日本大百科全書(ニッポニカ) 「冨田才治」の意味・わかりやすい解説
冨田才治
とみたさいじ
(1724―1772)
肥前国唐津(からつ)藩領松浦(まつら)郡平原(ひらばる)村(佐賀県唐津市浜玉町)の大庄屋(おおじょうや)。虹の松原(にじのまつばら)一揆(いっき)の指導者。唐津藩は譜代(ふだい)藩であったが、水野忠任(ただとう)入封に際し諸制度の改正が行われ、それが領民の不満を引き起こした。1771年(明和8)7月に郡中惣(そう)百姓名で六か条の要望書が唐津藩に出された。すなわち、荒蕪(こうぶ)地や年貢免除地への課税の取りやめ、年貢桝(ます)の改正反対、楮(こうぞ)勝手販売、新規運上の廃止などを内容とするものであった。7月22日、領民2万3000人は幕領境の虹の松原に結集したが、この一揆勢の要求実現に努力し指導的役割を果たしたのが冨田才治であった。8月9日、藩は一揆勢の要求のほとんどを認めたが、才治は事件後、他の3人とともに自訴し、首謀者として明和(めいわ)9年3月11日唐津西の浜で刑死した。村人は才治を救農の恩人として「才治(しゃーり)様」祠(し)を建立した。
[長野 暹]