して,独自の行動をとることもあった。このように革命における階級対立がきわめてあいまいであり,しかも農民や都市の民衆が革命の性格を決定づけるほどの力をもちえず,革命はもっぱら支配階層内部の分裂と抗争という形をとって進行した点に,この革命の大きな特徴が認められる。
内乱開始後ほぼ2年間,戦局は国王軍に有利に展開した。その原因は,軍事的経験を積んだ貴族に率いられた国王軍と,地方の民兵隊,義勇軍を主力とした議会軍の質的な差にあった。このような議会軍の弱点を見ぬき,革命遂行のためには軍隊の改革が不可欠であると認識し,その改革を実現させて議会軍の勝利に寄与したことが,O.クロムウェルをしてこの革命の指導者たらしめた最大の理由である。内乱開始直後から熱心なピューリタンから成る騎兵隊を率いて議会軍に参加したクロムウェルは,1643年,劣勢の議会軍がスコットランドの軍事援助を求めたのを契機にして議会派内部で生まれた〈長老派〉と〈独立派〉の対立において,後者の中心人物と目されるようになった。44年7月マーストン・ムーアの戦勝によって発言力を高めたクロムウェルは,長老派に属する貴族の戦闘指導を厳しく批判,翌年議会軍を〈ニューモデル軍〉に改組することに成功し,6月のネーズビーにおける勝利によって第1次内乱を終結させ,国王を捕虜にした。しかし勝利を収めた議会派の内部では対立がいっそう強まった。軍隊を追われた長老派は議会ではまだ多数を占めていたので,内乱終結を理由に軍隊を解散することによって独立派の弱体化を図ったためである。この軍隊の危機に際して一般兵士層の利害を守るために登場したのが,〈レベラーズ(平等派)〉であった。47年秋レベラーズは,人民主権の共和国の構想をもつ憲法草案〈人民協定〉を提出し,独立派軍幹部に批判を加え革命の徹底を訴えた。クロムウェルは〈パトニ討論〉を開いて,説得を通して陣営の解体を防ぎ,おりから反革命勢力の策動によって再発した第2次内乱を戦いぬいた。48年暮れには議会から長老派議員が追放され(首謀者の名をとって〈プライド大佐のパージ〉と呼ばれる),議会は独立派だけで構成される残部議会Rump Parliamentとなった。このころから国王に対する不信は高まり,それを背景に設けられた特別法廷は,国王チャールズ1世を〈専制君主,反逆者,殺人者,国民に対する公敵〉として死刑を宣告し,49年1月30日ロンドン市民の見守るなかで国王は処刑された。
国王処刑につづき君主政と貴族院が廃止され,革命は最高潮に達した。しかしこれまでレベラーズと手を結んで革命を推進してきた独立派は,みずからの手に成果を掌握しようとしてレベラーズとの同盟を解消することを決意し,49年春給料未払を理由に従軍を拒否したレベラーズの反乱を鎮圧,その後にイギリスは一院制の共和国(〈コモンウェルス〉)となる旨の宣言を行った。ついでクロムウェルは反革命勢力の掃討を理由に,アイルランドとスコットランドに遠征を企て,前者においてはカトリックに対する報復の残虐行為と大規模な土地の収奪を行って,その植民地化を促進した。これが今日の〈アイルランド問題〉のひとつの原点となっている。また51年議会が〈航海法〉を制定したため対オランダ戦争が勃発し,3回にわたって戦われたこの戦争(1752-54,65-67,72-74)を通して,イギリスはオランダの海上覇権に挑戦し,植民地帝国建設に向けての第一歩を踏みだした。この間,暫定的に共和政の政権を担当していた残部議会は,いたずらに保身を図って軍を敵視したため,53年4月クロムウェルはこの軍の不満を背景にして議会を武力解散。その後,推薦議員のみで構成された〈指名議会〉が開かれたが,社会改革に熱意をみせたため保守派の反発を買い,自発的に解散させられた。
53年秋クロムウェルは,軍幹部の用意した憲法〈統治章典〉に従い,護国卿という終身の地位についた。議会の存在は否定されなかったとはいえ,護国卿政権は軍隊士官とピューリタンによる独裁にほかならず,内外左右の反対勢力に囲まれて政権の基盤は狭く,きわめて不安定であった。そこで55年国王派の反政府一揆が勃発したのを理由に,全国を12の軍管区に分けて軍政官制度を実施したが,その露骨な剣による支配はかえって政権に対する反発を強めた。議会はクロムウェルに王冠を提供して君主政に復帰することによって,批判と摩擦を回避しようとしたが,軍幹部の反対にあったクロムウェルは国王になることを断念せざるをえなかった。混乱を避けるには,軍隊を中心に革命勢力の再結集を図って共和政を守りぬくか,あるいは議会に基盤をもつ土地所有者の意向に従うか,のいずれかしかなかった。前者の可能性は58年9月クロムウェルが病没したため消滅した。護国卿を継いだ彼の次男リチャードは,軍と議会の板ばさみになって翌年辞職し,護国卿政権は崩壊した。無政府状態の混乱のなかで議会を中心にして事態の収拾を図る動きが大勢を占め,60年5月国王の遺児チャールズ(2世)が帰国して,王政復古となった。
イギリスにおいては,王政復古の直後から18世紀までは,この事件を〈大反乱Great Rebellion〉とみる国王派の立場からの把握が主流を占めた。これには王政復古体制の中心人物クラレンドン伯の《反乱史》(1702-04)の影響が大きい。しかし18世紀後半以降,急進主義の運動が展開すると,17世紀史に対する再評価の気運が生まれ,当面の課題であった議会改革の先駆としてのこの闘争のもつ意義が見直されて,これまでの〈反乱〉に代わって〈内乱〉と呼ぶ傾向が強くなった。立憲君主制の成立という視点からすれば,のちの〈名誉革命〉のほうに高い評価が与えられたものの,17世紀以降のイギリスの順調な発展をヨーロッパ諸国と対比させて肯定的にとらえる見方は,19世紀中葉にT.B.マコーレーによって〈ホイッグ史観〉として定式化され,それが長らくイギリスにおける正統史観としての座を占めた。そしてこの史観の副産物として,〈内乱〉におけるピューリタンの貢献をたたえる〈ピューリタン革命〉という呼称も広く使われるようになった。一方,マルクス主義に従ってこの革命を世界最初の〈ブルジョア革命〉とする把握も現れたが,その場合,のちのフランス革命と比較してこの革命のもつ妥協的で不徹底な性格が強調された。たしかにこの革命が結局は君主政と国教会を廃止することなく,貴族政的な体質を温存させることになったのは認めねばならない。しかし,革命中に後見裁判所が廃止(1646)されたことによって土地に対する私有財産権が法的に確保され,それを通して資本主義の展開をいっそう促進した点と,また航海法が革命後も存続したばかりか補強されて,重商主義的植民地帝国の発展を支えた点の2点を見落としてはなるまい。その意味でピューリタン革命は,イギリス近代化の画期をなした。
ピューリタン革命,とりわけ国王チャールズ1世の処刑という事実そのものは,そのほぼ1年半後,オランダ風説書によって日本に伝えられたが,非公開文書であったためこのニュースはきわめて限られた人の目にしかとまらなかった。したがってこの革命に対する認識が深化していくのは,明治維新後ことに自由民権運動期を待たねばならなかった。すなわちF.P.G.ギゾーなどの著書の翻訳を通してこの革命の史実がしだいに伝えられ,それと並んで啓蒙的な書物,たとえば外山(とやま)正一の《民権弁惑》(1880)などにはかなり詳細な革命の経過叙述がみられるようになった。だが自由民権運動の原点がフランス革命に求められたことや,当時イギリスが〈万事の改革すでに成りたる〉立憲君主制のイメージでとらえられていたことが相まって,この〈革命〉への全面的な認識には至らなかった。ただしキリスト教信者の間には〈ピューリタン〉に対する親近感がはぐくまれ,その線に立つ竹越与三郎(三叉)が当時としては秀抜なクロムウェル伝(《格朗穵》1890)を書いたほか,ピューリタンの英雄クロムウェルに寄せた熱い共感は,木下尚江,内村鑑三などの生涯に大きな影響を及ぼした。ピューリタン革命に関する本格的な研究が行われるようになったのは第2次大戦後のことで,日本の近代化のゆがみのもたらしたものへの反省に立って,世界最初のブルジョア革命としてのこの革命の原因と性格を問うことが,西洋史学界におけるひとつの中心的な課題となり,数多くの研究が蓄積されている。
→王政復古 →名誉革命
執筆者:今井 宏
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17世紀のなかば、イギリスに起きた内乱を伴う政治変革(1640~60)。清教徒革命ともいう。なお、わが国では、革命の期間を1642~49年、あるいは、1642~60年とする見方もある。しかし、革命の成果の多くが1640~41年に達成されたこと、1649年の内乱終了後も政治変革が続行されたことを考えるならば、長期議会の開始から王政復古までを革命の期間とみるのが妥当である。
[小泉 徹]
革命の原因は複合的なものであったが、直接的には、1630年代のチャールズ1世親政下でのロード、ストラッフォードらによる強権的な政治に国民各層の不満が高まったことにある。ことに船舶税など議会の同意を経ない課税の強行、星室庁および高等宗務官裁判所を通じての政治犯の弾圧などが人々の憤激を買った。しかしその背後には、ますます増大する行政費用をだれが負担するか、また宗教上の問題において最終的決定権をもつのはだれか、といった基本的な問題が横たわっており、それらの問題はすでに1620年代に争点になっていたのである。1621年に始まり1628年の「権利請願」に至る議会における論争がそれを示している。
ところで、それよりも100年ほど前、ヘンリー8世(在位1509~47)は同様の財政問題に突き当たり、中小地主を中心とする議会の支持を背景として、宗教改革を実行し、修道院の財産を奪って、一時的にせよこの問題を解決していた。しかしその後、チューダー朝の君主は、エリザベス1世も含めてみなこの問題の根本的な対策を怠っていたため、17世紀になると、スチュアート朝の君主は問題の解決を迫られた。彼らは国王の封建的諸権利を盾に財政の立て直しを図ったが、結局その負担を背負うことになったのは、宗教改革の結果、修道院の財産を手に入れて上昇してきた中小地主層ジェントリであった。したがって結果としてみれば、スチュアート朝の国王は王政の最大の支持基盤を自ら掘り崩すことになり、このジェントリの離反こそが、スチュアート朝の命取りになったということができよう。
[小泉 徹]
革命の直接的きっかけは、1637年、チャールズ1世がスコットランドに国教会の祈祷(きとう)書と儀式を押し付けたことにある。スコットランドは当時ピューリタンの一派である長老教会主義を国教としていたためこれに反発し、イングランドとの戦争の準備を始めた。これに対して国王は自ら兵を率いて乗り込もうとしたが失敗し、戦わずして兵を引き揚げた。しかし戦費を補うために議会を開かねばならず、1640年4月、11年ぶりで議会が招集された。ところがこの議会は国王の政策を非難することに終始したため3週間で解散され、「短期議会」とよばれるようになる。その間、戦争準備を整えたスコットランドがイングランド北部に侵入、国王は賠償金の支払いを約束して和平を結び、その財源を得るべく同年11月には、ふたたび議会を招集せざるをえなくなった。「長期議会」とよばれるこの議会はただちに改革に着手し、3年議会法、議会の同意に基づかない課税に反対する法、星室庁および高等宗務官裁判所の廃止法など一連の改革立法を行った。これらの改革は、イギリス人が古来から有してきた神聖不可侵の権利を回復するものとして全会一致で決定されたが、1641年秋、アイルランドでのカトリック教徒の反乱が伝えられると、議会内改革派はよりいっそうの改革を推進するために、国王の悪政を列挙した「大諫議書(かんぎしょ)」を議会に提出した。しかし保守派がこれに反対したため、1641年11月、議会は王党派と議会派に分裂する。これをみた国王は翌年1月、議会に乗り込んでピムら議会派指導者を逮捕しようとしたが失敗し、ロンドンを離れて戦争の準備にとりかかった。こうして同年8月、両派の間で戦闘が開始される。戦闘は各州内部で入り乱れて戦われ、初期は王党派が有利であったが、しだいに訓練を積んだ議会派が巻き返し、1645年、クロムウェルの率いる「新型軍」New Model Armyの活躍によって、議会派はネーズビーNasebyで決定的勝利を収めた。
しかし勝利を得た議会派内部で、改革の方向をめぐって対立が生じた。国王との和解を望む議会の主流派すなわち長老派と、軍隊の力を背景に徹底抗戦を主張する独立派との対立である。ところが両派の対立、駆け引きのうちに、王党派が反乱を起こし、第二次内乱となった(1648)ため、独立派は最左翼のレベラーズと結んで王党派を破り、政治の主導権を握った。そして実力をもって長老派議員を議会から追放し(プライドの追放、1648年12月)、国王を処刑(1649年1月)して、さらにレベラーズをも弾圧した。しかしこのようにして成立した共和政は強力な支持基盤をもたず、一方で有力ジェントリから見放され、他方で軍隊の圧力に抗しきれず、自己保身に終始した。
このため独立派の指導者クロムウェルは、1653年4月、実力で議会を解散し、指名制の議会を招集して「聖者」による支配を行おうと試みる。クロムウェル自身は、軍幹部の用意した「統治章典」によって統治すべく「護国卿(きょう)」の地位についた。そして全国を最初11、のちに12の軍管区に分けて、それぞれに軍政官を置いて地方行政を担当させた。しかし、この支配はまったく支持基盤を欠いており、そのうえ軍政官には身分の低い者が多かったので、地方行政は麻痺(まひ)状態に陥った。この権力の空白状態のなかで王党派と議会派との事実上の和解が進行し、王政復古を望む声が高まってくる。1658年クロムウェルが死去すると共和政の存続は絶望的になり、1660年、スコットランド軍およびイングランド軍総司令官モンクが準備を整えて、チャールズ1世の子、チャールズ2世を王位に迎え、ここにピューリタン革命は終息した。
[小泉 徹]
王政復古の結果、共和政は終わりを告げたが、ピューリタン革命がすべて失敗に帰したわけではない。長期議会の初期に可決された改革立法の多くがそのまま認められ、イギリスの国制のなかに定着したからである。また宗教問題においても寛容の原則が認められ、しだいにイギリス社会に定着してゆく。また革命中に王党派から没収されて第三者の手に渡った土地も、ほとんどそのまま第三者のもとに残された。
ピューリタン革命の全体像については今日さまざまな解釈がある。当時実際に戦った人々の意識のうえでは、それはカトリック反動を阻止するピューリタンの正義の戦いであった。しかし革命の主要な課題は宗教問題にとどまらなかった。ホイッグ史観に代表される19世紀の歴史学は、この革命を、国王の圧政に抵抗した議会が、ついに自らの権利を守り、輝かしいイギリス議会政治の基礎を固めたものと考えた。しかし革命の全期間を通じて、議会が主導権を握っていたのはわずかな時間にすぎない。また、この革命は新興の市民階級が封建的諸勢力を打倒した市民革命であるという見方もある。しかしだれが市民階級でだれが封建的勢力なのか、17世紀の世界のなかでそれを区別するのは困難である。またこの革命は17世紀中葉にヨーロッパ全域に現れた一連の内乱、「ルネサンス国家の危機」の一現象であるとする見解もある。しかしこの説明だけでは、なぜイギリスにおいてだけ「危機」がこのような経過をたどったのかは説明できない。
このように多様な解釈のなかにあっても、いくつかの点は一致して認められている。すなわち、国王の封建的諸権利とそれに伴う機構が廃止された結果、イギリスでは事実上排他的所有権が確立し、農業の分野における資本主義の発展を、促進したとはいえないまでも、それを阻止する要因が除去されたということである。そして、その恩恵を被ったのがジェントリを中心とする土地所有者階層で、彼らこそが近代イギリス社会の担い手となったということである。したがってピューリタン革命は、結果として近代イギリス社会の一つの起点を形づくったということができるであろう。(書籍版 1988年)
[小泉 徹]
『浜林正夫著『増補版イギリス市民革命史』(1971・未来社)』▽『今井宏著『イギリス革命の政治過程』(1984・未来社)』▽『R・C・リチャードソン著、今井宏訳『イギリス革命論争史』(1979・刀水書房)』
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イギリス革命ともいう。イングランドの絶対主義体制を崩壊させた革命(1640~60年)。国王に挑戦した議会派にピューリタンが多かったところから,19世紀に使われるようになった用語。世界で最初の市民革命とみる説も強い。チャールズ1世の専制によって宮廷に対する地方の反感が高まったなかで,スコットランドとの主教戦争の敗北が導火線となり,1640年召集された長期議会が改革に着手。国王大権を議会の制限下に置く一連の改革法を制定することに成功したが,41年国王から軍事権と宗教権を取り上げようとしたところから,議会派と国王派の二派に分裂,42年秋から内乱となる。当初,戦況は国王軍に有利に展開したが,クロムウェルの鉄騎隊を核としたニューモデル軍がつくられて以後は議会軍が優勢に転じ,ネーズビで勝利を収めた。独立派は議会から長老派を追放し,国王を49年1月処刑,一院制の共和国を成立させた。51年航海法を制定して海外発展の基礎をつくったが,議会と軍との対立の深まりを背景にクロムウェルは53年長期議会を武力解散し,護国卿に就任した。政権の支持基盤は狭く,クロムウェルは独裁的な傾向を強めたが,その死去によって政権は崩壊し,60年王政復古を迎えた。しかし内乱の勃発以前に制定された改革立法は継承され,名誉革命によって再確認された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…それ以前のイギリスは,ユーラシア大陸の辺境に位置した後進的な存在にすぎず,大陸諸国の圧力のもとで国民国家としての自立の道を模索していた。17世紀のイギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)を契機にして,イギリスはそれまでの大陸諸国に〈学ぶ〉立場から,模範として〈学ばれる〉立場に変わった。日本がイギリスとの本格的な交渉を開始した時点が,ビクトリア女王のもとでイギリスが最も隆盛を謳歌した時期であったことが,日本のイギリス像に影を落としつづけたといえよう。…
…彼と同時代またはその後の劇作家には,風刺喜劇の型を確立したベン・ジョンソン,ロンドンの民情を背景にメロドラマを多作したトマス・デッカー,高揚された詩的表現を用いて迫力に富む流血悲劇を作り上げたジョン・ウェブスター,冷徹皮肉な人間性の観察者トマス・ミドルトン,純化された情念の輝きを耽美的に追求したジョン・フォードなどがいる。彼らの作品は移り変わる観客の嗜好と人気の波にもまれつつ,時に10に及ぶ数の劇場で上演され続けたが,ピューリタン革命勃発後の1642年にロンドン中の劇場が閉鎖されることになって,エリザベス朝演劇はその幕を閉じた。なお,こうした大衆演劇とは別に,おもに宮廷や貴族の邸宅でしばしば上演された仮面劇もまた,この時代に完成を見たもう一つの演劇的ジャンルとして,無視することはできない。…
… ジェントリーの勃興については,学説上二つの対立する主張がある。一つは,宗教改革からピューリタン革命に至る1世紀間には,おりからのインフレによって,伝統的な固定地代を徴収する貴族が没落したのに対し,競争地代を徴収し,毛織物その他のマニュファクチュア経営,石炭業などをも展開した資本家的なジェントリーが急速に勃興したというR.H.トーニーの主張である。これに対して,そのような事実は存在せず,貴族であれ,ジェントリーであれ,宮廷内に官職を確保しえた一族つまり〈宮廷派〉は勃興し,それができなかった一族〈カントリー派〉は没落を余儀なくされたとするH.R.トレバー・ローパーの学説が対立,〈ジェントリー論争〉の名を与えられている。…
…カリブ海の西インド諸島でも,バルバドスなどに早くから拠点が築かれた。しかし,〈旧帝国〉の枠組みが確立したのは,ピューリタン革命期で,クロムウェルによるアイルランド征服,ジャマイカ占領,東インド会社改組などがなされたうえ,重商主義的植民地政策の基礎をなす航海法の体系も整備された。王政復古(1660)後,3度にわたる対オランダ戦争に勝利したイギリスは,名誉革命以後,ファルツ(アウクスブルク同盟)戦争,スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争,七年戦争という四つの対フランス戦争を通じて北アメリカの東半部,アイルランド全域等からなる〈旧帝国〉を完成する。…
…ピューリタン革命で処刑された,イギリス・スチュアート朝の国王。在位1625‐49年。…
…なお,日本については〈農地改革〉,東欧諸国については各国名の項目,発展途上地域については〈ラテン・アメリカ〉などの項目を参照されたい。
【イギリス,フランス,ドイツ】
[イギリス・ピューリタン革命の土地改革]
17世紀中葉に,絶対王政を廃絶した勢力の議会的重商主義といわれる諸政策の一環としてなされた。15世紀以来の賦役の金納化,商人的新地主層の進出,独立自営農民の成立,共同体の解体傾向などによって,イギリスの農奴制は事実上崩れていたが,この線を延ばして近代的大土地所有と資本家的大借地農の形成をもたらす政策がとられた。…
…ニューイングランドでは祖国イングランドで達成できなかった改革の理想を〈神政政治〉として実現しようとした。 しかしイングランドではチャールズ1世の即位後ピューリタンに対する弾圧は激化し,ついに40年長期議会召集を機にピューリタン派が多数を占めた議会と国王とが衝突,ピューリタン革命が起こった。43年からウェストミンスター教会会議が開かれ国教会を長老教会体制に改革する計画が進められたが,戦争の推移の中で独立派が優勢となり,49年チャールズ王を処刑しO.クロムウェルによる独立派主流の共和政が敷かれた。…
…むしろ中世末から16世紀いっぱいまではマグナ・カルタは現実政治でほとんど何の役割も演じていない。イギリス立憲政治の発展にとって決定的な時期は,ピューリタン革命と名誉革命とで特徴づけられる17世紀である。マグナ・カルタが今日のように立憲政治の礎としての意義をもたされるのは,この時期にスチュアート朝の専制政治と戦った人々がみずからの主張のよりどころをここに求めたことから始まる。…
※「ピューリタン革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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