八太庄
はたのしよう
古代の二方郡八太郷(和名抄)の郷域に成立したと思われる庄園。庄域は岸田川の上流域、現温泉町の南西部にあたると考えられる。長寛三年(一一六五)六月日の阿闍梨聖顕寄進状案(高山寺文書)によると二方郡温泉郷竹田・寺木村の四至のうち西は八太郷上保、北は同郷下保を境とした。温泉郷は同年立券され温泉庄となるが、承安四年(一一七四)九月九日の後白河院庁下文案(同文書)によれば、同庄下司平季広が庄内一五条三里八坪字天谷の領有をめぐって「今熊野御領八多庄官等」と争っており、八太郷が長寛三年から承安四年の間に立券され、京都新熊野社領八太庄となったものと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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