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一味同心という連帯の心性を共有する人々で構成された集団。日常性をこえた問題,通常の手段では解決が不可能であると考えられた問題を解決することを目的にして結成された,現実をこえた非日常的な集団が一揆である。一揆は,現実には個々ばらばらの利害の対立を示す社会的存在としての個人を,ある共通の目的達成のためにその関係を止揚して,一体化(一味同心)した。そのために一揆に参加する個々のメンバーが現実をこえた存在となることを目的とした誓約の儀式が必要であり,それが一味神水であった。一揆に参加するメンバーがその共通の目的達成のため,それぞれの現実の社会的諸関係を断ち切ったところで,はじめて一揆という集団の結成が可能であったのであり,一揆はその目的のためにつくられ,その目的のためにのみ機能する非日常的集団として存在した。一揆は,ある特定の歴史的状況のもとでは,組織化され構造化することもあったが,本来は目的達成あるいはその挫折によって解消されるのがその本質であって,今日的な言葉でいえば,組織体ではなくむしろ運動ないしは運動体に近い性格をもっていた。
一揆とは,本来中国の言葉で,〈揆(みち)をひとつにする〉という意味であるが,日本でも平安時代の初め〈かれこれ一揆〉〈古今一揆〉などとあるように,〈一致〉〈一致する〉という意味で日用語化している。この用法は鎌倉時代においても同じで,ここでは,〈一味同心〉という状態と結びついておらず,一揆という言葉が一味同心というあり方と結びついてそのような集団をさすようになるのは鎌倉時代後期,14世紀以降である。そして,江戸時代幕藩制下においてあらゆる一揆が禁止されると,その公的文書では,一揆という言葉は徒党,騒動などの語におきかえられ,ほとんどその姿を消す。ところで,この一揆のあり方の基本をなす一味同心は,非常に古くから存在しており,言葉とは別に,実態としての〈一揆〉は日本固有の存在として古くから存在したことが知られる。おそらく,一味神水の作法から考えて,これを生みだした胎盤として,非血縁的な他者を神を媒介として結びあわせ共同作業を行った祭祀集団,祭りの構造が想定される。
つぎに一揆集団の特徴であるが,その参加メンバーは,神との一体化意識にささえられ,現実の社会的規範・秩序などから解放され,その目的に応じたさまざまの人間に変身する。一揆結成の際に作成される一揆契約状に傘連判(からかされんばん)がみられることからも知られるように,一揆のメンバーは全員平等で,その集団意志の決定(衆議)は多数決制を原則とした。また鎌倉幕府,中世寺院の評定会議が,公正な判決を下すために一揆を結び,その裁判官の中立,裁判の独立を保持しようとしたように,一揆のメンバーは,その内部で主体的行動をとることが求められ,一揆そのものも上部権力,他集団からの強い自律性をその特徴としていた。このような一揆に流れる強い変身観念は,しばしばその参加メンバーの姿,形で表示された。戦場における一致団結のために結ばれた軍陣一揆は,一揆のメンバーであることを種々の統一的シンボル・カラーなどで表している。江戸時代の百姓一揆は通常簑笠姿であり,そのほか乞食姿,非人姿などをとった。これは一揆を結び領主-領民の関係を断ち切ったことをおのずから形で表明したものといえる。
一揆を結んだ人々には一揆の決定,要求,行動は正義にもとづくという確信が強く流れているのが特徴である。そして,その力は,権力や社会の法,規範をも打ち破るものと考えられていた。そのため人々は現実の困難な課題に立ち向かうとき一揆を結成したのであり,これら正義感情,力の確信は,一揆の決定は神慮すなわち神の意志だという観念にささえられていたのである。この観念は,中世社会にあってはなお支配者もわかちあっていたので,あらゆる階層に,それぞれの目的に応じてさまざまな一揆が結ばれ,一定の力を発揮することができた。近世においては,この一揆の観念は権力によって否定されたが,農民はこれを継承し,一揆を結んでみずからを神の意志にもとづいたその代行者と位置づけ,厳しい弾圧に抵抗した。この一揆の力は,特殊な効力をもつものとして寺院,村などの法,規約,さらには諸団体の相互協約などに用いられたが,一般的には,弱者の強者に対する最も有効な抵抗手段として利用された。農民の一揆は主に,一揆→強訴(ごうそ)→逃散(ちようさん)または打毀(うちこわし)という形態をとったが,この過程には一貫して一揆の主張がみられ,その威力を発揮した。とくに一揆の力は〈一同(当該関係者全員)〉の参加によってその力が強力になるという考え方が存在し,惣村の成立によって全員参加が可能となって以降,農民一揆の力は一段とその威力を増した。この一揆の一同の観念は江戸時代の百姓一揆にも強く流れていた。
→一向一揆 →国一揆 →荘家の一揆 →土一揆 →徳政一揆 →馬借(ばしゃく)一揆 →百姓一揆
執筆者:勝俣 鎮夫
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日本中・近世社会に固有な武士・農民の結合および行動様式。「揆(き)を一(いつ)にする」意から、一致団結することを意味するようになり、一致した集団行動に対して用いられるようになる。
鎌倉時代には、武家が一揆して党をつくるなどに用いられているが、南北朝の内乱期以降、14世紀から16世紀には、「一揆の世」といわれているほど多様な形態の一揆が頻発し、政治に大きな影響を与えるようになる。まず、南北朝期に武家らの党や集団を一揆というようになり、土着の武士である「国人(こくじん)」の地域的結合である国人一揆が生まれた。しかしこのころ畿内(きない)近国の農村では、不法な代官の罷免や年貢減免を求める名主(みょうしゅ)を中心とする「庄家(しょうけ)の一揆」が組織されるようになり、これがその後、争乱、そして収奪強化、高利貸支配による生活不安などが増大すると、年貢減免や新税賦課反対を領主に求めたり、徳政を求めて結集し実力でかちとる土(つち)一揆へ発展し、1428年(正長1)の大一揆以降、主流となる。土一揆は「土民」の一揆ということであるが、一揆を組織し指導したのは国人で、名主・地侍らの農民が主体となり、それに馬借(ばしゃく)・都市貧民などが加わる場合が多い。しかし、15世紀末土一揆を主導してきた国人が農民支配を強化し、山城(やましろ)(京都府)でみられたように国一揆を組織するようになると、土一揆はしだいに減少し、戦国時代には一向(いっこう)一揆など宗教的色彩を帯びるようになる。ただこれも信仰的結合というより、大名に抵抗するために農民を巻き込んだ国人らの一揆の性格が強い。
織豊(しょくほう)政権による全国統一は、こうした一揆勢力の一掃によって初めて確立したので、彼らは徹底的な弾圧に出たが、検地反対一揆が組織されるなど在地の小領主から最後まで抵抗された。ただし兵農分離が貫徹し、武士の反乱が否定された江戸時代には、武士にかわって農民が幕藩領主の圧政に抵抗する百姓一揆が組織されるようになった。百姓一揆は江戸時代を通して約3200件起こっているが、江戸初期には村役人による越訴(おっそ)(代表越訴型)、中期には全領民参加の惣百姓(そうびゃくしょう)一揆、そして幕藩制が動揺し商人や地主が勢力を台頭させるころには、おもに彼らと領主とを相手とする世直し一揆(騒動ともいう)へと発展し、幕末期には数多く起こり、政局に少なからず影響を与えた。こうした百姓一揆は、いずれも持続性がなく要求実現後すぐ解散するものであったが、明治維新後も新政府の政策に対して各地で組織され、地租改正反対一揆などを起こしている。しかし自由民権運動などの高揚のなかで、新たな運動方法がみいだされ消滅する。
[青木美智男]
『青木美智男他編『一揆』全5巻(1980~82・東京大学出版会)』▽『勝俣鎮夫著『一揆』(岩波新書)』
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一味同心という連帯感を共有する人々の集団。本来の語義は「揆(みち)を一つにする」こと。日常的な方法では実現困難な,共通の目的を達成するために結成された。中世には大名から村落住民までさまざまな階層で一揆が形成されて,戦場で共闘すべき一族や地縁的集団の団結を固めたり,寺院や村において遵守すべき掟を定めたり,外部勢力の侵入に対して地域住民が団結したり,支配者の不法に対して抵抗したりした。こうした目的のために,日常的な社会関係を止揚して全員が平等の資格で合議し,多数決により集団意志の決定を行う集団が,一味神水(いちみしんすい)という神前における誓約の儀式をへて結成された。一揆は神の意志を帯した集団と考えられたために,大きな力を発揮した。近世では,一揆行為は全面的に禁圧されたが,一味神水による一揆結成の慣行は残った。百姓らの幕藩領主に対する強訴(ごうそ)・逃散(ちょうさん)などの抵抗を百姓一揆とよぶ。
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…江戸時代,百姓・町人の中下層身分による大庄屋・庄屋層,地主・在方商人・都市富商などの豪農商の家屋・家財・生産用具類を破壊し,被害を与えた闘争手段で,近世の階級闘争のなかで最も激化した形態の一つである。とくに都市では飢饉その他による米価騰貴を原因とする都市下層民衆の米一揆=米騒動に伴う打毀が多く,500件近い近世都市騒擾の約半分は打毀が占める。したがってふつう打毀というと,近世都市の米一揆とみなして理解されることが多い。…
…北畠氏との関係は戦国末年の北畠氏の滅亡まで継続し,その間,伊勢に飯高(いいたか)郡神戸六郷,一志(いちし)郡小阿射賀(こあざか),多気(たき)郡御糸(みいと)などの分領を宛て行われ,軍役を奉仕している。その一方,本貫である大和宇陀郡では秋山氏,芳野氏等の有力国人とともに郡内一揆を結成し,北畠氏の権力すら容易に介入しえない自治区を創出した。郡内一揆に関しては,その文書中に宇太水分(みくまり)神社(現,菟田野町古市場)の社頭で誓約した享禄5年(1532)6月29日付の郡掟等,重要史料を残している。…
…年貢・公事は〈公平〉でなくてはならなかったのであり,限度をこえた負担を平民たちは積極的に拒否したのである。さらに南北朝時代にかけて,上層・下層のすべての平民たちが〈惣百姓〉〈惣荘〉の名において,一味同心(いちみどうしん)・一揆を結び,代官の罷免を要求して逃散することも広く見られるようになってくる。逃散は古くから,〈山林に交じる〉といわれたが,聖地でありアジールであった山林に,平民たちは実際にこもり,また室町時代には柿帷(かきかたびら)や蓑笠をつけて乞食の姿をし,世俗の縁から切れたことをみずからの衣装で示すことも行ったとみられる。…
※「一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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