兼松村(読み)かねまつむら

日本歴史地名大系 「兼松村」の解説

兼松村
かねまつむら

[現在地名]立花町兼松

山崎やまさき村の東、北部を辺春へばる川が西流する。天正六年(一五七八)三月二日書写の筑後領主付(筑後将士軍談)によると、豊饒美作守が兼松城に居城したという。同一五年五条鎮定は「鐘松十弐町」を含む一一二町の地を与えられている(同年正月二三日「龍造寺政家宛行状」五条家文書/史料纂集)。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「川崎庄内兼松村」とみえ、高一四六石余。元和七年(一六二一)の郡村帳では玄蕃高二九二石余、小物成は山手米七石・柿年貢銀七匁三分・川年貢銀四匁八分・茶年貢銀一二匁一分余・山畠年貢栗一斗三升・山畠年貢蕎麦一斗二升七合。柳川藩領図が記す葉・山・池田いけだ・似合(仁合)などのほか、高山名があった(谷川組御用日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報