日本歴史地名大系 「内山下町一丁目」の解説 内山下町一丁目うちやましたちよういつちようめ 東京都:千代田区旧麹町区地区内山下町一丁目[現在地名]千代田区内幸町(うちさいわいちよう)一丁目明治五年(一八七二)に成立。有楽(ゆうらく)町三丁目の南、西日比谷(にしひびや)町・内山下町二丁目の東にあたり、東を外堀に限られる。江戸時代には外桜田(そとさくらだ)の大名屋敷地の一画で、山下御門内(やましたごもんない)・幸橋御門内(さいわいばしごもんない)などと通称した。寛永期(一六二四―四四)には北部は陸奥仙台藩伊達家中屋敷、南西部は薩摩鹿児島藩島津家上屋敷、南東部は肥前佐賀藩鍋島家下屋敷と肥前小城藩鍋島家上屋敷があった(寛永江戸図)。北部は明暦三年(一六五七)の大火後、遠江横須賀藩本多家および出羽上山藩土岐家の上屋敷となったが、天和二年(一六八二)に備後福山藩阿部家上屋敷となり、その後は奏者番など幕府要職者が拝領する屋敷地となって任免に従って出入りし、安政三年(一八五六)には奏者番の陸奥白河藩阿部家の上屋敷であった(沿革図書など)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by