日本大百科全書(ニッポニカ) 「古人皇子」の意味・わかりやすい解説
古人皇子
ふるひとのおうじ
(?―645)
舒明(じょめい)天皇の皇子。母は蘇我臣馬子(そがのおみうまこ)の娘の法提郎女(ほてのいらつめ)。大市皇子、吉野太子ともいわれた。葛城(かつらぎ)皇子(中大兄(なかのおおえ)、天智(てんじ)天皇)、大海人(おおあま)皇子(天武(てんむ)天皇)の異母兄。643年(皇極天皇2)11月の上宮王家滅亡事件で大兄山背(やましろ)皇子が殺されたあと、蘇我鞍作(くらつくり)(入鹿(いるか))によって大兄にたてられたとみられる。645年(大化1)6月に蘇我本宗家が滅ぶと、新政権の天皇に軽(かる)皇子(孝徳(こうとく)天皇)を推し、出家して吉野山に入った。同年9月、従者の吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)が、古人皇子らが蘇我田口臣川堀らと謀反を企てていると新政権に密告したため討伐を受けた。さらに11月には阿倍渠曽部臣(あべのこそべのおみ)、佐伯部子麻呂(さえきべのこまろ)らの強力な討伐を受けて子とともに殺され、妃妾(ひしょう)は自殺した。ここに蘇我系の皇子は絶えた。これより先、古人皇子の娘の倭姫王(やまとひめのおおきみ)は葛城皇子の妃となっており、その即位(天智天皇)とともに皇后となった。
[門脇禎二]