三好町(読み)みよしちよう

日本歴史地名大系 「三好町」の解説

三好町
みよしちよう

面積:五四・八四平方キロ

郡の北部、吉野川左岸に位置する。東は三野みの町、西は池田いけだ町、南の吉野川対岸は井川いかわ町および三加茂みかも町、北は標高八〇〇メートル級の山が連なる讃岐山脈を挟み香川県仲多度なかたど仲南ちゆうなん町、同県三豊みとよ財田さいた町。讃岐山脈から小川谷おがわだに川・増川谷ますかわだに川・黒川原谷くろかわらだに川などが南流する。吉野川北岸に平野が形成されているが、町域の約八割が山地である。平野部を東西に主要地方道鳴門―池田線が通る。南北には町域中央部を主要地方道丸亀―三好線が通り、東山ひがしやま峠を越えて仲南町に抜ける。吉野川には美濃田みのだ大橋に加え、三加茂町に連絡する三三大さんさんおお橋が開通した。町域西部をJR土讃線が通るが駅はない。

阿讃山脈麓の段丘上および吉野川沿いの沖積地において多数の考古遺跡が確認されている。町域内では八五の埋蔵文化財包蔵地が知られてきた。平成七年(一九九五)以降、四国縦貫自動車道の建設等に伴い発掘調査が実施され、新たな遺跡が明らかになった。旧石器時代には中位段丘上に立地する昼間の土取ひるまのつちとり遺跡からサヌカイト製ナイフ形石器が出土している。縄文時代になると低位段丘上位面、下位面や沖積地においても遺跡が確認される。低位段丘上位面上に立地する昼間の土井どい遺跡からは中期の小河川が確認されている。また吉野川の中洲性微高地上に立地する昼間の大柿おおがき遺跡からは、晩期の石鍬埋納遺構、柱穴・土坑等が確認された。

三好町
みよしちよう

面積:三二・二〇平方キロ

町域の東端を逢妻女あいづまめ川支流前川が流れ、西端をさかい川が流れ、南北に細長い町である。中央部にある最大規模の三好池をはじめとして中小の溜池がほぼ全域に点在する。愛知用水三好支線が町の中央を南北に縦断し、黒笹くろざさから莇生あざぶにかけて東名高速道路が横切る。愛知用水の完成によって、昭和三〇年代以降工場や宅地となり廃池された池は三四池にのぼる。挙母ころも(現豊田市)から莇生・新屋あらやを通り諸輪もろわ(現愛知郡東郷町)に抜ける挙母街道と、福谷うきがいから莇生新田・新屋・三好・福田ふくたを通り知立ちりゆう(現知立市)に抜ける鎌倉街道が通る。

町域はもと碧海へきかい郡に属し、元文五年(一七四〇)の「三河国二葉松」でも碧海郡内に含めている。

三好町
みよしちよう

[現在地名]江東区平野ひらの三―四丁目

仙台せんだい堀の枝川北岸沿いに東西に延びる町屋。深川築地二四ヵ町の一。深川三好ふかがわみよし町とも称した。片側町で、西は西永にしなが町、北は元加賀もとかが町・海辺大工うみべだいく町、東は猿江さるえ町代地・扇橋おうぎばし町・島崎町続しまざきちようつづき町・御書院番堀数馬屋敷。文政町方書上によると、元禄一四年(一七〇一)六月町人の中川屋佐兵衛・堺屋次右衛門・斎藤屋伊左衛門の三名が代官所に願出て、元加賀新田の茅野を買請けて町場となった。同一六年町名がついて正徳三年(一七一三)町奉行支配となる。文化九年(一八一二)には北方の元加賀町との境界にある道路が、往来もなく葭や茅が生茂っているため不用心でもあり、道路を狭めて新規町屋敷にしたい旨を町奉行に願出て許され、地主らが所持することとなった。

三好町
みよしちよう

[現在地名]上田市大字諏訪形・大字御所

千曲川に架かる上田橋から南へ延びる国道一四三号沿いの町。この辺り近世には諏訪形すわがた村と御所ごしよ村の村境であったが、明治二三年(一八九〇)上田橋の竣工に伴い、上田町から、この橋を通り松本(現松本市)に通ずる県道第二線路(現国道一四三号)ができたことによって川西・塩田方面から上田町への玄関口となり、道路の両側に商工業者が徐々に軒を連ね町並を形成した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三好町」の意味・わかりやすい解説

三好〔町〕
みよし

みよし市」のページをご覧ください。

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