内藤虎次郎
ないとうとらじろう
[生]慶応2(1866).7.18. 秋田
[没]1934.6.26. 京都
東洋史学者。号,湖南。秋田県立師範学校卒業後上京し,初め雑誌『日本人』の編集に従い,のち『大阪朝日新聞』『台湾日報』の記者として活躍,1898年『万朝報』の主筆,1907年京都大学東洋史学教授。中国史の研究,敦煌文書調査など史料採訪を行なった。学士院会員。著書『支那絵画史』 (1938) ,『支那史学史』 (49) ,『日本文化史研究』『近世文学史論』。
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出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の内藤虎次郎の言及
【内藤湖南】より
…東洋史学者。秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現,鹿角市)の儒者の家に生まれる。名は虎次郎,湖南はその号。県立秋田師範学校を卒業,小学校教師を約1年,ついで上京して仏教雑誌《明教新誌》の編集者,三宅雪嶺らの政教社の《日本人》の編集者,《大阪朝日新聞》記者,《台湾日報》主筆,再び朝日にかえって論説担当など,40歳まではもっぱらジャーナリズム界で活躍したが,その間も中国の学術全般についての研究を深め,ことに日本の中国学研究が旧来のいわゆる漢学でなく,清朝風な実証学でなければならぬことを確信し提唱。…
※「内藤虎次郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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