南部(読み)ナンブ

デジタル大辞泉 「南部」の意味・読み・例文・類語

なんぶ【南部】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「南部」姓の人物
南部忠平なんぶちゅうへい
南部陽一郎なんぶよういちろう

なんぶ【南部】[地名]

陸奥むつの豪族南部氏の旧領地で、現在の青森県東半分から岩手県中部にわたる地域の称。特に、盛岡をいう場合もある。

なん‐ぶ【南部】

ある地域の南の部分。「合衆国南部

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精選版 日本国語大辞典 「南部」の意味・読み・例文・類語

なん‐ぶ【南部】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 南方の部分。南の地方。
      1. [初出の実例]「爰に奥州南部、下野国に境を隔し人々は」(出典:奥羽永慶軍記(1698)一)
      2. [その他の文献]〔後漢書‐南匈奴伝〕
    2. なんぶおり(南部織)」の略。
      1. [初出の実例]「夫れじゃア板〆の方がお召と南部(ナンブ)だらう」(出典:人情本・春色江戸紫(1864‐68頃)三)
    3. なんぶてつ(南部鉄)」の略。
      1. [初出の実例]「鉄の五徳に南部の錆びた鉄瓶が二箇懸って」(出典:重右衛門の最後(1902)〈田山花袋〉三)
    4. なんぶうま(南部馬)」の略。
      1. [初出の実例]「わがこふる南部二歳や後の月〈其雫〉 一穂たしかに五百粒づつ〈其角〉」(出典:俳諧・類柑子(1707)中)
    5. なんせんぶしゅう(南瞻部洲)」の略。
      1. [初出の実例]「断悪修善・離苦得楽。不南部。便覩西方」(出典:本朝文粋(1060頃)一三・為盲僧真救供養率都婆願文〈大江匡衡〉)
    6. 芝居茶屋の通言で)水のこと。〔劇場新話(1804頃)〕
  2. [ 2 ] 青森県東半部から岩手県中部にまたがる地域の通称。鎌倉時代以降南部氏の領地。また、江戸時代に南部藩の城下町であった盛岡(岩手県盛岡市)をいう場合もある。
    1. [初出の実例]「南部へ御人数被遣候間、早々政宗も可罷下由御意候に付」(出典:伊達日記(1600頃か)中)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南部」の意味・わかりやすい解説

南部(町)(鳥取県)
なんぶ

鳥取県西部、西伯(さいはく)郡にある町。2004年(平成16)西伯郡の西伯、会見(あいみ)の2町が合併して成立。町域の南部は鎌倉山(731メートル)をはじめ標高400~700メートル内外の山々が連なり、北部は中央に要害(ようがい)山(手間(てま)山、332メートル)が聳(そび)えるが、200~300メートルの低山・丘陵地である。南部山地を水源とする日野川支流法勝寺(ほっしょうじ)川が西部を北流し、途中で鎌倉山から発した東長田(ひがしながた)川を合わせ、要害山の西麓を抜けて北接する米子(よなご)市域に入る。米子市域で法勝寺川に注ぐ小松谷(こまつだに)川が要害山の東麓を北流する。法勝寺川、小松谷川が並行する北部と各河川の流域に沖積平野が開け、稲作地帯となっている。法勝寺川沿いに国道180号(法勝寺往来)が通じる。県下有数の古墳密集地域で、要害山北麓に位置する普段寺一号墳(ふだんじいちごうふん)(かつては普段寺三号墳とよばれた)から出土した三角縁神獣鏡(唐草文帯二神二獣鏡)は国の重要文化財。小松谷川右岸にある金田瓦窯跡(かねだがようせき)は白鳳期の大寺(おおてら)廃寺(伯耆町)の瓦を焼成した。江戸時代、法勝寺往来は米子城下と日野郡方面を結び、奥日野産の鉄や雲州木綿の流通路としてにぎわいをみせた。法勝寺村には同往来の宿が置かれ、法勝寺川上流の山間部ではたたら製鉄が盛行。1924年(大正13)に天万(てんまん)に設立された南部製糸販売利用組合の製糸工場は、近隣における最初の近代的工場であった。現在、基幹産業は稲作を中心とした農業で、カキ、ナシ、イチジクなどの果樹栽培や畜産も盛ん。特産の法勝寺焼は江戸時代以来の伝統を有する。北部に米子ニュータウン(東町、西町)が建設されるなど、米子市のベッドタウン化も進む。1988年(昭和63)に法勝寺川を堰止めた賀祥(かしょう)ダムが竣工、ダム湖(緑水(りょくすい)湖)周辺一帯はアウトドアスポットとして整備が進められている。面積114.03平方キロメートル、人口1万0323(2020)。

[編集部]



南部(町)(青森県)
なんぶ

青森県南東部、三戸郡(さんのへぐん)にある町。2006年(平成18)、三戸郡名川町(ながわまち)、南部町(なんぶまち)、福地村(ふくちむら)が合併し、南部町(ちょう)となった。八戸(はちのへ)市の西に隣接。町の北部を東へと流れる馬淵川(まべちがわ)の流域に平野が広がる。耕地や主要な集落はこの平地に開け、名久井岳(なくいだけ)(標高615メートル)がそびえる南西部から南部にかけては山地。気候は県内では比較的温暖である。第三セクター青い森鉄道(旧、JR東北本線)が馬淵川沿いに走り、三戸(さんのへ)、諏訪ノ平(すわのたいら)、剣吉(けんよし)、苫米地(とまべち)の4駅がある。国道4号、104号(一部で重複)が通じる。八戸自動車道が東端部をかすめるが、インターチェンジはない。ただし、八戸、南郷(なんごう)、一戸(いちのへ)の各インターチェンジへのアクセスは整備されている。基幹産業は農業で、米作のほかリンゴ、ブドウ、サクランボなどの果樹やナガイモニンニク、食用ギクなどを栽培。1949年(昭和24)に三戸駅前に開設された村営(旧向(むかい)村)市場以来の伝統を有する町営地方卸売市場は、青果類を中心として一帯の流通拠点となっている。馬淵川と猿辺(さるべ)川の合流点に近い段丘上に、聖寿寺館跡(しょうじゅじたてあと)がある。同館は本三戸城(もとさんのへじょう)ともいい、戦国時代、南部本宗家が三戸城(三戸町)に移るまでの本拠地であった。隣接する南部氏の菩提寺三光寺(さんこうじ)、氏神の本三戸八幡宮とあわせて、一帯は聖寿寺館跡の名称で国の史跡に指定。三光寺境内には南部藩2代藩主南部利直の4男で、若くして他界した南部利康(なんぶとしやす)の霊屋(たまや)があり、国指定重要文化財。面積153.12平方キロメートル、人口1万6809(2020)。

[編集部]



南部(和歌山県)
みなべ

和歌山県中部、日高郡(ひだかぐん)にあった旧町名(南部町(ちょう))。現在はみなべ町の南西部を占める地域。1897年(明治30)南部村が町制施行。1954年(昭和29)岩代(いわしろ)村を編入。2004年(平成16)南部川(みなべがわ)村と合併、みなべ町となる。太平洋に面する南部川河口にあり、海岸に沿う熊野街道(国道42号)と南部川に沿う龍神(りゅうじん)街道(国道424号)が分岐し、JR紀勢(きせい)本線が通じる。名称は、中世の南部荘(みなべのしょう)にちなむ。江戸時代に始まるウメ栽培の発祥地で、現在では栽培地も拡大し、名産の梅干しなどウメ加工の中心地となっている。またウメの開花期には、多数の観光客が梅林を訪れる。岩代(いわしろ)地区には有間皇子(ありまのおうじ)の結松(むすびのまつ)の伝説があり、熊野九十九王子の一社である千里(せんり)王子社(県指定史跡)など熊野街道(熊野古道)沿いに史跡も多い。アカウミガメの産卵地として有名な千里の浜(千里ヶ浜)は、県の名勝・天然記念物に指定されており、吉野熊野国立公園域。埴田(はねた)に、みなべ温泉と国民宿舎紀州路みなべがある。

[小池洋一]


南部(町)(山梨県)
なんぶ

山梨県南部、南巨摩郡(みなみこまぐん)にある町。富士川中・下流域に位置する。1955年(昭和30)睦合(むつあい)、栄の2村が合併して町制改称。2003年(平成15)富沢町(とみざわちょう)と合併。町域は富士川両岸に広がり、左岸にはJR身延(みのぶ)線、右岸には国道52号、中部横断自動車道(富沢、南部各インターチェンジ)が通じる。ほとんどが山林で、杉、ヒノキの美林に富み、茶、シイタケなどが主産物。静岡県に接するため、富士、富士宮(ふじのみや)市などの工場、事業所へ通勤する人も多く兼業農家が大部分であり、多くの面で甲府方面より静岡県との結び付きが強い。船山(ふなやま)、十枚荘(じゅうまいそう)、佐野川などのひなびた温泉がある。面積200.87平方キロメートル、人口7156(2020)。

横田忠夫

『『南部町誌』(1971・南部町)』



南部(青森県東半部と岩手県和賀川以北)
なんぶ

青森県の東半部と岩手県の和賀川以北の地域。南部藩(盛岡藩)領の地で、青森県では西半分の津軽に対する呼称。行政的には八戸(はちのへ)、十和田(とわだ)、三沢、むつ4市と上北(かみきた)、下北、三戸(さんのへ)の3郡からなる。1189年(文治5)平泉(ひらいずみ)の藤原氏滅亡ののち、源頼朝(よりとも)に従った甲斐(かい)国南部郷の南部光行(みつゆき)が現在の青森、岩手県の地域を統治した。のち、青森県西部は津軽氏に奪われたが、盛岡藩として明治に至った。津軽と南部の北半をあわせて青森県になったが、自然条件や人文条件が異なり、南部は水田が少なく、畑地が多いのに対して、津軽は水田が多く、畑作が少ない。南部は夏の偏東風やませの影響が強く、冷害にみまわれることも多い。津軽は夏の偏東風の影響は少ないが、冬の積雪が多い。このような自然条件の違いが生活や文化の面で対照的な違いを示している。

[横山 弘]


南部(青森県)
なんぶ

青森県南東部、三戸郡(さんのへぐん)にあった旧町名(南部町(まち))。旧南部町(まち)は、1955年(昭和30)向(むかい)、平良崎(へらさき)の2村が合併して南部村となり、1959年町制施行。2006年(平成18)、三戸郡名川(ながわ)町、福地(ふくち)村と合併して町名を南部町(ちょう)とした。旧町域は新南部町(ちょう)の西端部にあたり、第三セクター青い森鉄道(旧、JR東北本線)、国道4号が通じる。大部分は北上(きたかみ)高地に続く低い山地で、その間を馬淵(まべち)川とその支流の猿辺(さるべ)川が流れ、沿岸に耕地が開ける。米、リンゴ、蔬菜(そさい)を産し、食用ギクを特産する。1191年(建久2)ごろ南部光行(みつゆき)が平良ヶ崎館(だて)を築いたといい、南部氏発祥の地とされる。

[横山 弘]

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改訂新版 世界大百科事典 「南部」の意味・わかりやすい解説

南部[町] (なんぶ)

青森県南東部,三戸(さんのへ)郡の町。2006年1月名川(ながわ)町,旧南部町と福地(ふくち)村が合体して成立した。人口1万9853(2010)。

南部町中部の旧町。三戸郡所属。人口8694(2005)。南部は北上高地北端の丘陵が占め,北部を馬淵(まべち)川が北東流し,河岸段丘上に主要集落がある。台地や丘陵地ではリンゴを主とした果樹栽培が盛んである。西部の名久井岳(615m)は県立自然公園に指定され,中腹の法光寺は曹洞宗の古寺で,高さ33mの三重塔で知られる。東北本線(現,青い森鉄道)が通じ,国道4号線から104号線が分岐する。

南部町西部の旧町。三戸郡所属。人口5834(2010)。馬淵川中流の沖積地上に集落,耕地が分布し,南東部は名久井岳(615m)の斜面,西部は奥羽山脈縁辺の丘陵からなる。リンゴ,ブドウなど果樹栽培が盛んで,ほかに〈阿房宮〉の名で知られる食用菊を特産する。町営卸売市場があり,青果物の流通拠点である。町の中央を東北本線(現,青い森鉄道)と国道4号線が通り,十和田湖方面への入口に当たる。南部氏の本三戸館(もとさんのへだて),平良ヶ崎館(へらがさきだて)などの館址があり,小向の三光寺境内には南部利康霊屋が,名久井岳中腹には十一面観音立像で知られる恵光院がある。

南部町北東部の旧村。三戸郡所属。人口7024(2005)。馬淵川中流域を占める。中世に南部氏によって馬産地として開発された。現在は馬淵川沖積地で米作,丘陵地でタバコ,リンゴの栽培が行われる。県内では積雪の最も少ない地域であるが,夏季にはやませ(偏東風)による冷害を受けやすい。馬淵川沿いを通る東北本線(現,青い森鉄道)に1961年苫米地(とまべち)駅が新設され,64年には八戸地区新産業都市地域に指定されて,八戸市の通勤住宅地として人口が増加している。福田地区南方の山間には福田鉱泉がある。
執筆者:


南部[町] (なんぶ)

山梨県の南端,南巨摩(みなみこま)郡の町。2003年3月富沢(とみざわ)町と旧南部町が合体して成立した。人口9011(2010)。

南部町南部の旧町。南巨摩郡所属。人口4152(2000)。東縁を富士川が南流し,西から南へかけて静岡県と接する。町域の9割近くが山林で,杉,ヒノキの良材を産し,茶,たけのこ,シイタケ,ショウガの栽培も盛ん。近年,自動車や電機の部品工場が進出しているが,静岡県への通勤・通学者も多い。赤石山脈南端の山地から東流する福士川の上流には,東京大学地震研究所の観測所(現,富士川地殻変動観測所),町営ロッジ(現,南部町グリーンロッジ),民宿がある。東市組地区の最恩寺仏殿は重要文化財に指定されている。富士川に沿ってJR身延線,国道52号線が通じる。

南部町北部の旧町。南巨摩郡所属。人口6711(2000)。中央部を富士川が南流し,東は天守山地,西は身延山地。中世には甲斐源氏の一族南部氏の領地の中心であった。温暖多雨の地で,杉,ヒノキの良材を多産し,傾斜地では近年茶の栽培が盛んである。柳島地区にはプラスチック,自動車部品の工場が立地する。北東の天子ヶ岳に発する佐野川中流の柿元ダムには,ダム湖の天子湖および佐野川発電所(最大出力5800kW)がある。西の十枚山のふもとに船山温泉(含硫黄放射能泉,27℃),十枚荘温泉(放射能泉,22℃)が湧く。JR身延線が通じ,静岡県への通勤者が多い。
執筆者:


南部[町] (なんぶ)

鳥取県西端,西伯(さいはく)郡の町。2004年10月会見(あいみ)町と西伯町とが合体して成立した。人口1万1536(2010)。

南部町北東部の旧町。西伯郡所属。1955年手間村と賀野村が合体,町制。人口4042(2000)。旧米子市に南接し,米子平野の一部を占める低地と西伯山地からなる。中心集落の手万はかつては出雲街道の宿場町であった。大国主神が兄神たちにあざむかれて焼石を抱いたという《古事記》にのる伝説で有名な手間山や山陰で最大の規模をもつ殿山古墳(前方後円墳)を含む三崎古墳群がある。農業を基幹産業とし,米作,タバコ,果樹栽培に肉牛飼育を取り入れた農業経営が行われる。米子市への通勤者も多い。

南部町中西部の旧町。西伯郡所属。人口8168(2000)。日野川支流の法勝寺(ほつしようじ)川上・中流域に位置する。中心集落の法勝寺は江戸時代には米子と山陽,上方を結ぶ街道の宿場町で,付近で生産される砂鉄の集散地としてにぎわった。農林業が主産業で,肉牛飼育,タバコの栽培が盛ん。明治末から雑器や茶器を産する法勝寺焼の窯がある。近年,米子市のベッドタウン化が進んでいる。賀祥の白山神社には鉄鋳の十一面観音立像,聖観音立像があり,重要文化財に指定されている。東長田には特別天然記念物のオオサンショウウオ生息地がある。
執筆者:


南部 (みなべ)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南部」の意味・わかりやすい解説

南部
みなべ

和歌山県中西部,みなべ町南西部の旧町域。1897年町制。1954年岩代村を編入。2004年南部川村と合体してみなべ町となった。南部川河口にある中心集落は,熊野街道の宿場町として発展。1900年前後から南部川流域の丘陵地帯でウメの栽培が盛んになったため梅干などの加工地となり,全国的に知られるようになった。観梅客も多い。海岸の千里の浜は地引網漁場。アカウミガメの産卵地として知られ,吉野熊野国立公園に属する。

南部
なんぶ

青森県東部から岩手県にまたがる地方の俗称。鎌倉時代,甲斐の南部光行が奥州征伐の功により,八戸糠部 (ぬかのぶ) 地方を賜わり,現在の青森県全域と岩手県一帯を統治。 16世紀末青森県西部は津軽氏に割譲された。初め本拠を三戸に構えたが,のちに盛岡に築城して移転。寛文9 (1669) 年のお家騒動で盛岡藩と支藩八戸藩に分裂した。明治1 (1868) 年弘前藩との境界近くの野辺地で両藩が激突。盛岡藩と弘前藩の歴史的抗争が影響し,現在も青森県の東部と西部には言語や生活習慣のうえでそれぞれ独自なものが残存している。同4年廃藩置県により,八戸藩と弘前藩領が合体して弘前県が成立,同年青森県と改称。盛岡藩領は岩手県となり現在にいたる。

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百科事典マイペディア 「南部」の意味・わかりやすい解説

南部【なんぶ】

近世,南部氏が領有した地域の称。ほぼ現在の岩手県中・北部および青森県東部にあたり,南部藩(盛岡藩)20万石の所領を大南部,八戸(はちのへ)南部藩(八戸藩)2万石の所領を小南部といった。山がちで耕地に乏しいが,南部駒の産で知られた。
→関連項目南部氏

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