内藤湖南(読み)ナイトウコナン

デジタル大辞泉 「内藤湖南」の意味・読み・例文・類語

ないとう‐こなん【内藤湖南】

[1866~1934]東洋史学者。秋田の生まれ。本名、虎次郎。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授となり東洋史学を担任、中国史学の発展に貢献した。著「日本文化史研究」「支那史学史」など。

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精選版 日本国語大辞典 「内藤湖南」の意味・読み・例文・類語

ないとう‐こなん【内藤湖南】

  1. 東洋史学者。本名虎次郎。陸奥国毛馬内村(秋田県鹿角市)生まれ。初め「大阪朝日新聞」などの記者として活躍。中国史に通じ、のち、京都帝国大学教授となって「支那学」を講じた。著「支那史学史」「日本文化史研究」など。慶応二~昭和九年(一八六六‐一九三四

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改訂新版 世界大百科事典 「内藤湖南」の意味・わかりやすい解説

内藤湖南 (ないとうこなん)
生没年:1866-1934(慶応2-昭和9)

東洋史学者。秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現,鹿角市)の儒者の家に生まれる。名は虎次郎,湖南はその号。県立秋田師範学校を卒業,小学校教師を約1年,ついで上京して仏教雑誌《明教新誌》の編集者,三宅雪嶺らの政教社の《日本人》の編集者,《大阪朝日新聞》記者,《台湾日報》主筆,再び朝日にかえって論説担当など,40歳まではもっぱらジャーナリズム界で活躍したが,その間も中国の学術全般についての研究を深め,ことに日本の中国学研究が旧来のいわゆる漢学でなく,清朝風な実証学でなければならぬことを確信し提唱。1907年40歳で,京都帝国大学史学科開設とともに講師として東洋史学講座を担当した。〈孔子様のような人でも学歴が無い者は教授にはできない〉と文部省の係官が頑張ったという逸話がある。44歳で教授,60歳で停年退官,以後帝国学士院会員。哲学文学の狩野直喜(かのなおき)教授とともに京都の〈支那学〉と呼ばれる,道学臭を脱却した清新な学風を創始し,多くの人材を輩出せしめた。《支那論》《新支那論》などの時務論のほか,その学術的功績として顕著なものは,中国史のみでいっても後漢までを古代,六朝・唐を中世,宋以後を近世とする中国史の時代区分説の提唱,満州~清朝史の開拓,偽物説を排して甲骨文による古代研究の推進,目録学,史学史,絵画史の開拓など,ほとんどあらゆる領域に及ぶが,日本文化史においても透徹せる見解を示した。また書画の鑑識家,漢詩文の作者,書道家としても一流であった。《内藤湖南全集》全14巻(1976)がある。
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20世紀日本人名事典 「内藤湖南」の解説

内藤 湖南
ナイトウ コナン

明治〜昭和期の東洋史学者 京都帝大名誉教授。



生年
慶応2年7月18日(1866年)

没年
昭和9(1934)年6月26日

出生地
陸奥国鹿角郡毛馬内村(現・秋田県鹿角市十和田毛馬内)

本名
内藤 虎次郎(ナイトウ トラジロウ)

学歴〔年〕
秋田師範高等科〔明治18年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔明治43年〕

経歴
旧南部藩の藩儒の家に生まれる。明治18年秋田師範卒業後、小学校教育に従事。20年上京、「明教新誌」の編集に従事。27年大阪朝日新聞に入り、以後、「台湾日報」主筆、「万朝報」主幹、「大阪朝日新聞」記者を経て、40年京都帝大講師となり、42年教授に就任。大正15年帝国学士院会員、京都帝大を定年退官。昭和2年京都帝大名誉教授。4年東方文化学院京都研究所(現・京大人文科学研究所)評議員。この間、数次にわたり、中国、朝鮮、満州、欧州を訪問、敦煌文書などを調査した。狩野直喜とともに、東洋史・支那学における京都学派を育てた。主著に「近世文学史論」「日本文化史研究」「清朝史通論」「支那論」「支那史学史」「中国絵画史」などがある他、「内藤湖南全集」(全14巻 筑摩書房)がある。書家としても知られる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「内藤湖南」の意味・わかりやすい解説

内藤湖南
ないとうこなん
(1866―1934)

歴史学者、評論家。文学博士。名は虎次郎(とらじろう)、湖南はその号。慶応(けいおう)2年旧南部(なんぶ)藩(秋田県毛馬内(けまない))に生まれる。秋田師範学校卒業。東京に出てジャーナリズムに入り、台湾にも渡ったが、やがて大阪朝日新聞社で論説担当者となり、中国問題の論壇第一人者として外務省の対華政策にも献言する。1907年(明治40)狩野亨吉(かのうこうきち)によって京都帝国大学に招かれ、2年後教授、東洋史学担任、翌年文学博士となった。のち帝国学士院会員。この間渡欧し、敦煌(とんこう)文書の調査研究を行う。1926年(大正15)退官後、京都府瓶原(みかのはら)村(現木津川(きづがわ)市)で恭仁(くに)山荘を営み、読書生活に入る。国宝保存会委員などの要職を続け、昭和9年没、69歳。

 初期の『近世文学史論』で文名をあげ、『燕山楚水(えんざんそすい)』で中国研究の地歩を築き、『日本文化史研究』『支那(しな)論』『研幾小録(けんきしょうろく)』のほか中国史の研究書が多く、『内藤湖南全集』14巻(筑摩(ちくま)書房)がある。明治文壇の評論家、書家としても有名であるが、中国史学者として独自の科学的学風を樹立し、日本の新しい中国研究の開創者となった。

[金谷 治]

『小川環樹編『日本の名著41 内藤湖南』(1971・中央公論社)』


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百科事典マイペディア 「内藤湖南」の意味・わかりやすい解説

内藤湖南【ないとうこなん】

東洋史学者。秋田県生れ。本名虎次郎。秋田師範卒後,雑誌《日本人》や《大阪朝日新聞》《万朝報》で記者として活躍。1907年京都大学東洋史講座に迎えられ,のち教授。中国近世史を担当し,東洋史学の発達に貢献したが,中国発展史に独特の理論を有し,内藤史学と呼ばれた。著書《中国近世史》《支那史学史》など。全集14巻がある。
→関連項目朝日新聞宮崎市定羅振玉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「内藤湖南」の解説

内藤湖南 ないとう-こなん

1866-1934 明治-昭和時代前期の東洋史学者。
慶応2年7月18日生まれ。「大阪朝日新聞」「万朝報」などの記者として活躍。明治42年京都帝大教授。中国史の時代区分などの研究で独自の理論をたてた。学士院会員。昭和9年6月26日死去。69歳。陸奥(むつ)鹿角郡(秋田県)出身。秋田師範卒。名は虎次郎。著作に「燕山楚水(えんざんそすい)」「日本文化史研究」など。
【格言など】(日本の歴史は)応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です(「日本文化史研究」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「内藤湖南」の解説

内藤湖南
ないとうこなん

1866.8.17~1934.6.26

明治~昭和前期の東洋史学者。本名虎次郎。陸奥国鹿角郡生れ。秋田師範学校卒。1887年(明治20)上京後,新聞記者として活躍し,中国問題の権威として認められた。1907年京都帝国大学に迎えられ,のち教授となり19年間東洋史講座を担当。その独創的見解への評価は高い。根本史料の発見収集にも努め,日本史に対する貢献も多大。能書家としても知られる。「内藤湖南全集」全14巻。

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旺文社日本史事典 三訂版 「内藤湖南」の解説

内藤湖南
ないとうこなん

1866〜1934
明治〜昭和前期の東洋史学者
本名虎次郎。出羽(秋田県)の生まれ。1887年上京後『大阪朝日新聞』『万朝報』などの記者を経て,1907年京大講師,のち教授となる。中国史・日本史に多くの業績を残し,特に中国史時代区分の独創性と碩学 (せきがく) ぶりから世に「内藤史学」と称された。『支那史学史』など著書も多い。

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367日誕生日大事典 「内藤湖南」の解説

内藤 湖南 (ないとう こなん)

生年月日:1866年8月17日
明治時代-昭和時代の東洋史学者。京都大学教授
1934年没

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世界大百科事典(旧版)内の内藤湖南の言及

【台湾日日新報】より

…日本の台湾領有時代に発行された代表的な植民地新聞で,本社は台北に置かれた。台湾における日本語新聞は,1896年(明治29)《台湾新聞》《台湾日報》の2紙が創刊され,前者には田川大吉郎,後者には内藤湖南がよって日本の台湾統治方針について大論戦を行うなどしていたが,98年に合併,《台湾日日新報》(社長守屋善兵衛)として新発足した。同地には台中市に本拠を置く《台湾新聞》(1901年《台中毎日新聞》として創刊,07年改題),《台湾日報》(1899年《台南新報》として創刊,1937年改題)などがあったが,《台湾日日新報》は《台湾総督府府報》,台北州庁の《台北州報》,市役所の《台北市報》を付録として配布,植民地機構の準広報紙として勢威をふるった。…

【東洋史学】より

…創立期の東大東洋史学を代表する白鳥庫吉は,欧米風の方法に立って日本・中国の古典の信憑性を強く批判し,また西域・満鮮の諸民族の研究に先鞭をつけた。 一方1907年に開設された京都帝国大学東洋史学講座には在野の内藤湖南,ついで東大漢文学出身の桑原が招聘された。京大では中国哲学,中国文学とともに伝統的学問をふまえた,いわゆるシナ学的学風を創出した。…

【邪馬台国論争】より

…これを受けて,久米邦武は,邪馬台国山門郡説を支持し,〈邪馬台の考証時代は既に通過したり,今は其地を探験すべき時期に移れり〉と喝破した。 邪馬台国論争の火ぶたは,1910年に白鳥庫吉の邪馬台国九州説,内藤湖南の大和説によって切られた。白鳥は〈邪馬台国への道〉,すなわち里程論や日程論を精緻に展開して,邪馬台国の領域を北九州全域に求め,その都を肥後国内に求めた。…

※「内藤湖南」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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