朝日日本歴史人物事典 「佐久間信盛」の解説
佐久間信盛
生年:大永7(1527)
戦国・安土桃山時代の武将。佐久間信晴の子として尾張に生まれる。はじめ牛助,次いで出羽介,右衛門尉を称した。織田信秀に仕え,信長が家督相続をするときこれを支持し,以後,信長の信任を得たといわれる。永禄11(1568)年の信長の上洛に従い,京都の治安維持に努め,次いで近江永原城を預けられ,柴田勝家と共に,近江から六角承禎(義賢)の勢力を掃討するのに力があった。元亀3(1572)年12月の遠江三方ケ原の戦に,徳川家康の援軍として浜松城に送られたが,このときは完敗を喫している。長篠の戦,伊勢長島一向一揆との戦,越前一向一揆との戦など,信長の戦闘のほとんどに参陣しているが,なかでも天正4(1576)年から本格化した石山本願寺包囲戦では,その中心的な位置にあった。ところが石山本願寺が降服してきた直後の同8年8月,「無為に五カ年間を費した」と信長から問責され,子正勝ともども高野山に追放される。明智光秀の讒によるとも,実際,茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからともいわれているが,真相は不明で,信長のいわゆる「捨て殺し」政策の犠牲になったとされる。剃髪して宗盛と号したが,紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお,子正勝はのちに許されて織田信長に仕え,不干斎と号して豊臣秀吉の御咄衆となり,茶人としても名を残している。
(小和田哲男)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報