十津川湯
とつかわのゆ
中世の記録に十津川湯がみえ、大字武蔵の湯泉地温泉のことと推察される。「私心記」の天文二二年(一五五三)二月四日条に「朝依咳気御堂ヘ不出仕候。雪降候。賢勝今朝トツ川湯ヘ入レ候。百疋ト紙被遣候」とある。ほかに天正九年(一五八一)八月に佐久間信盛(多聞院日記)、同一四年四月に本願寺顕如(宇野主水記)、文禄四年(一五九五)四月に郡山城主豊臣秀保(多聞院日記)が療養のため入湯している。信盛は高野聖に殺され、秀保は誤って河へ落ちたというが殺害されたのではないかとの噂もあり、いずれも事件になったので十津川湯が記録に残った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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