庄内(読み)ショウナイ

デジタル大辞泉 「庄内」の意味・読み・例文・類語

しょうない〔シヤウナイ〕【庄内】

山形県北西部の地域名。庄内平野を中心とし、酒田・鶴岡両市がある。最上川が流れ、米の産地として知られる。名は、中世に大泉氏の所領を大泉荘内といったことによる。
山形県北西部、東田川郡の地名。庄内の中部にあり、余目あまるめ駅で羽越本線陸羽西線が接続する。

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日本歴史地名大系 「庄内」の解説

庄内
しようない

現都城市および北諸県きたもろかた郡の三股みまた町・山田やまだ町・高崎たかざき町・高城たかじよう町・山之口やまのくち町、現鹿児島県曾於そお財部たからべ町などを含む地域をさす広域名称。名称は島津庄一円庄のうちであることに由来するか。

永和二年(一三七六)六月五日の野辺盛久書状写(禰寝文書)によれば、九州探題今川了俊の大将今川満範とともに相良前頼らが、今川氏と対立する島津攻めのため近日「庄内」に下向することを禰寝氏に伝え、その発向を促した。前頼はこの探題方の島津氏への対抗を「南郷並庄内合戦」と位置づけている(年欠八月一三日「相良前頼書状」同文書)。同年冬、今川満範に率いられた肥後・日向・大隅・薩摩の国人らは庄内に下向して北郷・樺山両氏の籠る都城を包囲。翌年一月都城援護のため島津氏久は志布志しぶし(現鹿児島県志布志町)を発し、てんヶ峰に着陣し、二月末から三月にかけて都城周辺などで合戦があった(「山田聖栄自記」、「北郷義久譜」旧記雑録、年月日欠「土持栄勝軍忠状」肝付文書など)。後世の永正一六年(一五一九)九月重陽日付の中野歳信答申書(肝付文書)によれば、島津氏久は還俗して新納氏を継いだ忠泰(久泰、康応元年生れ)に「庄内三俣之内、名々十六町」を与え、三俣高城みまたたかじよう(現高城町)東五〇〇町の軍勢の指揮権を与えたという。なおこのとき新恩加増された三俣の内の地は六〇町ともされる(新納氏系図)

文明六年(一四七四)の南九州の領主配置を記した文明六年三州処々領主記(都城島津家文書)には、庄内の各城の領主として安永やすながの北郷義久、野々美谷ののみたにの樺山長久ら、三俣高城の新納越後守、庄内山田(現山田町)の肝付大炊介らがいたことがみえる。文明一六年の伊作氏と新納氏による飫肥おびなどをめぐる三国を巻込んだ合戦において、都城の北郷氏らは一貫して守護島津忠昌方であった。伊作氏は同年一二月三日飫肥南おびなん郷を攻めたが酒谷さかたに(現日南市)の和泉隠岐守が城を守り抜いたので、飫肥と庄内間の通路は確保された(「文明記抄」樺山文書)。この混乱に乗じて伊東氏は飫肥へ南下してきており、同月五日付の島津武久(忠昌)の書状(旧記雑録)には「庄内寄郡辺、先以各々進発之由申付候」「定而彼境可取組候」と記している。この合戦の和睦成立後、伊東氏は飫肥の替りとして「庄内千町」を島津氏から獲得し知行したという(日向記)。この「庄内千町」は「三俣千町」と同義であろう。永正九年とみられる七月一二日、薩摩守護島津忠治は禰寝尊重に宛て、宮崎からの使者の報告として伊東氏の宮崎での動きを伝えて庄内への軍勢派遣など合力を依頼している(「島津忠治書状写」禰寝文書)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「庄内」の意味・わかりやすい解説

庄内(町)
しょうない

山形県北西部、東田川郡(ひがしたがわぐん)にある町。2005年(平成17)、東田川郡余目町(あまるめまち)、立川町(たちかわまち)が合併して成立。町域は南北に長く、北部は庄内平野のほぼ中央に位置し、南部は月山(がっさん)北麓(ほくろく)から続く山地が占める。その山地を立谷沢(たちやざわ)川が北流し、町の北東端で最上(もがみ)川と合流する。最上川に平行してJR陸羽西線が走り、余目駅でJR羽越本線につながる。また、国道47号、345号が通じる。北部の余目地区の地名は『和名抄(わみょうしょう)』に載る古代余戸(あまるべ)郷に由来する。地区の中心となる余目は、かつては庄内米の集散地として栄え、現在も庄内町役場の所在地となっている。一方、中部から南部を占める立川地区の中心地の狩川(かりかわ)には、最上家の部将で北楯大堰(きただておおぜき)を開削したことで知られる北楯大学利長が配された。清川(きよかわ)は最上川舟運の要衝地で関所が置かれていた。また、幕末の志士清河八郎の出身地でもあり、記念館がつくられている。

 基幹産業は農業で、米作単作地帯であったが、近年では養豚や花卉(かき)栽培も行われている。余目油田があり、天然ガスの利用も進んでいる。春から秋にかけて「清川ダシ」とよばれる強風が吹くが、これを利用した風力発電が行われている。さらにシンボル風車を観光開発に用いた「風車村」や学習施設「ウィンドーム立川」などもつくられている。磐梯(ばんだい)朝日国立公園の一部で、また最上川県立自然公園がある。面積249.17平方キロメートル、人口2万0151(2020)。

[編集部]



庄内(大分県)
しょうない

大分県中部、大分郡にあった旧町名(庄内町(ちょう))。現在は由布市(ゆふし)の南西部にあたる地域。1954年(昭和29)阿南(あなん)、東庄内、西庄内、南庄内、阿蘇野(あその)の5村が合併して庄内村となり、翌1955年町制施行。2005年(平成17)挾間(はさま)町、湯布院(ゆふいん)町と合併して市制施行、由布市となった。旧町名は中世末期の通称による。標高1000メートル内外の鐘状火山群の城(じょう)ヶ岳、冠(かんむり)山(烏帽子(えぼし)岳)、花牟礼(はなむれ)山などに囲まれ、大分川とその支流、阿蘇野川、小挟間(おばさま)川、芹(せり)川の河谷低地が主部で、河岸段丘が発達し、本流沿いにJR久大(きゅうだい)本線と国道210号が走る。古代阿南郷の一部。近世は府内(ふない)、延岡(のべおか)、肥後(ひご)、岡藩領に分属していた。近世の用水路によって段丘面は水田化され、米、ナシ、肉用牛、ブタ、シイタケが主産物。阿蘇野川の渓仙峡(けいせんきょう)と黒岳原生林が観光地。

[兼子俊一]

『『庄内町二十年の歩み』(1975・庄内町)』


庄内(福岡県)
しょうない

福岡県中央部、嘉穂郡(かほぐん)にあった旧町名(庄内町(まち))。現在は飯塚(いいづか)市の東部を占める。旧庄内町は1958年(昭和33)町制施行。2006年(平成18)飯塚市に合併。旧町域は小丘陵が広く分布、遠賀(おんが)川の支流庄内川が中央部を北流して沖積低地を形成。JR後藤寺(ごとうじ)線、国道201号が通じる。明治中期以降、炭鉱町として発展したが、1964年までにすべての炭鉱が閉山され、急速に衰退、鉱害も復興の大きな障害となった。現在は農業が中心で、稲作やカキ、ブドウ栽培が行われ、特産品に庄内フキがある。産炭地振興の工業用地が造成され、企業誘致も進行している。神功(じんぐう)皇后伝説の綱分八幡宮(つなわきはちまんぐう)があり、神幸祭は県の無形民俗文化財に指定されている。

[石黒正紀]

『『庄内町誌』(1966・庄内町)』『『庄内町誌』全2巻(1998・庄内町)』


庄内(大阪府)
しょうない

大阪府北部、豊中市(とよなかし)の一地区。旧庄内町。神崎(かんざき)川と猪名(いな)川の間の低地の農村であったが、大阪市に隣接するため、大正末期から工場が立地するようになった。再開発計画が進められ、グリーンタウン島江(住宅団地)などがつくられている。阪急電鉄宝塚線、国道176号が通じ、名神高速道路の豊中インターチェンジがある。

[編集部]

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改訂新版 世界大百科事典 「庄内」の意味・わかりやすい解説

庄内[町] (しょうない)

山形県東田川郡の町。2005年7月余目(あまるめ)町と立川(たちかわ)町が合体して成立した。人口2万3158(2010)。

庄内町北部の旧町。東田川郡所属。人口1万8475(2000)。庄内平野中央部,最上川西岸にあり,JR羽越本線と陸羽西線の分岐点で,国道47号線も走る交通の要地である。中心集落の余目は古代は《和名抄》記載の余戸郷の地に比定され,中世は地頭安保氏が支配し,居館跡や菩提寺とされる乗慶寺がある。1914年の陸羽西線,23年の羽越本線の開通によって庄内米の一大集散地となった。米作を主とする農業が基幹産業であるが,近年は養豚にも力を入れている。

庄内町中南部の旧町。東田川郡所属。人口7014(2000)。最上川が庄内平野に出る地点に位置し,南端の月山より北流して最上川に注ぐ立谷沢(たちやざわ)川の流域を占める。中心集落の狩川は,西境の羽黒山登山の基地で,JR陸羽西線,国道47号線が走る。北西部の庄内平野地区は米作を主とする農村地帯であるが,南部の山間地は豪雪地帯で人口流出が続き,出稼ぎ者も多い。清川は幕末の志士清川八郎の出身地で,記念館がある。
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庄内(福岡) (しょうない)


庄内(大分) (しょうない)

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百科事典マイペディア 「庄内」の意味・わかりやすい解説

庄内[町]【しょうない】

大分県中部,大分郡の旧町。中心は標高約1000mの火山群に囲まれる大分川中流域で,河岸段丘上は江戸時代から灌漑(かんがい)施設が整備され,耕地となっている。米麦作,果樹栽培を行うほか,肉牛,イチゴトマトなどを産する。南西の黒岳は阿蘇くじゅう国立公園に属する。久大本線が通じる。2005年10月,大分郡挟間町,湯布院町と合併し市制,由布市となる。140.29km2。9751人(2003)。

庄内[町]【しょうない】

福岡県中部,嘉穂郡の旧町。中央を北流する遠賀(おんが)川支流の庄内川流域を占め,明治中期から炭鉱町として発展したが,現在すべて閉山。稲作農村として再生を図り,耕地の鉱害復旧も促進され,野菜,果樹,花卉(かき)の栽培が行われる。企業誘致,宅地開発も進めている。後藤寺線が通じる。2006年3月嘉穂郡頴田町,穂波町,筑穂町と飯塚市へ編入。25.69km2。1万662人(2003)。

庄内[町]【しょうない】

山形県北部,庄内平野に位置する東田川郡の町。北部を最上川が西流する。2005年7月東田川郡立川町,余目町が合併し町制。JR羽越本線,陸羽西線,国道47号線,345号線が通じる。東日本大震災で,町内において被害が発生。249.17km2。2万3158人(2010)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「庄内」の意味・わかりやすい解説

庄内
しょうない

大分県中部,由布市中部の旧町域。大分川の中流域で,別府市の南西部に接する。 1954年阿南村,東庄内村,西庄内村,南庄内村,阿蘇野村の5村が合体して,1955年町制。 2005年挾間町,湯布院町と合体して由布市となる。大部分が山林原野で,北の雨乞岳 (1074m) ,城ヶ岳 (1168m) ,西の花牟礼山 (1173m) など標高 1000m前後の山地に囲まれている。中央を流れる大分川沿いと,その支流阿蘇野川沿いに沖積低地が開け,用水路が発達。肥沃で水利のよい土地をいかした農業が盛ん。なかでもナシは明治後期から栽培された。阿蘇野川上流に白水鉱泉がある。

庄内
しょうない

福岡県中部,飯塚市南東部の旧町域。遠賀川支流の庄内川上・中流域に位置する。 1958年町制施行。 2006年飯塚市,筑穂町,穂波町,頴田町と合体して飯塚市となる。明治中期に炭鉱が開かれてから急激に発展,人口も一時は2万をこえた。石炭産業の不況で 1962年までに大小の全炭鉱が閉山,農業も鉱害により不振に陥った。産炭地域振興事業により有安工業団地,庄内工業団地が造成された。自然に恵まれ,レクリエーションセンター,勤労者福祉施設などがある。

庄内
しょうない

大阪府豊中市南部の地区。旧町名。 1955年に豊中市に編入。神崎川流域に位置し,かつては大阪の近郊農業地帯であったが昭和に入って工業地化し,特に産業道路 (国道 176号線) の開設により,電気機器,金属,化学などの工場が進出。第2次世界大戦後は密集した住宅地を形成。北西部には名神高速道路の豊中インターチェンジがあり,阪神高速道路空港線と直交する。

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