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内藤湖南 ないとう こなん

美術人名辞典の解説

内藤湖南

東洋学者。秋田県生。名は虎次郎、湖南は号。初め新聞記者となり、中国問題第一人者として活躍する。訪中六回、羅振玉・王国維ら清末の学者、熊希齢ら民国の政治家と交わる。のち京大教授となり、狩野君山と共に東洋史の〈京都学派〉を育てた。中国学及び東洋史学の権威者である。学士院会員・東方文化学院評議員。著書に『支那絵画史』『日本文化史研究』等がある。昭和9年(1934)歿、69才。

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デジタル大辞泉の解説

ないとう‐こなん【内藤湖南】

[1866~1934]東洋史学者。秋田の生まれ。本名、虎次郎。大阪朝日新聞などの記者を経て京大教授となり東洋史学を担任、中国史学の発展に貢献した。著「日本文化史研究」「支那史学史」など。

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百科事典マイペディアの解説

内藤湖南【ないとうこなん】

東洋史学者。秋田県生れ。本名虎次郎。秋田師範卒後,雑誌《日本人》や《大阪朝日新聞》《万朝報》で記者として活躍。1907年京都大学東洋史講座に迎えられ,のち教授。
→関連項目朝日新聞宮崎市定羅振玉

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

内藤湖南 ないとう-こなん

1866-1934 明治-昭和時代前期の東洋史学者。
慶応2年7月18日生まれ。「大阪朝日新聞」「万朝報」などの記者として活躍。明治42年京都帝大教授。中国史の時代区分などの研究で独自の理論をたてた。学士院会員。昭和9年6月26日死去。69歳。陸奥(むつ)鹿角郡(秋田県)出身。秋田師範卒。名は虎次郎。著作に「燕山楚水(えんざんそすい)」「日本文化史研究」など。
【格言など】(日本の歴史は)応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です(「日本文化史研究」)

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世界大百科事典 第2版の解説

ないとうこなん【内藤湖南】

1866‐1934(慶応2‐昭和9)
東洋史学者。秋田県鹿角郡毛馬内(けまない)町(現,鹿角市)の儒者の家に生まれる。名は虎次郎,湖南はその号。県立秋田師範学校を卒業,小学校教師を約1年,ついで上京して仏教雑誌《明教新誌》の編集者,三宅雪嶺らの政教社の《日本人》の編集者,《大阪朝日新聞》記者,《台湾日報》主筆,再び朝日にかえって論説担当など,40歳まではもっぱらジャーナリズム界で活躍したが,その間も中国の学術全般についての研究を深め,ことに日本の中国学研究が旧来のいわゆる漢学でなく,清朝風な実証学でなければならぬことを確信し提唱。

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大辞林 第三版の解説

ないとうこなん【内藤湖南】

1866~1934) 東洋史学者。秋田県生まれ。本名、虎次郎。新聞記者として中国論を展開、のち京大教授となり東洋史の京都学派をなした。主著「近世文学史論」「支那史学史」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

内藤湖南
ないとうこなん
(1866―1934)

歴史学者、評論家。文学博士。名は虎次郎(とらじろう)、湖南はその号。慶応(けいおう)2年旧南部(なんぶ)藩(秋田県毛馬内(けまない))に生まれる。秋田師範学校卒業。東京に出てジャーナリズムに入り、台湾にも渡ったが、やがて大阪朝日新聞社で論説担当者となり、中国問題の論壇第一人者として外務省の対華政策にも献言する。1907年(明治40)狩野亨吉(かのうこうきち)によって京都帝国大学に招かれ、2年後教授、東洋史学担任、翌年文学博士となった。のち帝国学士院会員。この間渡欧し、敦煌(とんこう)文書の調査研究を行う。1926年(大正15)退官後、京都府瓶原(みかのはら)村(現木津川(きづがわ)市)で恭仁(くに)山荘を営み、読書生活に入る。国宝保存会委員などの要職を続け、昭和9年没、69歳。
 初期の『近世文学史論』で文名をあげ、『燕山楚水(えんざんそすい)』で中国研究の地歩を築き、『日本文化史研究』『支那(しな)論』『研幾小録(けんきしょうろく)』のほか中国史の研究書が多く、『内藤湖南全集』14巻(筑摩(ちくま)書房)がある。明治文壇の評論家、書家としても有名であるが、中国史学者として独自の科学的学風を樹立し、日本の新しい中国研究の開創者となった。[金谷 治]
『小川環樹編『日本の名著41 内藤湖南』(1971・中央公論社)』

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世界大百科事典内の内藤湖南の言及

【台湾日日新報】より

…日本の台湾領有時代に発行された代表的な植民地新聞で,本社は台北に置かれた。台湾における日本語新聞は,1896年(明治29)《台湾新聞》《台湾日報》の2紙が創刊され,前者には田川大吉郎,後者には内藤湖南がよって日本の台湾統治方針について大論戦を行うなどしていたが,98年に合併,《台湾日日新報》(社長守屋善兵衛)として新発足した。同地には台中市に本拠を置く《台湾新聞》(1901年《台中毎日新聞》として創刊,07年改題),《台湾日報》(1899年《台南新報》として創刊,1937年改題)などがあったが,《台湾日日新報》は《台湾総督府府報》,台北州庁の《台北州報》,市役所の《台北市報》を付録として配布,植民地機構の準広報紙として勢威をふるった。…

【東洋史学】より

…創立期の東大東洋史学を代表する白鳥庫吉は,欧米風の方法に立って日本・中国の古典の信憑性を強く批判し,また西域・満鮮の諸民族の研究に先鞭をつけた。 一方1907年に開設された京都帝国大学東洋史学講座には在野の内藤湖南,ついで東大漢文学出身の桑原が招聘された。京大では中国哲学,中国文学とともに伝統的学問をふまえた,いわゆるシナ学的学風を創出した。…

【邪馬台国論争】より

…これを受けて,久米邦武は,邪馬台国山門郡説を支持し,〈邪馬台の考証時代は既に通過したり,今は其地を探験すべき時期に移れり〉と喝破した。 邪馬台国論争の火ぶたは,1910年に白鳥庫吉の邪馬台国九州説,内藤湖南の大和説によって切られた。白鳥は〈邪馬台国への道〉,すなわち里程論や日程論を精緻に展開して,邪馬台国の領域を北九州全域に求め,その都を肥後国内に求めた。…

※「内藤湖南」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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