保土原村
ほどわらむら
泉田村の南、釈迦堂川の西岸、江花川南岸の氾濫原と緩丘に立地。主集落の西に端村の古戸がある。「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条によると宇治合戦の手負者交名中に当地出自とみられる保土原三郎がみえる。嘉吉三年(一四四三)二月二二日の保土原満種一揆契状(伊勢結城文書)にみえる満種も当地居住者とみられる。天正二年(一五七四)正月晦日の田村清顕書状(伊達家文書)に「保土原外城」とみえ、田村清顕が須賀川の二階堂盛義攻撃のため、同月二七日岩瀬郡河東郷へ出陣、二八日須賀河籠口を押通り当地などを焼払っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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