家の建っている敷地。
古くは家地,屋地(やち)ともいわれた。屋敷の語は平安後期から史料上にあらわれ,延久3年(1071)6月25日付播磨国大掾秦為辰解(げ)案に,〈件の畠,先祖相伝の領地屋敷たるなり〉とあるのが文書史料上の初見。領主,僧侶,神官,百姓をとわず,家の建つ敷地は屋敷と呼ばれ,また本宅だけでなく別業や田屋などの立つ場も屋敷の語で表現された。屋敷は,百姓の場合家屋と庭と若干の菜園をもって構成され,面積も1~2反程度のものが多く,簡単な垣などで外界と区別され,屋敷神の守護する聖域という観念と表裏の関係で,年貢については賦課を行わない場と認められていた。一方,領主,土豪らの屋敷は,家屋,庭,菜園のほかに田,畠,林などをも取り込んで1町を超える面積をもつことがまれでなく,これらは通常土塁と堀で囲まれ,国衙の役人や荘園領主,守護などの立入りさえできない強い聖域性と私有性を備えていた。
屋敷は,規模の大小はあれこのように家の建つ敷地を意味するのが原義であるが,地方領主の場合,中世前期を中心にしばしばその勢力の根拠地となる所領全体が屋敷所(やしきどころ)と呼ばれ,さらには屋敷の語のみで表現されることもあった。《曾我物語》巻二にみえる〈御先祖八満(八幡)殿の御子孫,東八か国を御やしきどころにさせ給ふべきなり〉という用例は前者の一例であり,寛喜2年(1230)2月20日付小山朝政の譲状(〈小山文書〉)で,譲与すべき下野国の所領が〈寒河御厨 小山庄と号す。重代の屋敷なり〉と語られているのは,後者の典型例である。中世前期の地方領主の根拠地が比喩的に屋敷所,屋敷などと呼ばれたのは,彼らがこの時代に屋敷を拠点として広域的な開発を行い,その力をもって開発に従う百姓と所領全体に屋敷内と同じ強い支配を及ぼそうとする意志をもち,また事実,地方の条件次第でそれに近い支配が実現されるケースがあったからである。また同時にこの表現は,この比喩性ゆえに現実に支配を実現していない広大な領域に対しても希望的に用いられることが多かった。しかし中世後期に及び,地方領主一般が戦国大名に組織され,開発にもとづく古来の自立性をそがれて,所領はもちろん屋敷さえその領知に大名の認可を必要とするような段階になってくると,屋敷と所領の区別の明確化が強いられ,所領に対して屋敷に近い支配を及ぼすことが否定された結果,上記のような比喩的用法はしだいに影をひそめることとなった。近世に屋敷といえば,もっぱら家の建つ敷地の意味に限られるが,この一義化は以上の前提のうえに成立したのである。
執筆者:義江 彰夫
近世の村方では,百姓の屋敷は検地を受けて高請地(たかうけち)となり,年貢の賦課対象とされた。しかし近世初頭の検地においては,前時代の土豪,給人のうち,武士化の道をとざされ,検地を受けて庄屋,肝煎(きもいり)などとして在地にとどまった者は,その屋敷が除地(じよち)とされ,年貢負担を免除された。中期以降(幕領では寛文・延宝検地以後)になると,古検(こけん)で除地とされていた村役人の屋敷も,新検では高請地に加えられて年貢を賦課されるようになった。屋敷検地の縄入れにあたっては,田畠の畔引(くろひき)と同様に,〈屋敷ハ四方を壱間充四壁引(しへきひき)に除の定法〉(《地方凡例録(じかたはんれいろく)》)とされ,屋敷に付属する屋敷林についても〈藪林(やぶはやし)ある屋敷ハ,藪林をも除きて縄を入る〉(同前)とされ,四壁および屋敷林は屋敷検地の対象外におかれた。屋敷の石盛(こくもり)は一般に,上畠に準じられていた。幕領の延宝検地条目では〈屋敷者古来より上畑並ニ候〉(〈摂津国検地条目〉)とされ,現存する検地帳でも,初期のものをふくめて,屋敷の多くは上畠並みの石盛を付けられている。しかし文禄3年(1594)〈島津分国御検地斗代書(とだいがき)〉のように〈惣国やしき 壱石代〉(上の村の中畠,中の村の上畠に相当)と定めたものもあり,所によっては上畠より上に位付けされた事例などもある。近世初期においては,検地帳に登録された屋敷は年貢(生産物地代)を賦課されるだけでなく,夫役(ぶやく)(労働地代)の賦課基準でもあった。屋敷を名請けした百姓が役人,役家,役儀之家,公事屋(くじや)などと呼ばれて夫役負担者とされ,弱小農民は田畠だけを名請けして屋敷の登録をうけず,夫役の負担をまぬがれていた。
検地帳に登録された屋敷は,その多くが屋敷囲いの内部に母屋(おもや)とともに小屋,門屋(かどや),隠居屋などを備え,小屋,門屋,隠居屋には主家の庇護・支配を受ける弱小農民(自立過程の小農)が起居し,母屋には主家が住いした。小屋住み,門屋住い,隠居身分などの弱小農民が家族をもち,その生計が主家のそれから一応独立分離している場合でも,家数人馬改帳(いえかずじんばあらためちよう)(夫役徴集の基礎帳簿)では,1屋敷の内部の生活は1竈(かまど)として把握され,屋敷囲いの内に住む弱小農民の家族は主家の家族に含まれるものとして主家に一括された。小農の自立がすすむとともに,弱小農民は主家の屋敷の分割を受け,あるいは屋敷外の畠に小屋を建てて主家から分立した。寛文・延宝期(1660~70年代)以後,小農が本百姓として自立するようになると,屋敷を所持するか否かを問わず,高請地を所持する高持(たかもち)百姓がすべて本百姓とされた。これとともに農民諸階層は本百姓・水呑(みずのみ),家持(いえもち)・地借(じがり)・店借(たながり)としてあらわれる。一般に百姓の屋敷は,屋敷囲いの内部に母屋と納屋(なや)を備え,そのいずれかに牛馬の厩舎を付設しているものが多い。母屋は屋敷囲いの中央より後方に建てられ,母屋の南面の空地は作業場,乾燥場として利用され,それを〈かど〉〈かどにわ〉などと呼んだ。平坦地農村の百姓の屋敷には,その北側から西北にかけて屋敷林を備えるものがあり,防風,防暑,防火,燃料・用材の採取などを目的にして竹,雑木,松,杉などを植え,これを〈いぐね〉(東北),〈くね〉(関東),〈築地松(ついじまつ)〉(出雲)などと各地各様に呼びならわした。
領主の軍事,政治,経済の拠点としての城下町の建設過程では,城郭を中心に,その周囲に武家屋敷を置き,その周辺に年貢免除の町屋敷を配置し,町割(まちわり)に従って職業別に町屋(まちや)を配列して同業者町を形成した。幕府の職務分掌のあり方では,村方の屋敷については,地方(じかた)の租税徴収を統轄する勘定奉行の掌管事項に含まれていたが,江戸の町屋敷は町奉行の一手支配におかれていた。町屋敷は年貢の賦課されない土地であり,その地主たる町人には永代所持が認められ,売買・質入れなども自由であった。そのことから町屋敷は沽券地(こけんち)とも呼ばれた。しかし百姓への譲渡は禁止されていた。町の自治機構の中では,町割にもとづく町屋敷の表通りに,家,屋敷を所持するものが家持・地主と呼ばれ,彼らが町人として町政・公事に関与した。町入用の負担方法でも家・屋敷が基準(小間割(こまわり),坪割,面割,軒別当など)となり,家持・地主がそれを負担した。地借・店借のものたちはそれを負担せず,町政・公事にも関与しえず,家持・地主と地借・店借とは身分的に区分されていた。地租改正に先だって,1872年(明治5)いちはやく東京市街地(町地(まちじ),武家地)に地券が交付され,沽券税法の施行をみた。これは,町地(町屋敷,拝領地など種々の土地を含むが,その主要部分は町屋敷),武家地には旧幕時代,さまざまの特典が与えられていたので,それを統一税制下の課税対象に組み込むための措置であり,それを迅速に果たしえたのは,町屋敷には早くから売買・質入れが認められて所有権が成立していたからである。
執筆者:葉山 禎作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
主屋(おもや)をはじめ生活や生産に必要な諸施設を配した一構えの土地。「やがまえ」「かいと(垣内)」などとよぶ地方もある。屋敷の入口を「じょうのくち」といい、悪霊や疫病をそこで防ぐ所と解せられた。地方によってはそこに長屋門を建てることもある。一般に季節風の方向を考えて、周辺に屋敷林を植えてこれを防ぐ。北西とか北を重視することが多い。ところが北陸地方では、冬の季節風は北西風が多いが、それが中央山脈に突き当たり、強さを増して南東から逆流して吹き付ける。そのためその方向にも厚く高い防風林を植える。したがって屋敷内に太陽光線が射入するのに妨害となる。それが種々の地方病を誘発する。屋敷林は防風だけでなく、防雪の役目も果たすし、古来薪炭(しんたん)材や建築用材の供給にも有効である。東北地方の平坦(へいたん)地ではそのため屋敷林を高く繁茂させる。これをイグネとよんでいる。武蔵野(むさしの)台地でも、ケヤキの大木で屋敷を守る風習があった。そのケヤキ林は一種の家格を示す象徴とも考えられ、ケヤキダイジンの呼称もあった。山陰地方の築地松(ついじまつ)は一種の防風林であるが、角型に美しく刈り込んでいるので、集落の景観に特色を示している。屋敷の中央付近に主屋を建て、その北西隅(戌亥(いぬい)の方角)に土蔵を設けるのをもって福徳とするという習俗は、かなり広い地域に分布している。屋敷の北東隅(丑寅(うしとら)の方角)は鬼門にあたるとして、屋敷神の祠(ほこら)を祀(まつ)る地方もかなりある。主屋の前の空き地をオモテとかソトニワといい、穀物の干し場その他になくてはならないものとされる。主屋の左右をコヒラ、背後をセドヤとよぶが、ときにはオモテの一部をツボニワとする。
主屋以外、屋敷のなかには、厩(うまや)、作業場(こなしば)、納屋、物置、風呂(ふろ)場、便所、ぬか屋(籾殻(もみがら)置き場)、みそ部屋、薪(まき)小屋、堆肥(たいひ)舎、灰小屋などが随所に配置される。その配置方法については家相の支配を受けることが多い。東北地方から関東にかけては、屋敷は比較的広く小屋の数も多いが、西に行くにしたがって、これと反対になる傾向がみられ、また屋敷林よりも付属施設で屋敷を囲う場合が多い。
[竹内芳太郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
… 村組は一般に組と呼ばれるが,同時に全国各地にさまざまな村組を示す名称が分布している。主要なものを示せば,東北地方のヤシキ(屋敷),北関東のツボ(坪),南関東のニワ(庭),ニワバ(庭場),サト(里),中部地方のコウチ(耕地),近畿地方を中心に広く分布するカイト(垣内,垣外,貝戸,海戸等),中国・四国地方のドイ(土居),ホウジ(榜示),北九州のコガ(空閑),南九州のカド(門),沖縄本島北部のバーリ,同島南部のダカリなどである。これらのうち,東北地方,関東地方あるいは九州に分布する屋敷,坪,庭,門などの名称は,他方では個別の家においてその居住空間やその一部を示すものとして一般的に使用されている語である。…
…別宅に対して家主の本拠となる邸宅のこと。日本史上では中世在地領主の所領の中核をなす屋敷および付属地を指す。律令制下において私有をみとめられた私宅と家地・園地を,その直接の起源とする。…
…中世の長者(地方武士,土豪など)屋敷の門前にひろがる付属耕地(畠の場合は門畠(もんぱく)という)。〈かどた〉ともいう。…
…日本近世において,主人不在の家屋敷を預かり,その管理・維持に携わる管理人のこと。家主(やぬし∥いえぬし),屋代(やしろ),留守居(るすい),大家(おおや)などとも呼ばれた。…
※「屋敷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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