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柳川藩 やながわはん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

柳川藩
やながわはん

江戸時代,筑後国 (福岡県) 山門郡柳川地方を領有した藩。関ヶ原の戦い後立花宗茂が除封され,一時同国久留米藩領となったが,慶長8 (1603) 年以来陸奥棚倉 (福島県) に封を受けていた立花氏大坂の陣の功により,元和6 (20) 年 10万 9600石で再び入封,そのまま廃藩置県にいたった。立花氏は外様,江戸城大広間詰。

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百科事典マイペディアの解説

柳川藩【やながわはん】

筑後(ちくご)国柳川に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩主は田中氏のあと,1624年からは立花氏が在封。領知高は田中氏時代32万5000石,立花氏時代は10万9000石。
→関連項目筑後国

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

やながわはん【柳川藩】

江戸時代筑後(ちくご)国三潴(みづま)郡柳川(現、福岡県柳川市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は伝習館。1587年(天正(てんしょう)15)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)による九州征伐後、その戦功により立花宗茂(たちばなむねしげ)が筑後国4郡を与えられて13万2000石を領したが、1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦いで西軍に属し除封(じょほう)。代わって、田中吉政(よしまさ)が石田三成(いしだみつなり)を捕えた功績により筑後1国32万5000石を与えられて入封した。しかし田中氏は2代で無嗣(むし)のため断絶となり、20年(元和(げんな)6)に立花宗茂が10万9000石で再入封、筑後南部を領した。翌21年には、宗茂の甥の種次(たねつぐ)が1万石を与えられて三池(みいけ)藩を立藩。立花氏は以後明治維新まで11代にわたって支配し、最後の藩主鑑寛(あきとも)は家老立花壱岐(いき)を登用して財政再建に取り組んだ。幕末には長州征伐で幕府軍側について参戦、戊辰(ぼしん)戦争では新政府の要請に応じて会津若松に出兵した。1871年(明治4)の廃藩置県で柳川県となり、その後、三潴県を経て76年福岡県に編入された。◇柳河藩とも書く。

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