北莇生村(読み)きたあざぶむら

日本歴史地名大系 「北莇生村」の解説

北莇生村
きたあざぶむら

[現在地名]三好町莇生あざぶ

現町域の中央部にあり、さかい川に架かる境川橋の東に位置する。しん池・ッ池・ふな池・鷹羽たかばヶ池・摺鉢すりばち池・平七へいしち池などの九つの溜池がある。貞治三年(一三六四)の上葺勧進帳(猿投神社文書)には「七百五十文 莇生郷村人」とみえる。

近世初めは岡崎藩領、慶長五年(一六〇〇)岡崎藩領・幕府領、承応二年(一六五三)幕府領・旗本内藤三之助忠吉領となり、内藤氏領は明治維新まで続く。幕府領のうち一部は万治元年(一六五八)旗本松平但馬守知乗領、一部は延宝八年(一六八〇)旗本内藤伊織忠知領、残りは元禄年間(一六八八―一七〇四)旗本松平伝七郎乗明領となり、いずれも明治維新まで続く。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む