佐久間信盛(読み)さくまのぶもり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐久間信盛」の意味・わかりやすい解説

佐久間信盛
さくまのぶもり
(?―1582)

戦国時代から安土(あづち)桃山時代の武将。出羽介(でわのすけ)、右衛門尉(うえもんのじょう)。織田信長老臣佐久間氏は安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)から尾張(おわり)(愛知県)に移る。のちその家は山崎城(名古屋市南区)と五器所(ごきそ)城(同昭和区)との2家に分かれた。信盛は山崎城主。1572年(元亀3)徳川家康援軍として、遠江(とおとうみ)三方ヶ原(みかたがはら)(浜松市)で武田信玄(しんげん)と戦い惨敗。76年(天正4)以来、石山本願寺攻囲に参戦したが、80年開城後、戦功のないことなどを問責され、高野山(こうやさん)に追放された。茶道にも造詣(ぞうけい)がある。

奥野高広

『奥野高広・岩沢愿彦校注『信長公記』(1969・角川書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「佐久間信盛」の意味・わかりやすい解説

佐久間信盛 (さくまのぶもり)
生没年:1527-81(大永7-天正9)

戦国期の武将。尾張の織田信長の家臣近江永原の長光寺城を預かる。1570年(元亀1)近江の六角義賢を破り頭角を現し,75年(天正3)武田氏との長篠の戦で活躍し,その賞として三河の水野信元の遺領を与えられる。翌年,一向一揆の本拠である石山本願寺の攻撃のため出陣。以後5年間,戦果のあがらぬ責を負わされて,80年に改易。高野山に謹慎の後,熊野で死没
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐久間信盛」の解説

佐久間信盛 さくま-のぶもり

1527?-1581 戦国-織豊時代の武将。
大永(たいえい)7年?生まれ。佐久間信晴の長男。織田信秀につかえ,織田信長の重臣となる。長篠(ながしの)の戦い,一向一揆(いっき)の鎮圧などに功があった。天正(てんしょう)4年からの石山本願寺攻めで総大将となるが,8年その無策をとがめられ,高野山に追放された。天正9年7月24日死去。55歳?尾張(おわり)(愛知県)出身。通称は右衛門尉。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐久間信盛」の意味・わかりやすい解説

佐久間信盛
さくまのぶもり

[生]? 尾張
[没]天正10(1582).紀伊
安土桃山時代の武将。正盛の子。右衛門尉と称した。初め織田信秀に仕え,のち信長に従って近江佐々木氏の征討,比叡山の焼打ち,三方ヶ原の戦い,朝倉氏の征討,一向一揆の鎮圧,松永氏の討伐に功があった。天正8 (1580) 年信長に追放され,高野山に入り落飾した。

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